不動産王子に求婚されたのでオタクにしてやりました

「この一帯の建物は、三か月後から順次取り壊します」

壇上の男は、住民たちのざわめきなど聞こえていないようだった

長身を黒いスーツに包み、整った顔立ちは会場でもひときわ目を引く

けれど、その目には感情らしいものが見えない

無駄のない言葉遣い

スクリーンに映し出されているのは、この一帯の再開発計画だった

古い商店街と、築四十年を超えるアパートを取り壊し、高層マンションと商業施設を建設するらしい

美月が母と暮らしてきたアパートも、赤い線の中に入っていた

「立ち退きに伴う補償については、担当者から個別に説明したとおりです」

男は会場をゆっくりと見渡した

その視線が、ほんの一瞬だけ美月のところで止まる

目が合った

男は何事もなかったように視線を戻す

「ご協力をお願いします」

それだけ言うと、マイクから手を離す

会場のあちこちから、不満の声が上がった

あまりにも一方的だった

もっとも、壇上に立つ彼へ面と向かって文句を言える者はいない

御堂怜司

二十六歳にして、国内有数の新興不動産会社を率いる男

荒れた土地を安く買い、街ごと造り替えて莫大な利益を上げてきたことから、世間では「不動産王子」と呼ばれている

王子という呼び名は、その容姿からつけられたものらしい

悪趣味な呼び名だ

少なくとも美月は、この男に好感を抱ける理由を一つも見つけられなかった

説明会が終わると、美月は配られた資料を鞄に押し込んだ

今の住まいには愛着がある

古いアパートの二階にある、狭い1DK

他人にとっては、ただのボロアパートだろう

けれど美月にとっては、亡くなった母と二人で暮らしてきた大切な場所だった

離れなければならないと思うと目頭が熱くなった

それでも、引っ越し先を探さなければならない

立ち退きの要請が届いたのは、少し前のことだ

封筒に入っていた書類には、御堂怜司の名前と、大手法律事務所の名前が並んでいた

その下には、代理人となる複数の弁護士の名前まで記されていた

とても美月が抗える相手ではない

それに、補償はきちんとしてくれるらしかった

転居にかかる費用の全額に加えて、補償金が40万円

母は、美月を一人で育てるために借金を重ねていた

美月はそれを、今も毎月2、3万円ずつ返済している

生活に困るほどではないが、決して無視できる負担でもない

40万円あれば、残った借金を半分近くまで減らせる

簡単に断れる金額ではなかった

問題は、次の住まいだ

大切に集めてきた大量の書籍とフィギュアやアニメグッズを全部置けて、今と同じくらいの家賃で借りられる部屋

そんな都合のいい物件があるはずもない

ため息をつきながら会場の出口へ向かったところで、背後から声がした

「相沢美月」

思わず足を止める

振り返ると、先ほどまで壇上に立っていた男が美月を見ていた

どうして、この人が自分の名前を知っているのだろう

一瞬そう思ったが、立ち退きの通知を送ってきた会社の代表なのだから、住民の名前くらい知っていても不思議ではない

それにしても、どうして自分を呼び止めるのだろう

「少し時間をもらいたい」

男は、まっすぐ美月のところへ歩いてきた

なんなの、この人……

「立ち退きの話でしたら、担当の方から聞きます」

「その件ではない」

男が周囲にいる社員たちへ目を向けた

それだけで、彼らは一斉に会場から出ていく

広い部屋に、美月と彼だけが残された

美月は数秒、黙って男を見つめた

冷たい目だと思っていた

けれど今は、どこか懐かしいものでも見つめているように見える

もちろん、美月には彼と会った記憶などない

「ようやく、君を迎えに来られた」

美月は一歩、後ずさった

「ひ、人違いです」

「俺が君を間違えるわけがない」

そして、契約条件でも提示するような平坦な声で告げた

「君が提示した条件は、すべて満たした」

「条件……?」

「俺と結婚してくれ」

美月は数秒、黙って男の顔を見つめた

今、この人はなんと言った?

頭の中で彼の言葉を反芻し、即座に結論を出す

この人……

やばい人だ!

「お断りします!」

素早く頭を下げ、美月は出口へ走り出した

扉を開けて会場を飛び出し、廊下を全力で駆ける

なになになに!?

あの人、絶対におかしい!

早く逃げないと、何をされるか分からない!

背後から鋭い足音が近づいてきた

速い

あっという間に追いつかれ、横を見ると、例の不動産王子が涼しい顔で美月と並走していた

「なぜ断る」

「追いかけてこないでください!」

「この結婚は、俺と君の双方に利益をもたらす」

「そういう問題じゃありません!」

「条件に問題があるなら提示してくれ。前向きに検討する」

「だから、結婚しません!」

王子が困惑した表情を向けてきた

「なぜだ?」

今度は美月が驚く番だった

なぜ分からないの!?

美月は走りながら叫んだ

「知らない男性とは結婚しませんよね!?」
「常識ですよね!」

「俺は君を知っている」

美月はぞっとした

まさか、ストーカー的なあれなの?

こんな強すぎる顔面してるくせに、なんで私なのよ!?

「私はあなたを知りません!」

ちょうどやってきたエレベーターへ乗り込み、閉じるボタンを連打する

ところが男も当然のように乗り込んできた

「ついてこないで! 警察を呼びますよ!」

警察という言葉を聞いた瞬間、男の目がわずかに揺れた

「俺を……忘れたのか」

一瞬だけ目を伏せる

しかし、すぐに顔を上げると、美月へ鋭い視線を向けた

「それでも、約束は約束だ」

男は胸元へ手を入れた

身構えた美月の前に差し出されたのは、一冊の古びた小説だった

何度も読み返したのだろう

表紙は色あせ、角は丸く擦れている

それを見た瞬間、美月の息が止まった

子どもの頃、美月が持っていた小説

古本屋の店先に置かれたワゴンで、10円で売られていた本だ

表紙を気に入った美月を見て、母が買ってくれた

国を追われた王子が仲間たちと出会い、荒れ果てた街を立て直していく物語

男はその小説を、宝物のように両手で持っていた

そして、表紙に描かれた王子を指さす

「俺は、こいつのような男になった」
「だから、君を迎えに来た」

美月はもう一度、目の前の男を見つめた

古びた小説

御堂怜司という名前

その二つが、遠い記憶の中にいる一人の少年へとつながった

母と暮らしていた狭い部屋で、一晩だけ看病した傷だらけの少年

忘れていた記憶が、少しずつ形を取り戻していく

「あのときの……怜司君?」

彼は、ほんのわずかに目を細めた

それが彼なりの笑顔だとは、美月にはまだ分からなかった

「美月、約束を果たしてもらう」