「俺、お前のこと嫌いだから」
高校に入って一週間目。幼なじみの朝倉湊は、私の目も見ずにそう言った。
だから当然。
私だって、あいつのことなんて大嫌いだ。
……たぶん。
*
「紗奈、また朝倉くん見てる」
「見てない!」
昼休み。
向かいの席に座っている親友の美月に言われて、私は慌てて窓際から顔を逸らした。
「いや、めちゃくちゃ見てたけど」
「たまたま視界に入っただけ」
「三十秒くらい?」
「窓を見てたの」
「朝倉くん、窓なの?」
「美月」
「はいはい」
美月が楽しそうに笑う。
私は不機嫌そうに頬杖をついた。
視線の先。
教室の窓際では、男子数人が集まって話している。
その中心にいるのが――朝倉湊。
同じ二年三組。
そして、生まれたときから家が隣同士の幼なじみ。
黒い髪。
少しだけ目つきが悪くて、無愛想。
黙っていればかなり格好いい。
……というのが女子たちからの評価らしい。
私には、物心つく前から見てきた顔だ。格好いいかどうかなんて、今さらよく分からない。――少なくとも、そういうことにしている。
「朝倉くんって、ほんと人気あるよね」
美月が言った。
「そう?」
「昨日も一年生に告白されたんでしょ?」
「知らない」
「紗奈、幼なじみなのに?」
「幼なじみだからって、なんでも知ってるわけじゃないし」
私はストローで紙パックのジュースを強く吸った。
昔は知っていた。
好きな食べ物。
嫌いな食べ物。
好きなゲーム。
苦手な教科。
寝起きが悪いこと。
雨の日は頭痛がすること。
緊張すると右耳を触る癖。
湊についてなら、きっと誰よりも詳しかった。
少なくとも――中学までは。
「でもさ」
美月が頬杖をつく。
「なんで仲悪くなったの?」
「……別に」
「小学校の写真とか見ると、めちゃくちゃ仲良かったじゃん」
「昔の話」
「中三までは毎朝一緒に登校してたんでしょ?」
「高校からやめた」
「なんで?」
「……」
答えなかった。
本当は、私にもよく分からない。
きっかけらしいきっかけはなかった。
高校に入って。
湊は急に私を避けるようになった。
朝、一緒に行こうと家の前で待っていたら、
「もう待たなくていい」
そう言われた。
学校でも話しかければ、
「用事ないなら話しかけんな」
と返された。
それでも最初のうちは、何か怒らせたのかと思っていた。
だから聞いた。
「私、何かした?」
すると湊は少し黙ってから――言ったのだ。
『俺、お前のこと嫌いだから』
たったそれだけ。
理由を聞いても教えてくれなかった。
だから私も決めた。
そんなやつ、こっちから願い下げだ。
嫌いだと言われてまで、昔みたいに追いかけるほど私は惨めじゃない。
――それなのに、朝になると隣の家のドアが開く音を気にしてしまう自分だけは、どうしても止められなかった。
「朝倉くーん!」
教室の入口から女子の声がした。
湊が振り返る。
一年生らしい女の子が二人、廊下から手招きしていた。
湊は友達に何か言ってから、教室を出ていく。
「また告白だったりして」
美月が言う。
「へえ」
「気にならない?」
「全然」
「ほんとに?」
「ほんとに」
私はジュースを飲む。
ズズズッ。
空だった。
「あ」
「めっちゃ動揺してるじゃん」
「してない!」
自分でも嫌になる。
もう関係ないのに。
誰に告白されようが。
誰と付き合おうが。
私には関係ない。
なのに。
胸の奥に、飲み込めない小さな棘みたいなものが残る。
――最悪。
*
放課後。
私は一人で学校を出た。
美月は委員会。
湊は――知らない。
最近は一緒に帰ることもない。
六月の空はどんより曇っていた。
天気予報では夕方から雨。
傘を持ってくればよかったと後悔しながら、私は駅とは反対方向へ歩いていく。
うちまでは徒歩で二十分ほど。
途中には、小さな神社がある。
子どもの頃。
私と湊がよく遊んだ場所だ。
「……懐かしい」
なんとなく足を止める。
古びた鳥居。
境内に続く石段。
小学生の頃は、この階段がとても長く感じた。
湊と競争して登って。
いつも私が負けて。
悔しくて泣いたら、湊が途中まで戻ってきてくれた。
『じゃあ次は紗奈が勝つまでやる』
それから少し大きくなって、二人で絵馬にふざけて願い事を書いたこともある。
何を書いたかは、もう覚えていない。
ただ、書いた後、二人で顔を見合わせて、妙に照れくさそうに笑った記憶だけが残っている。
生意気だけど、優しかった。
「……何思い出してんだろ」
私は自分の頬を軽く叩いた。
そのときだった。
ポツ。
鼻先に冷たいものが落ちた。
「あ」
ポツ、ポツ。
次の瞬間。
ザァァァァァッ!
