「――――っっったぁぁぁぁ!!」
背中から地面に落ちた。
いや、正確には。
木の枝に一回引っかかって。
葉っぱに顔面を叩かれて。
最後に地面へ落ちた。
「…………」
しばらく動けなかった。
星が見える。
綺麗だ。
見たことがないくらい大きな月も見える。
幻想的で。
神秘的で。
たぶん普通なら、感動する場面なんだと思う。
「…………」
私はゆっくり身体を起こした。
そして、大きく息を吸う。
「白いのぉぉぉぉぉ!!」
森中に声が響いた。
「出てこい!! あのクソ狐!! 一発どつく!!」
返事はない。
当たり前だ。
辺りには見たこともない木々が広がっている。
青白く光る花。
空中を漂う小さな光。
木の葉の隙間から差し込む月明かり。
どう見ても、さっきまでいた日本ではない。
「……いや」
待て。
落ち着け。
私は両手で顔を覆った。
「何してんの私……」
仕事から帰ってただけやん。
狐見つけて。
ちょっと気になって。
ついて行って。
鳥居見つけて。
なんか吸い込まれて。
落ちた。
「…………」
自分で整理してみても意味が分からない。
「知らん狐について行くほどアホちゃう言うた後に異世界来てるやん……」
最悪である。
とりあえずスマホを見る。
圏外。
時刻表示は――
「……止まってる?」
画面には、鳥居をくぐる直前の時刻が表示されたままだった。
電源を入れ直しても変わらない。
「うそやん……」
そのとき。
――ガサッ。
「…………」
顔を上げた。
少し離れた茂みが揺れた。
「あの白いの?」
返事はない。
私はゆっくり立ち上がる。
「さっきの狐やったら今出てきた方がええで?」
…………。
「怒ってへんから」
嘘である。
めちゃくちゃ怒っている。
「ちょっと話し合お?」
拳を握る。
その瞬間。
――グルルルルル……。
低い音が森に響いた。
「…………」
違う。
あの狐じゃない。
絶対違う。
だってあいつ、こんな低音出なかった。
茂みの奥。
暗闇の中に、二つの光が浮かんだ。
青い。
目だ。
「…………え?」
一歩。
それがこちらへ近づく。
月明かりが、その姿を照らした。
銀色の毛。
鋭い牙。
太い四肢。
そして。
――デカい。
「…………」
いや。
デカすぎる。
私の知っている狼のサイズではない。
大型犬とか、そんな可愛いものでもない。
目線が高い。
明らかに私より大きい。
「…………白いの?」
最後の希望を込めて聞いてみた。
狼の眉間に皺が寄った。
「……ですよね」
狼が一歩近づく。
私は一歩下がる。
狼がもう一歩。
私ももう一歩。
「……待って待って」
グルルルル……。
「異世界来て最初のイベントこれなん?」
さらに一歩。
「普通スライムとかちゃうん!?」
さらに一歩。
「ていうかデカない!? 狼ってそんなデカかった!?」
狼は黙っている。
「なんか喋って!? 怖いから!!」
当然、喋らない。
「…………」
狼「…………」
私「…………」
狼「…………」
「お前も説明不足タイプかよ!!」
森に私の声が響いた。
その瞬間。
狼の耳が、ぴくっと動いた。
「…………え」
止まった。
もしかして。
通じた?
「……日本語分かる?」
狼は答えない。
「分かるなら右手上げて?」
狼は動かない。
「左手?」
動かない。
「お座り?」
――グルルルル!!
