「……」
胸の奥へ。
小さな何かが落ちた。
布団から少しだけ顔を出す。
「……責任?」
「ああ」
遼河さんの表情は真剣だった。
「中途半端なことをするつもりはない」
その言葉が。
嫌だったわけではない。
むしろ。
遼河さんらしいと思った。
昨日。
あれだけ気持ちを伝えてくれた。
何年も探してくれていた。
愛されていないなどとは。
もう思っていない。
それでも。
“責任”という二文字だけが。
幸せで満たされていた胸の中へ。
ほんの小さな棘のように残った。
「……そんなに急がなくてもいいんじゃない?」
「急いでない」
「十分早いです」
「俺は十三年待った」
「私も十三年です」
「なら問題ない」
「あります」
「どこに」
「そういうところ」
遼河さんが笑う。
私は少し膨れながら。
その横顔を見ていた。
この人は。
たぶん。
ずっとこうなのだ。
私が一歩進むと。
もう三歩も四歩も先を見ている。
恋人になったら。
次は結婚。
その先の生活。
将来。
守るもの。
全部を考える。
それが。
遼河さんの愛し方なのだと思う。
分かっている。
嬉しくないわけではない。
だけど。
私は。
やっと。
一歩目を踏み出したばかりだった。
ずっと閉じていた扉を。
ようやく開けたところ。
だから。
もう少しだけ。
今を歩きたかった。
恋人として。
好きな人と。
普通に笑って。
普通に出掛けて。
一緒にいる時間を重ねて。
その先で。
自分の意思で未来を選びたかった。
その時はまだ。
この小さなずれが。
後になって私を悩ませることになるなんて。
考えてもいなかった。
*
それからの日々は。
不思議なくらい。
同じ景色なのに。
違って見えた。
会社へ行けば。
遼河さんは今まで通り。
藤和CEOだった。
会議室へ入れば、空気が変わる。
役員たちが背筋を伸ばし。
遼河さんの一言で。
大きな金額と。
大勢の人間が動いていく。
私は。
その隣に立つ専属秘書。
「藤和CEO、十四時の会議資料です」
「ああ」
仕事中は。
それだけ。
なのに。
資料を手渡す一瞬。
指先がわずかに触れただけで。
あの夜のことを思い出す。
慌てて手を離せば。
遼河さんの目が。
一瞬だけ笑っている。
――絶対わざと。
そう思って睨んでも。
本人は何もなかったように資料へ目を落とす。
会議中なのに。
こっちだけが落ち着かない。
ある日。
一ノ瀬さんが、ふと首を傾げた。
「最近さ」
「はい?」
「藤和CEO、機嫌よくない?」
持っていたタブレットを落としかけた。
「……そうですか?」
「うん」
一ノ瀬さんは真剣な顔で考える。
「怖さ二割減」
「それでも八割怖いんですね」
「そこは変わらない」
思わず笑って。
何とか誤魔化した。
でも。
仕事を離れれば。
もっと大変だった。
『夕飯は』
突然届くメッセージ。
『食べました』
数秒後。
『何を』
『尋問ですか?』
『確認だ』
『ちゃんと食べました』
『何を』
しつこい。
『……パスタ』
『野菜は』
思わず画面を睨む。
『お母さんですか』
少しして。
『違う』
それだけ返ってきた。
「分かってますよ……」
一人で呟いてから。
笑っている自分に気づく。
会食が終われば。
迎えに来る。
遅くなれば。
当たり前のように送る。
休みの日には。
知らないうちに私の予定へ入り込んでいる。
ある休日。
マンションを出たところで。
壁にもたれて待っている遼河さんを見つけた。
「……今日、来るって言いました?」
「言ってない」
「じゃあ何でいるの」
「会いたかったから」
あまりにも。
普通に言われた。
それが当然だと言わんばかりの顔で。
返事ができなくなった。
十三年前。
一度でも。
そんな言葉を聞けていたら。
私はどうしていただろう。
きっと。
嬉しくて眠れなかった。
たった一言を。
何日も大事に抱えていたと思う。
でも。
もう。
過去の自分ばかり見ていたくなかった。
今。
目の前にいる遼河さんを。
ちゃんと見ていたかった。
少しずつ。
恋人という関係にも慣れていった。
手を繋ぐこと。
隣を歩くこと。
何でもない夜に。
二人で食事をすること。
車の中で。
仕事とは関係のない。
くだらない話をすること。
「それ、笑うところ?」
「面白いから笑った」
「私、真面目に話してるんですけど」
「だから面白い」
「失礼」
そんなやり取りすら。
愛おしかった。
誰にでもありそうな。
何でもない時間。
それが。
私には全部。
新しかった。
そして。
嬉しかった。