「うそでしょ!?」
突然の大雨。
私は慌てて神社の境内へ走った。
屋根のある小さな休憩所に逃げ込む。
「最悪……」
制服の肩が濡れてしまった。
スマホで雨雲レーダーを見る。
しばらく止みそうにない。
「お母さんに迎え――」
その瞬間。
ドンッ!
低い音が境内に響いた。
「きゃっ!」
雷?
いや。
空は光っていない。
音がしたのは――神社の奥。
「……なに?」
怖い。
怖いけれど。
人間は、怖いものほど確認したくなるらしい。
私は恐る恐る休憩所から顔を出した。
雨の向こう。
本殿の横にある大きな御神木。
その根元に――。
誰か倒れていた。
「え?」
男の人。
黒っぽい服。
雨の中、仰向けに倒れている。
「ちょ、ちょっと!」
私は駆け寄った。
「大丈夫ですか!?」
返事がない。
二十代くらいだろうか。
黒髪。
背が高い。
黒いジャケットのようなものを着ている。
顔を覗き込んだ、その瞬間。
「……え?」
心臓が止まるかと思った。
知っている。
この顔。
毎日のように見ている。
ただし。
私の知っている彼より、大人だ。
輪郭が少し鋭くなっている。
髪も今より少し長い。
それでも間違えるはずがない。
「……湊?」
朝倉湊だった。
でも。
そんなはずはない。
私と同じ十七歳じゃない。
目の前にいる湊は、どう見ても二十代半ばくらいだ。
「なに、これ……」
震える手を伸ばした。
その瞬間。
ガシッ。
「ひっ!」
腕を掴まれた。
男の目が開いた。
「……紗奈」
「え……?」
目の前にいる湊は、どう見ても二十代半ばくらいだ。見慣れた顔なのに、頬の線も、目の奥に沈んだ疲れも、私の知る十七歳の湊にはない。
どうして。
「紗奈……!」
いきなり身体を起こした男に、強く抱きしめられた。
「ちょ、ちょっと!?」
「よかった……」
耳元で声が震えている。
「間に合った」
「離してください!」
必死に胸を押した。
男はハッとして、私を離す。
そして私の顔を凝視した。
「……若い」
「は?」
「制服……」
「制服ですけど」
男の顔から血の気が引いていく。
「何年だ」
「え?」
「今、何年だ!?」
いきなり肩を掴まれた。
「二、二〇二六年!」
日付まで答える。
男は黙った。
「……七年前」
「はい?」
小さく呟く。
私は完全に混乱していた。
「あなた……誰なんですか?」
男が私を見る。
悲しそうな顔だった。
それから――少し笑った。
その笑い方。
知っている。
昔。
湊が私にだけ見せていた顔だった。
「朝倉湊」
「……」
「二十四歳」
「……」
「お前の知ってる朝倉湊の、七年後だ」
私は数秒、何も言えなかった。
雨音だけが響いている。
「……病院行きましょう」
「信じてないな」
「信じるわけないでしょ!」
「だよな」
大人の湊は苦笑した。
そして。
「じゃあ、これは?」
そう言って、自分の左手を見せる。
薬指。
そこには銀色の指輪がはまっていた。
シンプルなデザイン。
内側に小さな文字が刻まれている。
男は指輪を外した。
「見てみろ」
「……」
受け取る。
内側には。
二つの名前。
**MINATO & SANA**
「……え」
私の名前。
湊の名前。
そして日付。
六年後の日付だった。
「なに、これ」
声が震えた。
男――未来の湊は静かに答えた。