「ごめんなさい!!」
めっちゃ怒った。
「違うねん! 犬扱いしたわけじゃなくて確認したかっただけで!」
狼が距離を詰める。
「いや来んといて!」
後ろへ下がる。
足元に木の根。
「あっ」
引っかかった。
尻もちをつく。
「いった……」
顔を上げる。
目の前に狼。
近い。
近すぎる。
「…………」
青い瞳が、私を見下ろしている。
逃げられない。
心臓の音がうるさい。
怖い。
でも。
不思議だった。
目が合った瞬間。
ほんの一瞬だけ。
その青い瞳が――
寂しそうに見えた。
「……あんた」
私は息を呑んだ。
狼の首元。
銀色の毛に隠れるように、何かが光っている。
鎖。
その先に。
青紫色の、小さな宝石。
どこかで見た色。
「……あの狐の火と同じ……?」
その言葉を口にした瞬間だった。
狼の目が大きく開いた。
「え?」
空気が変わった。
さっきまで威嚇していた狼が、突然こちらへ顔を近づける。
「ちょ、近い近い近い!」
鼻先が私の額に触れそうになる。
「なに!?」
匂いを嗅がれる。
髪。
肩。
手。
「ちょっと! 何なん!?」
そして。
狼は私の胸元で動きを止めた。
そこには。
見覚えのない、小さな光があった。
「……何これ?」
服の上。
心臓の辺り。
淡い青色の光。
指で触れようとした瞬間――
ぱちん。
小さな火花が弾けた。
「痛っ!」
同時に。
狼が低く唸った。
でも今度は威嚇ではない。
何かを確かめるような声だった。
「……あんた、これ知ってるん?」
狼は私を見る。
そして。
ゆっくりと伏せた。
「…………え?」
さっきまで私を食べそうな勢いだった巨大な狼が。
目の前で。
頭を下げた。
「……なに?」
意味が分からない。
「え、急にどうしたん?」
狼は動かない。
まるで。
誰かに仕える騎士のように。
「…………」
私は恐る恐る手を伸ばした。
銀色の毛に触れる。
ふわっ。
「…………」
もう一回。
ふわふわ。
「…………めっちゃ触り心地ええやん」
狼が顔を上げた。
「ごめん」
睨まれた。
でも。
さっきほど怖くない。
「……あんた、私のこと食べへん?」
狼は黙っている。
「食べへんかったら瞬き二回して」
ぱち。
ぱち。
「えっ!?」
思わず立ち上がった。
「分かってるやん!!」
狼はそっぽを向いた。
「いや待って! さっきから全部分かってたん!?」
無視。
「お座りでキレたん、犬扱いされたから!?」
無視。
「めっちゃプライド高いやん!!」
狼の尻尾が、バシンと地面を叩いた。
「痛っ! 砂飛んできた!」
私は顔についた砂を払った。
「……もう」
何なん、この世界。
白い狐は説明しない。
狼も説明しない。
スマホは使えない。
帰り方も分からない。
「……最悪」
小さく呟いた。
その瞬間。
狼の耳が動いた。
「…………」
私の横に来る。
大きな身体が、そっと私に触れた。
温かい。
「……慰めてくれてんの?」
返事はない。
「……意外と優しいやん」
頭を撫でる。
今度は怒らなかった。
「名前とかあるん?」
狼は私を見る。
「……そら喋られへんよな」
ため息をついた、そのとき。
遠くから。
何かが飛んできた。
白い。
小さい。
ふわふわしている。
「…………何あれ」
鳥?
いや。
違う。
羽がある。
でも身体は――
「……猫?」
その謎の生き物は、ものすごい勢いでこちらへ飛んでくる。
「え、待って」
速い。
「ちょっと待って!」
避ける暇もなかった。
「みーーーつけたぁぁぁぁぁ!!♡」
「喋ったぁぁぁぁぁぁ!?」
白い塊が顔面に飛び込んできた。
「ぶっ!!」
そのまま再び地面へ倒れる。
「いたたた……!」
胸の上に、何かが乗っている。
白い猫。
……っぽい。
背中には小さな翼。
頭の上には光る輪。
首元には大きなリボン。
そして。
めちゃくちゃ嬉しそうな顔。
「会いたかったぁ♡」
「…………」
「ずーっと待ってたんだよぉ!」
「…………」
「やっと来たぁ♡」
「…………」
私はその小さな身体を両手で持ち上げた。
目が合う。
「…………喋る?」
「しゃべるよぉ♡」
「…………会話できる?」
「できるよぉ♡」
