声にならない思いをきみに

朝の光が窓から忍び込むと、愛斗はベッドから起き上がった。廊下には貴之が作った朝ごはんの香りが漂っていて——卵焼きと味噌汁、暖かいご飯と小鉢の漬物がテーブルに並んでいた。
「おはよう。少し早めに作ったから、ゆっくり食べてくれ」
貴之の声に応えて愛斗は座り、温かい朝ごはんを口にした。ふわっとした卵焼きの味が口の中に広がり、一気に眠気が覚めた。食べ終わると、二人はそれぞれ仕事先へと向かう準備を始めた。
愛斗が勤める病院に着くと、すぐに更衣室へ向かった。隣のカーテン越しには涼子の声が聞こえてきて
、「今日も忙しそうだね」
と挨拶すると、 
「そうね、朝から申し送りが多いみたい」
と応えてくれた。愛斗は白い制服に着替え、涼子は淡いピンクのナース服に姿を変えると、二人はスタッフ室へ向かい、朝の申し送りに参加した。
申し送りが終わると、愛斗は血圧計と体温計を抱えて病室棟へ歩いていった。
同時に涼子も別の病室へ向かい、屋二郎さんの担当をしていた。涼子が屋二郎さんのベッドのそばに立ち、体温計を腋下に入れて血圧を測ると、屋二郎さんは枕元に置いてあったノートを手に取り、差し出してきた。
「…見てくれ」
声はかすれていたが、涼子は優しくノートを受け取り、ページをめくった。すると、黒いインクでガシガシと書かれた文字が目に入った——
「早く死ねばいいと思ってんだろ」
涼子は一瞬息を呑んだが、すぐに柔らかい笑顔を浮かべて屋二郎さんに話しかけた。
「私、死ねばいいのにって思ったこと、一度もないよ。あなたが死んだら、私は悲しむから。それに…私、咽頭がんになったの。ステージ3だよ」
屋二郎さんの目が少し大きくなった。涼子は手を胸元に置き、続けて話した。
「がんになったときは、『皆に迷惑かけるから、私なんていないほうがマシだ』って思ったりしてね。食べ物が食べれなくなるし、しゃべれなくなるかもしれないし…何もかもが変わって、私らしくなくなるんだって…でもね、愛斗くんが私のことを、全部受け入れてくれたんです」
屋二郎さんは唇を細め、ゆっくりと口を動かした。声は小さくてかすれていたが、はっきりと聞こえた。
「…死ぬな」
涼子は驚いて目を見開き、すぐに顔をほころばせた。
「え? 死ぬな? あら、それって…紫苑色でしょ? 春になったら、あじさいをおってあげるね。屋上にあるベランダに植えて、一緒に見上げるよ」
そう言って涼子はポケットから折り紙を取り出し、指先で巧みに折り始めた。少し後、愛斗が病室にやってくると、涼子は折り終わった折り紙のあじさいを手に、「屋上に行っていい?」と尋ねた。
屋上に上がると、風がそよいで空が広く見えた。涼子は手すりに寄りかかり、少し前を見つめていると、頬から涙が零れ落ちた。愛斗はそっとそばに立ち、慰めるように話した。
「ありがとう、愛斗くん…」
「そっ流れる涙を、その指でぬぐおう。人生はまだこれからだよ。すべてを受け入れるから…君が好きさ」
涼子は驚いて愛斗を見上げ、「え? なんの歌?」と尋ねた。
愛斗は少し恥ずかしそうに笑い、「俺が今作った歌だ」と答えた。
「そうなんだ…」
「うん。今、君のために」
二人はそう言い合い、しばらく風の音を聴きながら空を見上げていた。
その後、愛斗は涼子を病棟へ送り届けると、ナースステーションに戻り、残りの仕事を進めていった。
午後、突然ナースコールが鳴り響いた。愛斗が表示を見ると、屋二郎さんの病室番号だった。慌てて走り込むと、屋二郎さんは苦しそうに体を震わせ、息をはずませていた。愛斗はすぐに医者の広野さんを呼び、指示に従って応急処置をした——酸素マスクをつけ、点滴を打ち、状態を観察し続けた。
しばらくすると、屋二郎さんの苦しそうな表情は和らぎ、一命は取り留められた。最終的には静かに眠りについた。
愛斗はベッドのそばに立ち、少し安心してからナースステーションに戻り、残りの業務を終えた。
仕事が終わると、愛斗は途中でコンビニに立ち寄り、弁当を買って家に帰った。
自室に入ると、まずシャワーを浴びて疲れを流し、それから弁当を温めて食べた。食べ終わると、ケトルで湯を沸かしてカフェオレを入れ、テーブルに座ってスマホを取り出した。
ラインの画面には、涼子からのメッセージが届いていた。
「屋二郎さん、今は大丈夫です。今日はありがとうございました✨」
愛斗は「明日も一緒に頑張ろう」
と返信すると、涼子からすぐに
「うん! おやすみなさい💤」と返ってきた。
愛斗はカフェオレを一口飲み、スマホを置いてベッドに横になった。今日見た涼子の笑顔と、屋二郎さんの「死ぬな」という言葉が頭に浮かび、少しずつ眠りに落ちていった。