「結婚指輪」
そう答える直前、未来の湊の視線がほんの一瞬だけ揺れた。
私はその意味に、まだ気づかなかった。
「誰と誰の?」
「俺とお前の」
「…………は?」
雨音が、一瞬消えたような気がした。
「いやいやいやいや!」
私は思わず立ち上がった。
「ない! 絶対ない!」
「なんで」
「なんでって、今の湊、私のこと大嫌いなんですよ!?」
男が黙る。
「本人に言われたんです! 『お前のこと嫌いだから』って!」
「……あいつ」
未来の湊が額を押さえた。
「マジで言ったのか」
「言いました!」
「殴りてぇ」
「自分ですよ!?」
「高校時代の俺は別人扱いでいい」
「よくない!」
未来の湊は大きくため息をついた。
私は指輪を見る。
偽物。
絶対偽物。
こんなのネットで簡単に作れる。
名前だって調べられる。
「信じませんから」
「だろうな」
「第一、なんで未来のあなたがここにいるんですか?」
「それを説明しに来た」
さっきまで少し笑っていた未来の湊の表情が変わった。
真剣な目。
冷たい雨が地面を叩いている。
「俺は、お前を助けるために来た」
「私を?」
「ああ」
「何から?」
未来の湊は答えなかった。
しばらく私を見つめる。
その顔があまりにも苦しそうで。
胸がざわついた。
「……未来で何かあるんですか?」
「ああ」
「私たち、結婚するんですよね?」
「ああ」
「じゃあ……何を助けるんですか?」
男は拳を握った。
そして。
信じられない言葉を口にした。
「紗奈」
「……はい」
「お前は――」
雨が強くなる。
「十八歳の誕生日に死ぬ」
「…………え?」
世界が止まった。
私の誕生日。
十月二十日。
あと――四か月。
「俺は、それを止めに来た」
未来の湊が言う。
「今度こそ絶対に、お前を死なせない」
「待って……」
頭が追いつかない。
「でも……」
私は震える声で聞いた。
「私が十八歳で死ぬなら……」
指輪を見る。
刻まれているのは、六年後の日付。
「この結婚指輪は、なんなんですか?」
未来の湊は何も言わなかった。
その沈黙で分かった。
これは単純な話じゃない。
「湊」
初めて。
目の前の男をそう呼んだ。
彼は目を閉じた。
そして、小さく言った。
「それを説明すると――未来が変わる」
「もう来た時点で変わってるでしょ!」
「……そうだな」
未来の湊が笑った。
ひどく寂しそうに。
「だから一つずつ話す」
そして彼は私の手から指輪を取ると。
なぜか――私の左手の薬指にはめた。
「ちょっ……!」
ぴったりだった。
気持ち悪いくらい。
私の指に。
「返しておく」
「何を!?」
「お前の指輪だから」
「私まだ高校生なんですけど!?」
「知ってる」
「しかも今の湊とは絶賛絶交中!」
「それも知った」
「だったら!」
未来の湊は、私の言葉を遮った。
「紗奈」
真っ直ぐに私を見る。
「今の俺を、絶対に一人にするな」
「……え?」
「嫌われてもいい。喧嘩してもいい。付き合わなくてもいい」
そこで一度、言葉を切る。
「でも、あいつから離れるな」
胸が大きく鳴った。
「それが、お前を生かすために必要なことだ」
*
翌朝。
「……」
私は学校の昇降口で立ち尽くしていた。
昨夜のことが夢だったのか。
何度も考えた。
でも。
制服のポケットには――あの指輪がある。
