不動産王子に求婚されたのでオタクにしてやりました

美月は

桜の太い幹に沿って

ゆっくりと歩いていく

一歩

また一歩

さっきまで達也と話していた場所が

少しずつ

見えなくなっていく

胸の奥が苦しかった

達也の言葉が

まだ頭の中に残っている

『俺だって、本気だったんだよ』

嬉しかった

本当に嬉しかった

だからこそ

苦しかった

美月は目元に残った涙を指で拭う

私は、泣いてはいけない

達也が送り出してくれた

この桜の向こうに

もう一人

自分に答えを求めている人がいる

美月は桜の太い幹に

そっと手を添えた

そして

ゆっくりと反対側へ回る

淡いベージュのスーツに

白いシャツを合わせた男が立っていた

「怜司君……」

怜司が美月を見た瞬間

その目がわずかに細くなった

「美月」

「いたんだね」

「ああ」

「ずっと?」

「ああ」

美月は改めて怜司の服へ目を向けた

「その服……」

怜司が自分の服へ目を落とす

「自分が好きなものを選んだ」
「初めて……」
「自分で……」

美月の表情が

ゆっくりとやわらいだ

「そっか」
「今の怜司君に」
「すごく似合ってる」
「かっこいいよ」

「ありがとう」

怜司はスーツの袖口へ触れた

手を下ろしたかと思うと

今度はジャケットの裾を指先で整えた

美月は

いつになく落ち着かないその手元を目で追った

「怜司君」
「もしかしてだけど……」
「緊張してる?」

「している」

美月が小さく笑った

「それ、認めちゃうんだ」

「ああ」

「すごく?」

怜司は真顔のまま答える

「こんなに緊張したのは初めてだ」

「最終プレゼンより?」

「比較にならない」

美月は笑わなかった

怜司の真剣な目を

真っ直ぐに見返す

「そっか」
「だったら」
「ちゃんと聞かせてね」

「なにをだ?」

「全部」
「正直な気持ちを」
「私もそうする」

怜司は黙ったまま

小さく頷いた

美月は怜司の隣へ並ぶ

桜を見上げた

夕暮れの空を背景に

細い枝が風に揺れている

「達也さんから聞いたよ」
「再開発、御堂不動産に決まったんだってね」
「本当におめでとう」

「ありがとう」
「美月のおかげだ」

「私、なにもしてないよ」

「それは……」
「ちがう」

「桜も残せるんでしょ?」

怜司は桜を見上げたまま答える

「この木だけじゃない」
「残せるものは、できるだけ残す」
「ここにいた人たちの記憶につながるものを」

美月は静かに怜司の横顔を見る

少し前までなら

こんなことを言う人ではなかった

『合理的であるか』

まず、それを考えていたはずだ

「怜司君」

「なんだ」

「本当に変わったね」

怜司が美月を見る

「そうか?」

「うん」

美月は指を折って数え始める

「最初に会ったときなんて最悪だったもの」
「いきなり結婚しろって追いかけてくるし」

「そうだったな」

「私の住んでるアパートを買って」
「私の名前付けちゃうし」

「ああ」

「勝手に隣へ引っ越してくるし」

「ああ」

「会社にすごい音鳴らしてポルシェで迎えに来るし」

「美月を困らせた」
「だが、車そのものが悪かったとは思っていない」

「それじゃ、どう思ってるの?」

「あの時、美月が悲しんだのは」
「別の理由だ」

美月はふっと笑った

「あとは……」

美月の表情から

笑みが消えた

「私を押し倒したこと」

怜司の表情が強張る

「……ああ」

「あの時は」
「本当に怖かったんだよ」
「それに」
「嘘をつかれたと思って……悲しかった」

怜司は目を伏せる

「怜司君」
「もし私が」
「あの時」
「やめてって言えなかったら」
「どうしてたの?」

長い沈黙が落ちた

怜司は拳を強く握る

「止まれなかったかもしれない」
「俺は美月に」
「自分勝手に感情をぶつけたと……思う」

怜司は深く頭を下げた

「許してほしいとは言わない」
「俺がしたことは消えない」
「それでも」
「謝らせてほしい」
「本当に、すまなかった」

「怜司君だから」
「謝られたら……」
「私は許しちゃうよ」
「でも……」

美月は怜司の目を

真っ直ぐに見返す

「でもね、怜司君」
「このこと」
「達也さんに言える?」

怜司は表情を変えず

美月を見つめたまま

何も言わない

「私ね」
「達也さんがこれを知らないまま」
「私たちがどうにかなるって……」
「ずるいって思う」

美月は決意を固めて怜司の目を見た

「怜司君が私の1推し」
「だから」
「達也さんからのプロポーズは断った」
「私は」
「達也さんに正直でいたいから」
「でもね」
「ずるいのは嫌」
「ずるして」
「幸せになるなんて」
「もっと嫌!」
「達也さんに何も言わないで」
「こうなったんだから……」
「私は……」