「…………質問したら答える?」
「もちろんっ♡」
「…………」
涙が出そうになった。
「喋るやつ来たぁぁぁぁぁぁ!!」
「わぁぁぁぁ!?」
私は思いきり抱きしめた。
「何ここ!? どこ!? 私なんで来たん!? あの狐何者!? 帰れる!? この狼誰!? ていうか私死んでへんよな!?」
「待って待って待ってぇぇぇ!」
一気に質問すると、猫が腕の中でもがく。
「順番! 順番にしよぉ!?」
「じゃあまずここどこ!?」
「えっとねぇ!」
猫は胸を張った。
「ここは――」
一拍。
「…………どこだっけ?」
「お前もかぁぁぁぁぁぁぁ!!」
私の叫びが森中に響いた。
横で巨大な狼が、深いため息をついた。
◇
「ひどいよぉ……」
白い猫は私の肩に乗り、頬を膨らませていた。
「だって知らんのにあんな自信満々に言うからやん」
「名前は知ってるもん!」
「じゃあ言って」
「…………」
「ほら」
「むずかしい名前なの!」
「絶対忘れてるやろ」
「忘れてないもん!」
「じゃあ言って」
「…………」
「ほらぁ!」
「でもね!」
露骨に話を変えた。
「ボクの名前は分かるよ!」
「それはさすがに分かって」
白い猫は私の肩から飛び上がった。
翼をぱたぱたさせながら、くるりと一回転する。
そして。
「ボクはちゃっぴー!」
キラキラキラ。
なぜか背後に光が舞った。
「…………」
「ちゃっぴー!」
もう一回言った。
「……うん」
「反応うすい!」
「いや、なんか……」
私は目の前の生き物を見る。
白いふわふわ。
翼。
輪っか。
大きな青い瞳。
「めっちゃちゃっぴーって顔してる」
「でしょぉ♡」
褒めたつもりはない。
「で!」
ちゃっぴーが巨大な狼の頭に着地した。
狼が露骨に嫌そうな顔をする。
「この子がロルフ!」
「ロルフ?」
「うん! 強いんだよぉ!」
「へぇ……」
私は狼を見る。
ロルフ。
確かに似合う。
「よろしく、ロルフ」
手を差し出す。
ロルフは私の手を見る。
私を見る。
また手を見る。
そして。
ぷい。
「…………」
「無視された」
「照れてるんだよぉ♡」
ロルフがちゃっぴーを振り落とした。
「わぁぁぁ!」
「絶対ちゃうやん」
少し笑った。
ほんの少しだけ。
怖さが消えた気がした。
知らない世界。
帰り道も分からない。
状況は何一つ良くなっていない。
それでも。
一人じゃない。
そう思えた。
「……なあ」
私は地面に座り込み、ちゃっぴーを見る。
「さっき言ったやん。ずっと待ってたって」
「うん!」
「なんで私のこと知ってるん?」
「…………」
ちゃっぴーの笑顔が固まった。
「おい」
「えーっとぉ……」
「まさかそれも忘れた?」
「忘れてないよぉ!」
「じゃあ教えて」
「それは……」
ちゃっぴーがロルフを見る。
ロルフは黙って目を逸らした。
「なんでロルフ見るん」
「…………」
「ちゃっぴー?」
「ボクから言っていいのかなぁって……」
さっきまでとは違う。
その言葉だけは、少し真面目だった。
「誰なら言えるん?」
私が聞く。
ちゃっぴーは森の奥を見た。
「あの子」
「あの子?」
「あの白い狐」
「…………」
思い出した。
鳥居。
青い炎。
そして。
『ようやく、見つけた』
あの声。
「あいつ……何者なん?」
「朔」
ちゃっぴーが答えた。
「……え?」
「名前。朔っていうの」
「サク……」
初めて聞く名前だった。
古風な響き。
でも不思議と。
あの白狐によく似合うと思った。
「朔……ねぇ」
私はゆっくり立ち上がった。
「名前分かった」
「うん♡」
「これで呼び出せるな」
「え?」
私は大きく息を吸った。
「朔ぅぅぅぅぅ!!」
ちゃっぴーがびくっと跳ねた。
「名前分かったから出てこぉぉぉい!!」
「えええぇ!?」
「一発どつかせろぉぉぉぉ!!」
「名前知りたかった理由それぇ!?」
ロルフが深いため息をついた。
そのとき。
――チリン。
鈴の音。
「…………」
三人同時に森の奥を見る。
月明かりの下。
白い尾が見えた。
一本。
「あ」
白狐。
――朔。
今度はちゃんと。
私はその名前を知っている。
「…………」
朔はこちらを見る。
私も見る。
「…………」