さっきから、そこにある重みを何度も確かめてしまう。
夢じゃない。
そして靴箱の向こう。
「……」
朝倉湊がいた。
十七歳の。
私の知っている湊。
私に気づいて。
露骨に目を逸らす。
「……おはよ」
珍しく私から声をかけた。
湊の足が止まった。
「なに」
冷たい声。
昨日までなら腹が立っていた。
でも今は。
この男が七年後。
私のために泣きそうな顔をしていたことを知っている。
しかも。
私と結婚するらしい。
…………いや。
「無理無理無理無理」
「は?」
「なんでもない!」
「朝からうるせぇな」
湊はそのまま歩いていく。
私はその背中を見る。
未来の湊の言葉が蘇る。
――あいつから離れるな。
「……待って!」
「は?」
私は湊を追いかけた。
「今日、一緒に帰ろ」
「嫌だ」
即答。
「なんで!?」
「嫌だから」
「私のこと嫌いだから?」
「……」
湊が一瞬だけ黙った。
そして。
また右耳を触った。
緊張したときの癖。
私は思わず目を見開く。
「なに見てんだよ」
「……別に」
湊は気づいていない。
でも私は知っている。
こいつは昔から。
嘘をつくときも、右耳を触る。
「……ふーん」
「なんだよ」
「なんでもない」
「気持ち悪」
「誰が!」
前を歩く湊を追いかけながら。
私は少しだけ思った。
もしかして。
本当に。
ほんの少しだけ。
――こいつ、私のこと嫌いじゃないんじゃない?
そしてこのときの私は、まだ知らなかった。
未来から来た湊が、いちばん大切なことだけを隠していたことを。
六年後の日付が刻まれた、私と湊の結婚指輪。
けれど――
その指輪が作られた日。
**私はもう、この世界にいない。**
高校に入って一週間目。幼なじみの朝倉湊は、私の目も見ずにそう言った。
だから当然。
私だって、あいつのことなんて大嫌いだ。
……たぶん。
*
「紗奈、また朝倉くん見てる」
「見てない!」
昼休み。
向かいの席に座っている親友の美月に言われて、私は慌てて窓際から顔を逸らした。
「いや、めちゃくちゃ見てたけど」
「たまたま視界に入っただけ」
「三十秒くらい?」
「窓を見てたの」
「朝倉くん、窓なの?」
「美月」
「はいはい」
美月が楽しそうに笑う。
私は不機嫌そうに頬杖をついた。
視線の先。
教室の窓際では、男子数人が集まって話している。
その中心にいるのが――朝倉湊。
同じ二年三組。
そして、生まれたときから家が隣同士の幼なじみ。
黒い髪。
少しだけ目つきが悪くて、無愛想。
黙っていればかなり格好いい。
……というのが女子たちからの評価らしい。
私には、物心つく前から見てきた顔だ。格好いいかどうかなんて、今さらよく分からない。――少なくとも、そういうことにしている。
「朝倉くんって、ほんと人気あるよね」
美月が言った。
「そう?」
「昨日も一年生に告白されたんでしょ?」
「知らない」
「紗奈、幼なじみなのに?」
「幼なじみだからって、なんでも知ってるわけじゃないし」
私はストローで紙パックのジュースを強く吸った。
昔は知っていた。
好きな食べ物。
嫌いな食べ物。
好きなゲーム。
苦手な教科。
寝起きが悪いこと。
雨の日は頭痛がすること。
緊張すると右耳を触る癖。
湊についてなら、きっと誰よりも詳しかった。
少なくとも――中学までは。