その時

美月の言葉を遮るように

怜司が答えた

「達也には」
「キャンプに行く前に話した」

「え!?」

「あの日」
「俺が美月にしたことを」
「すべてだ」

美月は息を呑んだ

「それで……」
「達也さんは?」

「俺の右の太ももを」
「10回蹴ってくれた」

美月の視線が

反射的に怜司の右足へ落ちる

「10回も?」

「ああ」

「大丈夫?」

「大腿筋挫傷と診断されたが」
「大丈夫だ」

「それって大丈夫なやつなの!?」

その時

美月の携帯が短く何度も鳴った

美月が携帯を開くと

達也からのラインが届いていた

「まさかとは思うけどよ」
「俺は怜司から全部聞いてる」
「俺と怜司の勝負は」
「最初から正々堂々だ」
「だから」
「わけの分からねえことは絶対すんな」
「意味が分からないなら」
「それでいい」

美月は驚いたまま

ラインの画面を見つめた

達也さんは……

知ってた!?

……って、ことは……

美月はゆっくりと顔を上げ

怜司を見る

怜司はその視線を

真っ直ぐに受け止めた

「美月」
「本当にすまなかった」

美月はしばらく怜司を見つめる

あれ?

私

勝手に思い込んで

とんでもないことを

しようとしてなかった?

「うん……」
「ど、どういたしまして」

自分でも

何を言っているのか分からなかった

「俺が美月に言おうとしていた話を続けてもいいか?」

「どうぞ……」
「おかまいなく……」

怜司は小さく息を吐く

「美月と再会してから」
「俺はアニメや漫画を沢山見た」
「色々なキャラクターを見た」
「なぜ俺が彼らに惹かれるのかを考えた」
「そして分かったんだ」

怜司は握っていた拳を

ゆっくりと開く

「愛することは」
「自分の気持ちを押しつけることじゃない」
「相手を思いやることだと」

美月の肩から

ふっと力が抜ける

その口元に

小さな笑みが浮かんだ

怜司は静かに続けた

「俺は王子になれば」
「美月と結婚できると思っていた」
「だから、それだけを目指してきた」
「美月との約束を守れば」
「俺が欲しかった家族も手に入ると思っていた」

風が吹く

桜の枝が小さく揺れる

「でも」

怜司が美月を見る

「再会して分かった」

「なにが?」

「美月は」
「十五年前の美月ではなかった」

美月の目が少し細くなる

「そりゃそうでしょ」
「十五年も経ってるんだから」

「ああ」

怜司は小さく笑って美月を見る

「オタクになっていた」

「当時から」
「そこそこオタクだったわよ」

「丸眼鏡をかけていた」

「家ではね」
「ママから引き継いだのよ」

「ジャージを着ていた」

「部屋着よ!」
「あれもママから引き継いだ」

「王子様を推していた」

「15年前からそうよ」

「俺のことよりも」
「第一王子が好きだった」
「今もそうかもしれん」

「そ、それは言わないでよ」
「気にしてるの?」

「少しな」

一拍置いて

「いや」
「かなり気にしている」

怜司が小さく息を吐いた

「でも」

その声が変わった

美月は怜司を見る

「それでよかった」

「え?」

「十五年前のままでなくてよかった」

怜司は美月から目を逸らさない

「漫画が好きで」
「アニメが好きで」
「すぐ怒って」
「俺が間違えれば叱ってくれて」
「それでも」
「こうして俺と向き合ってくれて」
「今の美月を知ることができてよかった」