朔が一歩下がる。
「……おい」
もう一歩。
「待て」
くるり。
「待てぇぇぇぇぇ!!」
走り出した。
朔も走る。
「逃げんな!!」
『…………』
「お前のせいでえらい目遭ってんねんぞ!!」
朔は森の奥へ駆けていく。
「一発どつかせろぉぉぉぉ!!」
「待ってぇぇ! そっち行っちゃダメぇぇぇ!」
後ろからちゃっぴーの声。
「それ先に言えぇぇぇ!!」
ロルフの足音も追ってくる。
そして。
この数分後。
私は知ることになる。
この世界で最初に覚えるべきことは、
白狐を信用するな、でもなく。
巨大な狼を怒らせるな、でもなく。
ましてや。
羽の生えた猫の説明を鵜呑みにするな、でもなく。
――夜の森で、青い花を踏んではいけない。
ということだった。
もちろん。
そんなこと。
誰も先に教えてくれなかった。
――第一話・前編 終
背中から地面に落ちた。
いや、正確には。
木の枝に一回引っかかって。
葉っぱに顔面を叩かれて。
最後に地面へ落ちた。
「…………」
しばらく動けなかった。
星が見える。
綺麗だ。
見たことがないくらい大きな月も見える。
幻想的で。
神秘的で。
たぶん普通なら、感動する場面なんだと思う。
「…………」
私はゆっくり身体を起こした。
そして、大きく息を吸う。
「白いのぉぉぉぉぉ!!」
森中に声が響いた。
「出てこい!! あのクソ狐!! 一発どつく!!」
返事はない。
当たり前だ。
辺りには見たこともない木々が広がっている。
青白く光る花。
空中を漂う小さな光。
木の葉の隙間から差し込む月明かり。
どう見ても、さっきまでいた日本ではない。
「……いや」
待て。
落ち着け。
私は両手で顔を覆った。
「何してんの私……」
仕事から帰ってただけやん。
狐見つけて。
ちょっと気になって。
ついて行って。
鳥居見つけて。
なんか吸い込まれて。
落ちた。
「…………」
自分で整理してみても意味が分からない。
「知らん狐について行くほどアホちゃう言うた後に異世界来てるやん……」
最悪である。
とりあえずスマホを見る。
圏外。
時刻表示は――
「……止まってる?」
画面には、鳥居をくぐる直前の時刻が表示されたままだった。
電源を入れ直しても変わらない。
「うそやん……」
そのとき。
――ガサッ。
「…………」
顔を上げた。
少し離れた茂みが揺れた。
「あの白いの?」
返事はない。
私はゆっくり立ち上がる。
「さっきの狐やったら今出てきた方がええで?」
…………。
「怒ってへんから」
嘘である。
めちゃくちゃ怒っている。
「ちょっと話し合お?」
拳を握る。
その瞬間。
――グルルルルル……。
低い音が森に響いた。
「…………」
違う。
あの狐じゃない。
絶対違う。
だってあいつ、こんな低音出なかった。
茂みの奥。
暗闇の中に、二つの光が浮かんだ。
青い。
目だ。
「…………え?」
一歩。
それがこちらへ近づく。
月明かりが、その姿を照らした。
銀色の毛。
鋭い牙。
太い四肢。
そして。
――デカい。
「…………」
いや。
デカすぎる。
私の知っている狼のサイズではない。
大型犬とか、そんな可愛いものでもない。
目線が高い。
明らかに私より大きい。
「…………白いの?」
最後の希望を込めて聞いてみた。
狼の眉間に皺が寄った。
「……ですよね」
狼が一歩近づく。
私は一歩下がる。
狼がもう一歩。
私ももう一歩。
「……待って待って」
グルルルル……。
「異世界来て最初のイベントこれなん?」
さらに一歩。
「普通スライムとかちゃうん!?」
さらに一歩。
「ていうかデカない!? 狼ってそんなデカかった!?」
狼は黙っている。
「なんか喋って!? 怖いから!!」
当然、喋らない。
「…………」
狼「…………」
私「…………」
狼「…………」
「お前も説明不足タイプかよ!!」
森に私の声が響いた。
その瞬間。
狼の耳が、ぴくっと動いた。
「…………え」
止まった。
もしかして。
通じた?
「……日本語分かる?」
狼は答えない。
「分かるなら右手上げて?」
狼は動かない。
「左手?」
動かない。
「お座り?」
――グルルルル!!