「でもさ」
美月が頬杖をつく。
「なんで仲悪くなったの?」
「……別に」
「小学校の写真とか見ると、めちゃくちゃ仲良かったじゃん」
「昔の話」
「中三までは毎朝一緒に登校してたんでしょ?」
「高校からやめた」
「なんで?」
「……」
答えなかった。
本当は、私にもよく分からない。
きっかけらしいきっかけはなかった。
高校に入って。
湊は急に私を避けるようになった。
朝、一緒に行こうと家の前で待っていたら、
「もう待たなくていい」
そう言われた。
学校でも話しかければ、
「用事ないなら話しかけんな」
と返された。
それでも最初のうちは、何か怒らせたのかと思っていた。
だから聞いた。
「私、何かした?」
すると湊は少し黙ってから――言ったのだ。
『俺、お前のこと嫌いだから』
たったそれだけ。
理由を聞いても教えてくれなかった。
だから私も決めた。
そんなやつ、こっちから願い下げだ。
嫌いだと言われてまで、昔みたいに追いかけるほど私は惨めじゃない。
――それなのに、朝になると隣の家のドアが開く音を気にしてしまう自分だけは、どうしても止められなかった。
「朝倉くーん!」
教室の入口から女子の声がした。
湊が振り返る。
一年生らしい女の子が二人、廊下から手招きしていた。
湊は友達に何か言ってから、教室を出ていく。
「また告白だったりして」
美月が言う。
「へえ」
「気にならない?」
「全然」
「ほんとに?」
「ほんとに」
私はジュースを飲む。
ズズズッ。
空だった。
「あ」
「めっちゃ動揺してるじゃん」
「してない!」
自分でも嫌になる。
もう関係ないのに。
誰に告白されようが。
誰と付き合おうが。
私には関係ない。
なのに。
胸の奥に、飲み込めない小さな棘みたいなものが残る。
――最悪。
*
放課後。
私は一人で学校を出た。
美月は委員会。
湊は――知らない。
最近は一緒に帰ることもない。
六月の空はどんより曇っていた。
天気予報では夕方から雨。
傘を持ってくればよかったと後悔しながら、私は駅とは反対方向へ歩いていく。
うちまでは徒歩で二十分ほど。
途中には、小さな神社がある。
子どもの頃。
私と湊がよく遊んだ場所だ。
「……懐かしい」
なんとなく足を止める。
古びた鳥居。
境内に続く石段。
小学生の頃は、この階段がとても長く感じた。
湊と競争して登って。
いつも私が負けて。
悔しくて泣いたら、湊が途中まで戻ってきてくれた。
『じゃあ次は紗奈が勝つまでやる』
それから少し大きくなって、二人で絵馬にふざけて願い事を書いたこともある。
何を書いたかは、もう覚えていない。
ただ、書いた後、二人で顔を見合わせて、妙に照れくさそうに笑った記憶だけが残っている。
生意気だけど、優しかった。
「……何思い出してんだろ」
私は自分の頬を軽く叩いた。
そのときだった。
ポツ。
鼻先に冷たいものが落ちた。
「あ」
ポツ、ポツ。
次の瞬間。
ザァァァァァッ!
「うそでしょ!?」
突然の大雨。
私は慌てて神社の境内へ走った。
屋根のある小さな休憩所に逃げ込む。
「最悪……」
制服の肩が濡れてしまった。
スマホで雨雲レーダーを見る。
しばらく止みそうにない。
「お母さんに迎え――」
その瞬間。
ドンッ!
低い音が境内に響いた。
「きゃっ!」
雷?
