あの夜から、季節は夏を越えた。
夏休みが終わり、二学期が始まって三週間ほど経っても、大きな事件は起きなかった。
湊は毎朝迎えに来て、下校も必ず一緒。
怪しい車を見かける頻度も、少しずつ減っていった。
平和すぎるくらいの日々に、逆に落ち着かない気持ちを抱えながら、私たちは誕生日を迎えようとしていた。
誕生日まで、あと二十九日。
警察へ相談してから、家の前に怪しい車が停まる回数は減った。
けれど、完全に安心できる状態ではないらしい。
湊のお父さんへの脅迫電話は続いていた。
学校の帰り道で、同じ車を二度見かけた。
未来は変わり始めた。
でも、まだ終わっていない。
家に籠もる案も出た。でも、家そのものが監視されている以上、そこが絶対に安全だとは言い切れない。
警察とも相談し、日中は大人の目が多い学校で過ごし、登下校は必ず誰かが付き添うことになった。
「今日からしばらく、うちにいろ」
放課後、湊が当然みたいに言った。
「……はい?」
「夜、一人になる時間を作らない」
「でも、親が」
「もう両方の親で話した。お前んちとうち、隣なんだから、その日の状況でどっちかに集まる」
「勝手に話進めすぎじゃない?」
「命より大事な予定ある?」
「そう言われるとないけど」
実際には、私だけが朝倉家へ泊まり込むわけではなかった。
私の両親も一緒に夕食を食べたり、湊の家族がうちへ来たり。
昔みたいに二つの家が行き来するようになった。
その夜の夕食後、母が洗い物をしながら、ぽつりと言った。
「紗奈が湊くんの家に泊まるって聞いたときは、正直びっくりしたけど」
「うん」
「なんか、安心した」
「なんで」
母は、少し照れくさそうに笑った。
「あんたたちが疎遠になってたの、実はずっと心配してたの。理由も言わないし」
「言えないことだったから」
「今もでしょ」
「うん」
「でも」
母は、洗い終えた皿を、丁寧に拭きながら続けた。
「湊くんが、あんたのこと必死に守ろうとしてるの見てたら、それだけで十分な気がした」
父も、リビングから顔を出して頷いた。
「危ないことは大人に任せろ。湊くん一人に背負わせる気もない。ただ――お前たちが、またちゃんと話せるようになったのは安心した」
その一言に、胸が熱くなった。
ずっと、湊の家の事情ばかり気にしていた。
でも、私の両親もまた、静かに、私たちを見守ってくれていた。
不思議だった。
怖い出来事がきっかけなのに、失くしていたものが少しずつ戻ってくる。
二つの家で囲む夕食も、湊とのくだらない言い合いも、昔なら当たり前すぎて気づかなかった時間だ。
死ぬかもしれないと言われて初めて、私は「普通」がこんなにも欲しかったのだと知った。
*
その夜。
久しぶりに湊の部屋へ入った。
「懐かしい」
「何も変わってないだろ」
「机、小さく見える」
「お前がでかくなっただけ」
「女の子にでかいって言わないで」
「身長の話だよ!」
ベッドの横の棚には、昔一緒に遊んだゲームソフトがまだ並んでいた。
机の引き出しから、折れた鉛筆が一本転がり出る。
「それ、まだ持ってたの?」
「何が」
「小六のとき、私が貸したやつ」
「……知らねえ」
「右耳」
「見るな!」
笑ったあと、少しだけ静かになる。
湊が窓の外を見た。
「紗奈」
「うん」
「その節は、いろいろ悪かった」
「急にどうしたの」
「高校入ってから。冷たくして」
私は黙って聞いた。
「本当は毎朝、家出る時間ずらすの面倒だった」
「そこ?」
「話しかけられて無視するのも、結構きつかった」
「じゃあしなきゃよかったのに」
「できたら苦労してねえ」
湊は少し笑って、それから真剣な顔になる。
「『嫌い』って言えば、一番早く離れてくれると思った」
「実際、離れたよ」
「……うん」
「傷ついた」
「ごめん」
即答だった。
その素直さに、逆に困る。
「もういいよ」
「よくない」
湊は私を見る。
「もう嘘はつかない」
胸が鳴る。
「じゃあ、言って」
「何を」
「この前、保留にしたやつ」
「何だよ、その言い方」
「好きとか嫌いとか、あとで言うって言った」
湊の顔が一気に赤くなる。
「覚えてんのかよ」
「忘れるわけないでしょ」
しばらく視線をさまよわせて。
逃げ道がないと悟ったみたいに、湊は息を吐いた。
「好きだ、紗奈」
心臓が止まりそうになった。
「昔から。たぶん、お前が思ってるよりずっと前から」
「……私も」
「知ってる」
「なんでよ」
「顔に出てる」
「出てない!」
「出てる」
笑いながら言われると悔しい。
でも、嬉しかった。
湊がそっと手を差し出す。
私はその手を握った。
「付き合う?」
「この状況で言う?」
「お前が先に告白したからだろ」
「だからその言い方やめて」
「で、どうすんの」
「……付き合う」
湊の指が、少し強く私の手を握った。
これが未来に決められた関係なのか。
一瞬だけ思う。
でも違う。
今、私が好きだと言った。
今、湊が好きだと言った。
未来の指輪がなくても、この答えは変わらない。
これは未来に決められた恋じゃない。今の私たちが、自分で選んだ恋だった。
「紗奈」
「なに」
「誕生日、絶対に越えような」
「うん」
「二人で」
「うん」
窓の外は静かだった。
けれど遠くの道路を、黒い車が一台だけゆっくり通り過ぎた。
誕生日まで、あと二十九日。
幸せになった分だけ。
失いたくないものも、はっきりしてしまった。