「ごめんなさい!!」
めっちゃ怒った。
「違うねん! 犬扱いしたわけじゃなくて確認したかっただけで!」
狼が距離を詰める。
「いや来んといて!」
後ろへ下がる。
足元に木の根。
「あっ」
引っかかった。
尻もちをつく。
「いった……」
顔を上げる。
目の前に狼。
近い。
近すぎる。
「…………」
青い瞳が、私を見下ろしている。
逃げられない。
心臓の音がうるさい。
怖い。
でも。
不思議だった。
目が合った瞬間。
ほんの一瞬だけ。
その青い瞳が――
寂しそうに見えた。
「……あんた」
私は息を呑んだ。
狼の首元。
銀色の毛に隠れるように、何かが光っている。
鎖。
その先に。
青紫色の、小さな宝石。
どこかで見た色。
「……あの狐の火と同じ……?」
その言葉を口にした瞬間だった。
狼の目が大きく開いた。
「え?」
空気が変わった。
さっきまで威嚇していた狼が、突然こちらへ顔を近づける。
「ちょ、近い近い近い!」
鼻先が私の額に触れそうになる。
「なに!?」
匂いを嗅がれる。
髪。
肩。
手。
「ちょっと! 何なん!?」
そして。
狼は私の胸元で動きを止めた。
そこには。
見覚えのない、小さな光があった。
「……何これ?」
服の上。
心臓の辺り。
淡い青色の光。
指で触れようとした瞬間――
ぱちん。
小さな火花が弾けた。
「痛っ!」
同時に。
狼が低く唸った。
でも今度は威嚇ではない。
何かを確かめるような声だった。
「……あんた、これ知ってるん?」
狼は私を見る。
そして。
ゆっくりと伏せた。
「…………え?」
さっきまで私を食べそうな勢いだった巨大な狼が。
目の前で。
頭を下げた。
「……なに?」
意味が分からない。
「え、急にどうしたん?」
狼は動かない。
まるで。
誰かに仕える騎士のように。
「…………」
私は恐る恐る手を伸ばした。
銀色の毛に触れる。
ふわっ。
「…………」
もう一回。
ふわふわ。
「…………めっちゃ触り心地ええやん」
狼が顔を上げた。
「ごめん」
睨まれた。
でも。
さっきほど怖くない。
「……あんた、私のこと食べへん?」
狼は黙っている。
「食べへんかったら瞬き二回して」
ぱち。
ぱち。
「えっ!?」
思わず立ち上がった。
「分かってるやん!!」
狼はそっぽを向いた。
「いや待って! さっきから全部分かってたん!?」
無視。
「お座りでキレたん、犬扱いされたから!?」
無視。
「めっちゃプライド高いやん!!」
狼の尻尾が、バシンと地面を叩いた。
「痛っ! 砂飛んできた!」
私は顔についた砂を払った。
「……もう」
何なん、この世界。
白い狐は説明しない。
狼も説明しない。
スマホは使えない。
帰り方も分からない。
「……最悪」
小さく呟いた。
その瞬間。
狼の耳が動いた。
「…………」
私の横に来る。
大きな身体が、そっと私に触れた。
温かい。
「……慰めてくれてんの?」
返事はない。
「……意外と優しいやん」
頭を撫でる。
今度は怒らなかった。
「名前とかあるん?」
狼は私を見る。
「……そら喋られへんよな」
ため息をついた、そのとき。
遠くから。
何かが飛んできた。
白い。
小さい。
ふわふわしている。
「…………何あれ」
鳥?