いや。
空は光っていない。
音がしたのは――神社の奥。
「……なに?」
怖い。
怖いけれど。
人間は、怖いものほど確認したくなるらしい。
私は恐る恐る休憩所から顔を出した。
雨の向こう。
本殿の横にある大きな御神木。
その根元に――。
誰か倒れていた。
「え?」
男の人。
黒っぽい服。
雨の中、仰向けに倒れている。
「ちょ、ちょっと!」
私は駆け寄った。
「大丈夫ですか!?」
返事がない。
二十代くらいだろうか。
黒髪。
背が高い。
黒いジャケットのようなものを着ている。
顔を覗き込んだ、その瞬間。
「……え?」
心臓が止まるかと思った。
知っている。
この顔。
毎日のように見ている。
ただし。
私の知っている彼より、大人だ。
輪郭が少し鋭くなっている。
髪も今より少し長い。
それでも間違えるはずがない。
「……湊?」
朝倉湊だった。
でも。
そんなはずはない。
私と同じ十七歳じゃない。
目の前にいる湊は、どう見ても二十代半ばくらいだ。
「なに、これ……」
震える手を伸ばした。
その瞬間。
ガシッ。
「ひっ!」
腕を掴まれた。
男の目が開いた。
「……紗奈」
「え……?」
目の前にいる湊は、どう見ても二十代半ばくらいだ。見慣れた顔なのに、頬の線も、目の奥に沈んだ疲れも、私の知る十七歳の湊にはない。
どうして。
「紗奈……!」
いきなり身体を起こした男に、強く抱きしめられた。
「ちょ、ちょっと!?」
「よかった……」
耳元で声が震えている。
「間に合った」
「離してください!」
必死に胸を押した。
男はハッとして、私を離す。
そして私の顔を凝視した。
「……若い」
「は?」
「制服……」
「制服ですけど」
男の顔から血の気が引いていく。
「何年だ」
「え?」
「今、何年だ!?」
いきなり肩を掴まれた。
「二、二〇二六年!」
日付まで答える。
男は黙った。
「……七年前」
「はい?」
小さく呟く。
私は完全に混乱していた。
「あなた……誰なんですか?」
男が私を見る。
悲しそうな顔だった。
それから――少し笑った。
その笑い方。
知っている。
昔。
湊が私にだけ見せていた顔だった。
「朝倉湊」
「……」
「二十四歳」
「……」
「お前の知ってる朝倉湊の、七年後だ」
私は数秒、何も言えなかった。
雨音だけが響いている。
「……病院行きましょう」
「信じてないな」
「信じるわけないでしょ!」
「だよな」
大人の湊は苦笑した。
そして。
「じゃあ、これは?」
そう言って、自分の左手を見せる。
薬指。
そこには銀色の指輪がはまっていた。
シンプルなデザイン。
内側に小さな文字が刻まれている。
男は指輪を外した。
「見てみろ」
「……」
受け取る。
内側には。
二つの名前。
**MINATO & SANA**
「……え」
私の名前。
湊の名前。
そして日付。
六年後の日付だった。
「なに、これ」
声が震えた。
男――未来の湊は静かに答えた。
「結婚指輪」
そう答える直前、未来の湊の視線がほんの一瞬だけ揺れた。
私はその意味に、まだ気づかなかった。
「誰と誰の?」
「俺とお前の」
「…………は?」
雨音が、一瞬消えたような気がした。
「いやいやいやいや!」
私は思わず立ち上がった。
「ない! 絶対ない!」
「なんで」
「なんでって、今の湊、私のこと大嫌いなんですよ!?」
男が黙る。
「本人に言われたんです! 『お前のこと嫌いだから』って!」
「……あいつ」
未来の湊が額を押さえた。
「マジで言ったのか」
「言いました!」
「殴りてぇ」
「自分ですよ!?」
「高校時代の俺は別人扱いでいい」
「よくない!」
未来の湊は大きくため息をついた。
私は指輪を見る。
偽物。
絶対偽物。
こんなのネットで簡単に作れる。
名前だって調べられる。
「信じませんから」
「だろうな」
「第一、なんで未来のあなたがここにいるんですか?」
「それを説明しに来た」
さっきまで少し笑っていた未来の湊の表情が変わった。