胸の奥へ。
小さな何かが落ちた。
布団から少しだけ顔を出す。
「……責任?」
「ああ」
遼河さんの表情は真剣だった。
「中途半端なことをするつもりはない」
その言葉が。
嫌だったわけではない。
むしろ。
遼河さんらしいと思った。
昨日。
あれだけ気持ちを伝えてくれた。
何年も探してくれていた。
愛されていないなどとは。
もう思っていない。
それでも。
“責任”という二文字だけが。
幸せで満たされていた胸の中へ。
ほんの小さな棘のように残った。
「……そんなに急がなくてもいいんじゃない?」
「急いでない」
「十分早いです」
「俺は十三年待った」
「私も十三年です」
「なら問題ない」
「あります」
「どこに」
「そういうところ」
遼河さんが笑う。
私は少し膨れながら。
その横顔を見ていた。
この人は。
たぶん。
ずっとこうなのだ。
私が一歩進むと。
もう三歩も四歩も先を見ている。
恋人になったら。
次は結婚。
その先の生活。
将来。
守るもの。
全部を考える。
それが。
遼河さんの愛し方なのだと思う。
分かっている。
嬉しくないわけではない。
だけど。
私は。
やっと。
一歩目を踏み出したばかりだった。
ずっと閉じていた扉を。
ようやく開けたところ。
だから。
もう少しだけ。
今を歩きたかった。
恋人として。
好きな人と。
普通に笑って。
普通に出掛けて。
一緒にいる時間を重ねて。
その先で。
自分の意思で未来を選びたかった。
その時はまだ。
この小さなずれが。
後になって私を悩ませることになるなんて。
考えてもいなかった。
*
それからの日々は。
不思議なくらい。
同じ景色なのに。
違って見えた。
会社へ行けば。
遼河さんは今まで通り。
藤和CEOだった。
会議室へ入れば、空気が変わる。
役員たちが背筋を伸ばし。
遼河さんの一言で。
大きな金額と。
大勢の人間が動いていく。
私は。
その隣に立つ専属秘書。
「藤和CEO、十四時の会議資料です」
「ああ」
仕事中は。
それだけ。
なのに。
資料を手渡す一瞬。
指先がわずかに触れただけで。
あの夜のことを思い出す。
慌てて手を離せば。
遼河さんの目が。
一瞬だけ笑っている。
――絶対わざと。
そう思って睨んでも。
本人は何もなかったように資料へ目を落とす。
会議中なのに。
こっちだけが落ち着かない。
ある日。
一ノ瀬さんが、ふと首を傾げた。
「最近さ」
「はい?」
「藤和CEO、機嫌よくない?」
持っていたタブレットを落としかけた。
「……そうですか?」
「うん」
一ノ瀬さんは真剣な顔で考える。
「怖さ二割減」
「それでも八割怖いんですね」
「そこは変わらない」
思わず笑って。
何とか誤魔化した。
でも。
仕事を離れれば。
もっと大変だった。
『夕飯は』
突然届くメッセージ。
『食べました』
数秒後。
『何を』
『尋問ですか?』
『確認だ』
『ちゃんと食べました』
『何を』
しつこい。
『……パスタ』
『野菜は』
思わず画面を睨む。
『お母さんですか』
少しして。
『違う』
それだけ返ってきた。
「分かってますよ……」
一人で呟いてから。
笑っている自分に気づく。
会食が終われば。
迎えに来る。
遅くなれば。
当たり前のように送る。
休みの日には。
知らないうちに私の予定へ入り込んでいる。
ある休日。
マンションを出たところで。
壁にもたれて待っている遼河さんを見つけた。
「……今日、来るって言いました?」
「言ってない」
「じゃあ何でいるの」
「会いたかったから」
あまりにも。
普通に言われた。
それが当然だと言わんばかりの顔で。
返事ができなくなった。
十三年前。
一度でも。
そんな言葉を聞けていたら。
私はどうしていただろう。
きっと。
嬉しくて眠れなかった。
たった一言を。
何日も大事に抱えていたと思う。
でも。
もう。
過去の自分ばかり見ていたくなかった。
今。
目の前にいる遼河さんを。
ちゃんと見ていたかった。
少しずつ。
恋人という関係にも慣れていった。
手を繋ぐこと。
隣を歩くこと。
何でもない夜に。
二人で食事をすること。
車の中で。
仕事とは関係のない。
くだらない話をすること。
「それ、笑うところ?」
「面白いから笑った」
「私、真面目に話してるんですけど」
「だから面白い」
「失礼」
そんなやり取りすら。
愛おしかった。
誰にでもありそうな。
何でもない時間。
それが。
私には全部。
新しかった。
そして。
嬉しかった。