怜司は一歩

美月へ近づく

「もう」
「十五年前の約束だから」
「美月と結婚したいわけじゃない」

美月の胸が大きく鳴った

「あの日」
「美月に出会えたことには感謝している」
「美月がいなければ」
「今の俺はいない」
「でも……」

怜司は真っ直ぐ美月を見る

「俺が一緒にいたいのは」
「記憶の中の美月じゃない」

美月の目が揺れる

「今、俺の……」
「目の前にいる美月だ」

胸の奥が熱くなる

「今の俺が」
「今の美月と一緒にいたい」

美月の目に涙が浮かんだ

「怜司君……」

「この先」
「俺はまた間違えると思う」
「美月を怒らせることもあると思う」
「迷惑をかけることもあると思う」

美月の頬を涙が伝った

怜司がその涙を見る

反射的に手を伸ばしかける

だが

その手が途中で止まった

「美月」

「なに?」

「触ってもいいか?」

美月は目を丸くした

そして

呆れたように笑う

「今、それを聞くの?」

「ああ」

「……いいよ」

怜司の指が

そっと美月の頬へ触れる

指先で

流れた涙を拭う

本当に優しく

壊れ物に触れるように

あの時は

怖いとすら感じた手から

今は

怜司のぬくもりが伝わってくる

美月はゆっくりと目を閉じた

そして

その優しさを確かめるように

怜司の手のひらへ

自分から頬を寄せる

怜司の指先が

わずかに震えた

それから

美月の頬を

そっと包み込んだ

「怜司君」

「なんだ」

「成長したね」

「ああ」

「自分で言うんだ」

「美月が教えてくれた」

「私は……」
「女の子の扱い方なんて教えてないわよ」

怜司は美月の頬から

名残惜しそうにゆっくりと手を離した

そして

ゆっくりと深く息を吸う

美月は怜司の顔を見る

やっぱり緊張している

いつもの怜司とは少し違う

怜司は背広の内側へ手を入れた

小さな箱を取り出す

美月の目が大きく開いた

「怜司君……」

怜司は箱を手にしたまま

美月の前で

地面に片膝をつく

「えっ」
「ズボン汚れちゃうよ」

「アニメや漫画でこうしていた」
「確認した作品で」
「失敗例はなかった」

「そ、そうなんだ……」

怜司が箱を開く

夕暮れの光を受けて

指輪が静かに輝いた

美月は両手で口元を押さえる

美月の涙がまた溢れた

「美月」

怜司が美月を見上げる

「今日」
「ここで」
「改めて申し込みたい」

怜司は真っ直ぐ美月を見つめる

「俺は」
「美月を愛してる」
「これから先も」
「君と一緒に生きていきたい」
「俺と結婚してほしい」

怜司の言葉が

ひとつずつ

美月の胸の奥へ届いていく

前のプロポーズとは全然違う

これが

ずっと

私が聞きたかった

本当に怜司君に言って欲しかった

言葉だった

嬉しい

その一言だけでは

とても足りない

胸の奥から

いくつもの想いが溢れてくる

美月は声が出なかった

涙ばかりが

次々とこぼれる

何度か息を整えて

ようやく声を絞り出した

「怜司君」
「さっきね……」
「達也さんに言われたの」
「王子さまは」
「あっちだぜって」

美月は涙を落としながら笑った

「でもね」
「違うの」

怜司は何も言わず

美月の言葉を待つ

「私」
「王子様だから」
「怜司君を好きになったんじゃない」

怜司の目が少し見開かれる

「お金持ちだからでもない」
「会社の社長だからでもない」
「顔がいいからでも……」

美月は少し考える

「それは……」
「ちょっとあるかもしれない」

「あるのか」

「イケメンだし好みなんだから」
「しょうがないでしょ?」

「そ、そうか」

「でも……」
「それだけじゃないよ」

美月は胸へ手を当てる

「私も今まで」
「ちゃんと言えてなかったね」

美月は怜司を真っ直ぐ見つめる

「私が好きなのは」
「御堂怜司っていう」
「変な男なの」

怜司が黙って美月を見つめ返す

「料理が上手くて」
「野菜を育てるのが好きで」
「実はちょっと天然ボケみたいなところがあって」
「私やアニメのことになると」
「お金の使い方がおかしくなって」

美月の声が震える

「一生懸命に」
「私のことを知ろうとしてくれて」
「どんどん」
「私のために変わってくれたりもして」
「私も……」
「怜司君のために変わりたいなって……」
「もっと」
「怜司君のことを知りたいって思ってる」
「ずっとそばにいて……」
「一緒に変わっていきたいって……」
「ちょっとズレてて、不器用で、変だけど……」