真剣な目。
冷たい雨が地面を叩いている。
「俺は、お前を助けるために来た」
「私を?」
「ああ」
「何から?」
未来の湊は答えなかった。
しばらく私を見つめる。
その顔があまりにも苦しそうで。
胸がざわついた。
「……未来で何かあるんですか?」
「ああ」
「私たち、結婚するんですよね?」
「ああ」
「じゃあ……何を助けるんですか?」
男は拳を握った。
そして。
信じられない言葉を口にした。
「紗奈」
「……はい」
「お前は――」
雨が強くなる。
「十八歳の誕生日に死ぬ」
「…………え?」
世界が止まった。
私の誕生日。
十月二十日。
あと――四か月。
「俺は、それを止めに来た」
未来の湊が言う。
「今度こそ絶対に、お前を死なせない」
「待って……」
頭が追いつかない。
「でも……」
私は震える声で聞いた。
「私が十八歳で死ぬなら……」
指輪を見る。
刻まれているのは、六年後の日付。
「この結婚指輪は、なんなんですか?」
未来の湊は何も言わなかった。
その沈黙で分かった。
これは単純な話じゃない。
「湊」
初めて。
目の前の男をそう呼んだ。
彼は目を閉じた。
そして、小さく言った。
「それを説明すると――未来が変わる」
「もう来た時点で変わってるでしょ!」
「……そうだな」
未来の湊が笑った。
ひどく寂しそうに。
「だから一つずつ話す」
そして彼は私の手から指輪を取ると。
なぜか――私の左手の薬指にはめた。
「ちょっ……!」
ぴったりだった。
気持ち悪いくらい。
私の指に。
「返しておく」
「何を!?」
「お前の指輪だから」
「私まだ高校生なんですけど!?」
「知ってる」
「しかも今の湊とは絶賛絶交中!」
「それも知った」
「だったら!」
未来の湊は、私の言葉を遮った。
「紗奈」
真っ直ぐに私を見る。
「今の俺を、絶対に一人にするな」
「……え?」
「嫌われてもいい。喧嘩してもいい。付き合わなくてもいい」
そこで一度、言葉を切る。
「でも、あいつから離れるな」
胸が大きく鳴った。
「それが、お前を生かすために必要なことだ」
*
翌朝。
「……」
私は学校の昇降口で立ち尽くしていた。
昨夜のことが夢だったのか。
何度も考えた。
でも。
制服のポケットには――あの指輪がある。
さっきから、そこにある重みを何度も確かめてしまう。
夢じゃない。
そして靴箱の向こう。
「……」
朝倉湊がいた。
十七歳の。
私の知っている湊。
私に気づいて。
露骨に目を逸らす。
「……おはよ」
珍しく私から声をかけた。
湊の足が止まった。
「なに」
冷たい声。
昨日までなら腹が立っていた。
でも今は。
この男が七年後。
私のために泣きそうな顔をしていたことを知っている。
しかも。
私と結婚するらしい。
…………いや。
「無理無理無理無理」
「は?」
「なんでもない!」
「朝からうるせぇな」
湊はそのまま歩いていく。
私はその背中を見る。
未来の湊の言葉が蘇る。
――あいつから離れるな。
「……待って!」
「は?」
私は湊を追いかけた。
「今日、一緒に帰ろ」
「嫌だ」
即答。
「なんで!?」
「嫌だから」
「私のこと嫌いだから?」
「……」
湊が一瞬だけ黙った。
そして。
また右耳を触った。
緊張したときの癖。
私は思わず目を見開く。
「なに見てんだよ」
「……別に」
湊は気づいていない。
でも私は知っている。
こいつは昔から。
嘘をつくときも、右耳を触る。
「……ふーん」
「なんだよ」
「なんでもない」
「気持ち悪」
「誰が!」
前を歩く湊を追いかけながら。
私は少しだけ思った。
もしかして。
本当に。
ほんの少しだけ。
――こいつ、私のこと嫌いじゃないんじゃない?
そしてこのときの私は、まだ知らなかった。
未来から来た湊が、いちばん大切なことだけを隠していたことを。
六年後の日付が刻まれた、私と湊の結婚指輪。
けれど――
その指輪が作られた日。
**私はもう、この世界にいない。**

