『君が消した夏の手紙』

 夏休みまで、あと三日だった。

 終業式を前にした学校は、どこか落ち着かない。

 廊下を走る生徒。

 窓際で騒ぐ男子。

 部活の予定を確認する女子。

 先生たちも、いつもの授業より少しだけ声が軽い。

 そんな中。

 僕――神谷湊は、図書室にいた。

 理由は単純だった。

 暑かったからだ。

 エアコンの効いた図書室ほど、夏休み前の高校生にとって居心地のいい場所はない。

 それに。

 僕は昔から、本を読むと時間を忘れられた。

「神谷くん。またいるの?」

 司書の先生が笑った。

「はい。涼しいので」

「正直ね」

「本も読んでます」

「『も』なんだ」

「……はい」

 先生が笑う。

 僕も笑った。

 そのとき。

 窓の外を見た。

 校庭の向こう。

 プールへ続く渡り廊下を、一人の女子生徒が歩いていた。

 長い髪。

 白いブラウス。

 左手にファイル。

 見慣れた後ろ姿だった。

 水野凛。

 同じ二年二組。

 クラスでは目立つ方ではない。

 でも、なぜか目で追ってしまう。

 別に。

 好きというわけではない。

 ……たぶん。

 凛が図書室の前を通り過ぎる。

 その瞬間。

 彼女がこちらを見た。

 目が合った。

 ほんの一秒。

 凛は少し驚いた顔をして。

 すぐに目を逸らした。

 そして。

 そのまま通り過ぎていった。

 僕は本に目を戻した。

 けれど。

 さっきの視線が気になった。

 何か。

 変だった。

 まるで。

 僕を見たというより。

 僕がここにいることを確認した。

 そんな感じだった。

     *

 閉館時間が近づいた。

 司書の先生が帰り支度を始める。

「神谷くん、悪いけど最後に窓閉めてもらえる?」

「分かりました」

「助かるわ」

 先生が出ていく。

 僕は一人になった。

 本を戻して。

 机を片付ける。

 窓を閉めようとして。

 ふと。

 古い書棚に目が止まった。

 一番下。

 普段ほとんど使われていない棚だった。

 背表紙のない本。

 古い文集。

 卒業アルバム。

 その隙間に。

 一冊の薄い本が挟まっていた。

 取り出す。

 表紙は茶色く変色している。

 タイトルはない。

「……何だ、これ」

 開く。

 最初のページには。

 日付だけが書かれていた。

二〇二三年七月二十日

 三年前。

 僕が中学二年生だった頃だ。

 その次のページ。

 また日付。

二〇二三年七月二十一日

 その次。

二〇二三年七月二十二日

 どうやら日記らしい。

 でも。

 名前がない。

 誰の日記なのかも分からない。

 僕はページをめくった。

 そして。

 あるページで。

 手が止まった。

七月二十八日。

今日、湊くんと話した。

やっぱり、あのことは言えなかった。

もし明日、私が勇気を出せたら。

この手紙を渡す。

 胸が。

 妙にざわついた。

「……湊?」

 自分と同じ名前。

 偶然だ。

 そう思った。

 けれど。

 次のページには。

七月二十九日。

渡せなかった。

湊くんは、何も覚えていないみたいだった。

だから、私も忘れることにする。

 僕はページをめくった。

 そこから先は。

 白紙だった。

 日記は。

 そこで終わっている。

 なのに。

 最後のページの端に。

 何かが挟まっていた。

 一枚の封筒。

 古い白い封筒。

 表には。

 たった一行。

神谷湊くんへ

 僕の名前。

 指先が冷たくなった。

 誰が。

 いつ。

 どうして。

 僕に手紙を書いた?

 封筒を裏返す。

 差出人の名前はない。

 ただ。

 小さな文字で。

水野凛

 と書かれていた。

「……凛?」

 思わず声が出た。

 同じクラス。

 さっき図書室の前を通った。

 そして。

 僕宛ての手紙。

 僕は封筒を握った。

 開けようとした。

 その瞬間。

 図書室の扉が開いた。

「神谷くん?」

 僕は振り返った。

 そこに。

 凛が立っていた。

 息を切らしている。

「水野……?」

 凛は僕を見る。

 そして。

 僕の手にある封筒を見た。

 顔色が変わった。

「それ。」

「え?」

「どこで見つけたの?」

 僕は答えた。

「この本に挟まってた」

 凛は。

 ゆっくり近づいてきた。

 そして。

「開けた?」

「まだ」

 凛は。

 ほっとしたように息を吐いた。

 でも。

 次の瞬間。

 僕の手から封筒を奪い取った。

「読まないで」

 声が震えていた。

「どうして?」

 凛は答えない。

 ただ。

 封筒を胸に抱えた。

「それは……」

「うん」

「……存在しない手紙だから」

 僕は意味が分からなかった。

「存在しない?」

「そう」

 凛は俯いた。

「そんな手紙。」

 一度。

 唇を噛む。

「私は書いてない」

 僕は封筒を見た。

 確かに。

 差出人には。

水野凛

 と書かれている。

「でも、ここに名前が――」

「違う」

 凛が僕を見る。

 その目には。

 明らかな恐怖があった。

「その手紙は。」

 凛は小さな声で言った。

「三年前に燃やしたから。」

 僕は何も言えなかった。

 窓の外で。

 蝉が鳴いている。

 夏の音だけが。

 やけに大きく聞こえた。

「三年前?」

「うん」

「僕に宛てた手紙を?」

「……そう」

「どうして?」

 凛は答えなかった。

 代わりに。

 封筒を裏返した。

 そして。

 僕に見せた。

「この手紙。」

「うん」

「私が書いたものじゃない」

「じゃあ、誰が?」

 凛は。

 しばらく黙っていた。

 やがて。

「分からない」

 そして。

 僕の目を見て。

「でも。」

 震える声で。

「神谷くん。」

「何?」

「あなたも。」

 一拍。

「三年前の夏のこと、何も覚えてないよね?」

 僕は答えられなかった。

 なぜなら。

 その瞬間。

 頭の奥で。

 ひとつの光景が浮かんだからだ。

 蝉の声。

 夕暮れの校舎。

 誰かの手。

 そして。

 泣きながら僕を見つめる。

 凛。

 その唇が。

 確かに。

 こう動いた。

「湊くん、好き。」

 そこで。

 記憶が途切れた。

 僕は息を呑んだ。

 凛も。

 何かに気づいたように。

 顔を上げた。

 そして。

「……思い出したの?」

 僕が答えるより先に。

 図書室の時計が。

 午後五時二十九分。

 突然。

 止まった。

 そして。

 僕の手元の封筒から。

 一枚の紙が。

 ゆっくり滑り落ちた。

 凛が。

 青ざめる。

「それ……」

 拾い上げる。

 便箋には。

 僕の名前。

 そして。

 たった一行。

『七月二十九日、湊くんは私を忘れる。』

 僕は凛を見る。

 凛は。

 泣きそうな顔で呟いた。

「……やっぱり。」

「何が?」

「この手紙。」

 凛の声が震えた。

「三年前に燃やしたはずなのに……」

 そして。

「どうして今、ここにあるの?」

――第1話 完。

第2話「君は、この手紙を知らない」へ続く。