美月の頬を

涙が流れていく

美月は

その涙を拭わなかった

今まで言えなかった想いを

すべて差し出すように

怜司へ

まっすぐに笑いかけた

「そんな……」
「御堂怜司が好き!」

怜司の目が見開かれた

「大好き!」
「怜司君!」

美月は指輪を見る

そして

片膝をついたままの怜司を見る

「だから」

美月は一歩近づいた

「怜司君」
「私と結婚してください!」

怜司は目を見開いたまま

固まって動かない

美月はそんな怜司を見つめて返事を待つ

だが

怜司は何も言わない

美月の涙が少しずつ引いていく

「……あれ?」

固まったまま……

返事をしてくれない……

美月の表情が少しずつ不安そうに変わる

しばらくして

美月が首を傾げる

「怜司君?」
「聞こえた?」

「聞こえている」
「想定していなかった」

「なにを?」

「美月からもプロポーズされるとは」
「想像もしていなかった」

美月がほっとしたように笑う

「な~んだ……」
「嫌だった?」

「そんなわけがない」

「じゃあ」
「返事は?」

怜司はゆっくり立ち上がる

美月の正面に立つ

そして

美月が今まで見たことのないほど

表情を崩して笑いかけた

「これでは逆だ」
「美月に返事をしてもらわねば困る」

美月も笑う

「私も」
「怜司君に返事をしてもらわなきゃ」
「困るな」

二人はそのまま見つめ合う

そして同時に答えた

「はい」
「はい」

怜司が美月の左手を取る

「美月」
「指輪をつけてもいいか?」

美月が笑った

「そこも聞くんだ」

「ああ」

「いいよ」

怜司は美月の左手の薬指へ

ゆっくりと指輪をはめる

指輪が薬指の根元へ収まる

怜司の指が離れても

そこには

やわらかな熱が残っていた

怜司を失った夜に刻まれた指先の痛みが

忘れられていく

今は

怜司のぬくもりが

同じ指に

静かに寄り添っていた

美月は指輪を見つめた

ふと

笑う母の顔が浮かんだ

ママ

私……

一人でいなくても

……いいみたい

夕暮れの光の中で

指輪が輝いていた

「本当に……」
「結婚するんだ」

「ああ」

「なんか変な感じ」

美月は指輪を見つめながら笑う

「美月」
「ありがとう」

美月は改まった様子で深く頭を下げた

「末永く」
「よろしくお願いします」

怜司も真面目な顔で頭を下げる

「こちらこそ」
「末永く」
「よろしくお願いします」

二人は頭を上げて

照れくさそうに笑い合った

やがて

笑みが消えても

二人の視線は

重なったままだった

怜司の視線が

一瞬

美月の唇へ落ちる

美月の胸が

大きく鳴った

美月は怜司から目を逸らさない

すると

怜司は不意に顔を逸らした

「美月」

「へ?」
「な、なに?」

「よければ」
「夕食を食べて帰らないか」
「近くに美味しいイタリアンのお店があるんだ」

「……うん」
「行く」
「泣いたらお腹ペコペコになっちゃった」

「近くに車を止めてある」
「こっちだ」

怜司は歩き出そうと振り返った

美月はその背中を見つめ

じとっとした視線を向ける

こっちは……

逃げなかったのに!

なんだ!?

こいつ!!

「怜司君」
「ちょっと待って」

怜司は肩越しに美月を見る

「どうした?」

美月は頬を赤くして

少しむっとした顔で怜司を見返す

そして

はっきりと言った

「ビビってるのか!?」
「怜司!!」

次の瞬間

怜司が一気に距離を詰めた

美月は目を閉じる

怜司が美月の腰に右手を回し

左手でその顎を持ち上げた

怜司の唇が重なった

美月は少しだけ目を開いて

またゆっくりと閉じる

そして

怜司の背中へ

そっと両腕を回した

しばらくして

二人の唇が離れる

美月は真っ赤になった顔で

怜司を見上げた

胸がうるさいくらいに鳴っている

「やればできるじゃん……」

怜司は何も言わず

美月を見つめる

風が黒い髪をわずかに揺らした

桜の枝には

十月桜の花がぽつりぽつりと咲いている

その淡い花びらが夕日に透けて

静かに輝いた

そして

まるで少女漫画から抜け出してきた王子様のような

完璧な決め顔で

怜司が美月に微笑みかける

「その言葉は」
「やる気が出るんだ」

「え?」

美月が嫌な予感を覚えた瞬間

怜司の腕に

もう一度力が入った

「ちょっ、怜司君!」
「また!?」

そう言いつつ

美月は怜司の背中に回した腕に少しだけ力を込めた

「私には刺激が強すぎるんだけど」

「やればできると言った」

「そういう意味じ――」

美月の言葉は最後まで続かなかった

夕暮れの校庭で

二人の影は

末永く

一つに重なった




『不動産王子に求婚されたのでオタクにしてやりました』 FIN