夏休みが終わり、二学期が始まって三週間ほど経っても、大きな事件は起きなかった。
湊は毎朝迎えに来て、下校も必ず一緒。
怪しい車を見かける頻度も、少しずつ減っていった。
平和すぎるくらいの日々に、逆に落ち着かない気持ちを抱えながら、私たちは誕生日を迎えようとしていた。
誕生日まで、あと二十九日。
警察へ相談してから、家の前に怪しい車が停まる回数は減った。
けれど、完全に安心できる状態ではないらしい。
湊のお父さんへの脅迫電話は続いていた。
学校の帰り道で、同じ車を二度見かけた。
未来は変わり始めた。
でも、まだ終わっていない。
家に籠もる案も出た。でも、家そのものが監視されている以上、そこが絶対に安全だとは言い切れない。
警察とも相談し、日中は大人の目が多い学校で過ごし、登下校は必ず誰かが付き添うことになった。
「今日からしばらく、うちにいろ」
放課後、湊が当然みたいに言った。
「……はい?」
「夜、一人になる時間を作らない」
「でも、親が」
「もう両方の親で話した。お前んちとうち、隣なんだから、その日の状況でどっちかに集まる」
「勝手に話進めすぎじゃない?」
「命より大事な予定ある?」
「そう言われるとないけど」
実際には、私だけが朝倉家へ泊まり込むわけではなかった。
私の両親も一緒に夕食を食べたり、湊の家族がうちへ来たり。
昔みたいに二つの家が行き来するようになった。
その夜の夕食後、母が洗い物をしながら、ぽつりと言った。
「紗奈が湊くんの家に泊まるって聞いたときは、正直びっくりしたけど」
「うん」
「なんか、安心した」
「なんで」
母は、少し照れくさそうに笑った。
「あんたたちが疎遠になってたの、実はずっと心配してたの。理由も言わないし」
「言えないことだったから」
「今もでしょ」
「うん」
「でも」
母は、洗い終えた皿を、丁寧に拭きながら続けた。
「湊くんが、あんたのこと必死に守ろうとしてるの見てたら、それだけで十分な気がした」
父も、リビングから顔を出して頷いた。
「危ないことは大人に任せろ。湊くん一人に背負わせる気もない。ただ――お前たちが、またちゃんと話せるようになったのは安心した」
その一言に、胸が熱くなった。
ずっと、湊の家の事情ばかり気にしていた。
でも、私の両親もまた、静かに、私たちを見守ってくれていた。
不思議だった。
怖い出来事がきっかけなのに、失くしていたものが少しずつ戻ってくる。
二つの家で囲む夕食も、湊とのくだらない言い合いも、昔なら当たり前すぎて気づかなかった時間だ。
死ぬかもしれないと言われて初めて、私は「普通」がこんなにも欲しかったのだと知った。
*
その夜。
久しぶりに湊の部屋へ入った。
「懐かしい」
「何も変わってないだろ」
「机、小さく見える」
「お前がでかくなっただけ」
「女の子にでかいって言わないで」
「身長の話だよ!」
ベッドの横の棚には、昔一緒に遊んだゲームソフトがまだ並んでいた。
机の引き出しから、折れた鉛筆が一本転がり出る。
「それ、まだ持ってたの?」
「何が」
「小六のとき、私が貸したやつ」
「……知らねえ」
「右耳」
「見るな!」
笑ったあと、少しだけ静かになる。
湊が窓の外を見た。
「紗奈」
「うん」
「その節は、いろいろ悪かった」
「急にどうしたの」
「高校入ってから。冷たくして」
私は黙って聞いた。
「本当は毎朝、家出る時間ずらすの面倒だった」
「そこ?」
「話しかけられて無視するのも、結構きつかった」
「じゃあしなきゃよかったのに」
「できたら苦労してねえ」
湊は少し笑って、それから真剣な顔になる。
「『嫌い』って言えば、一番早く離れてくれると思った」
「実際、離れたよ」
「……うん」
「傷ついた」
「ごめん」
即答だった。
その素直さに、逆に困る。
「もういいよ」
「よくない」
湊は私を見る。
「もう嘘はつかない」
胸が鳴る。
「じゃあ、言って」
「何を」
「この前、保留にしたやつ」
「何だよ、その言い方」
「好きとか嫌いとか、あとで言うって言った」
湊の顔が一気に赤くなる。
「覚えてんのかよ」
「忘れるわけないでしょ」
しばらく視線をさまよわせて。
逃げ道がないと悟ったみたいに、湊は息を吐いた。
「好きだ、紗奈」
心臓が止まりそうになった。
「昔から。たぶん、お前が思ってるよりずっと前から」
「……私も」
「知ってる」
「なんでよ」
「顔に出てる」
「出てない!」
「出てる」
笑いながら言われると悔しい。
でも、嬉しかった。
湊がそっと手を差し出す。
私はその手を握った。
「付き合う?」
「この状況で言う?」
「お前が先に告白したからだろ」
「だからその言い方やめて」
「で、どうすんの」
「……付き合う」
湊の指が、少し強く私の手を握った。
これが未来に決められた関係なのか。
一瞬だけ思う。
でも違う。
今、私が好きだと言った。
今、湊が好きだと言った。
未来の指輪がなくても、この答えは変わらない。
これは未来に決められた恋じゃない。今の私たちが、自分で選んだ恋だった。
「紗奈」
「なに」
「誕生日、絶対に越えような」
「うん」
「二人で」
「うん」
窓の外は静かだった。
けれど遠くの道路を、黒い車が一台だけゆっくり通り過ぎた。
誕生日まで、あと二十九日。
幸せになった分だけ。
失いたくないものも、はっきりしてしまった。