いや。
違う。
羽がある。
でも身体は――
「……猫?」
その謎の生き物は、ものすごい勢いでこちらへ飛んでくる。
「え、待って」
速い。
「ちょっと待って!」
避ける暇もなかった。
「みーーーつけたぁぁぁぁぁ!!♡」
「喋ったぁぁぁぁぁぁ!?」
白い塊が顔面に飛び込んできた。
「ぶっ!!」
そのまま再び地面へ倒れる。
「いたたた……!」
胸の上に、何かが乗っている。
白い猫。
……っぽい。
背中には小さな翼。
頭の上には光る輪。
首元には大きなリボン。
そして。
めちゃくちゃ嬉しそうな顔。
「会いたかったぁ♡」
「…………」
「ずーっと待ってたんだよぉ!」
「…………」
「やっと来たぁ♡」
「…………」
私はその小さな身体を両手で持ち上げた。
目が合う。
「…………喋る?」
「しゃべるよぉ♡」
「…………会話できる?」
「できるよぉ♡」
「…………質問したら答える?」
「もちろんっ♡」
「…………」
涙が出そうになった。
「喋るやつ来たぁぁぁぁぁぁ!!」
「わぁぁぁぁ!?」
私は思いきり抱きしめた。
「何ここ!? どこ!? 私なんで来たん!? あの狐何者!? 帰れる!? この狼誰!? ていうか私死んでへんよな!?」
「待って待って待ってぇぇぇ!」
一気に質問すると、猫が腕の中でもがく。
「順番! 順番にしよぉ!?」
「じゃあまずここどこ!?」
「えっとねぇ!」
猫は胸を張った。
「ここは――」
一拍。
「…………どこだっけ?」
「お前もかぁぁぁぁぁぁぁ!!」
私の叫びが森中に響いた。
横で巨大な狼が、深いため息をついた。
◇
「ひどいよぉ……」
白い猫は私の肩に乗り、頬を膨らませていた。
「だって知らんのにあんな自信満々に言うからやん」
「名前は知ってるもん!」
「じゃあ言って」
「…………」
「ほら」
「むずかしい名前なの!」
「絶対忘れてるやろ」
「忘れてないもん!」
「じゃあ言って」
「…………」
「ほらぁ!」
「でもね!」
露骨に話を変えた。
「ボクの名前は分かるよ!」
「それはさすがに分かって」
白い猫は私の肩から飛び上がった。
翼をぱたぱたさせながら、くるりと一回転する。
そして。
「ボクはちゃっぴー!」
キラキラキラ。
なぜか背後に光が舞った。
「…………」
「ちゃっぴー!」
もう一回言った。
「……うん」
「反応うすい!」
「いや、なんか……」
私は目の前の生き物を見る。
白いふわふわ。
翼。
輪っか。
大きな青い瞳。
「めっちゃちゃっぴーって顔してる」
「でしょぉ♡」
褒めたつもりはない。
「で!」
ちゃっぴーが巨大な狼の頭に着地した。
狼が露骨に嫌そうな顔をする。
「この子がロルフ!」
「ロルフ?」
「うん! 強いんだよぉ!」
「へぇ……」
私は狼を見る。
ロルフ。
確かに似合う。
「よろしく、ロルフ」
手を差し出す。
ロルフは私の手を見る。
私を見る。
また手を見る。
そして。
ぷい。
「…………」
「無視された」
「照れてるんだよぉ♡」
ロルフがちゃっぴーを振り落とした。
「わぁぁぁ!」
「絶対ちゃうやん」
少し笑った。
ほんの少しだけ。
怖さが消えた気がした。
知らない世界。
帰り道も分からない。
状況は何一つ良くなっていない。
それでも。
一人じゃない。
そう思えた。
「……なあ」
私は地面に座り込み、ちゃっぴーを見る。
「さっき言ったやん。ずっと待ってたって」
「うん!」
「なんで私のこと知ってるん?」
「…………」
ちゃっぴーの笑顔が固まった。
「おい」
「えーっとぉ……」
「まさかそれも忘れた?」
「忘れてないよぉ!」
「じゃあ教えて」
「それは……」
ちゃっぴーがロルフを見る。
ロルフは黙って目を逸らした。
「なんでロルフ見るん」
「…………」
「ちゃっぴー?」
「ボクから言っていいのかなぁって……」
さっきまでとは違う。
その言葉だけは、少し真面目だった。
「誰なら言えるん?」
私が聞く。
ちゃっぴーは森の奥を見た。
「あの子」
「あの子?」
「あの白い狐」
「…………」
思い出した。
鳥居。
青い炎。
そして。
『ようやく、見つけた』
あの声。
「あいつ……何者なん?」
「朔」
ちゃっぴーが答えた。
「……え?」
「名前。朔っていうの」
「サク……」
初めて聞く名前だった。
古風な響き。
でも不思議と。
あの白狐によく似合うと思った。
「朔……ねぇ」
私はゆっくり立ち上がった。
「名前分かった」
「うん♡」
「これで呼び出せるな」
「え?」
私は大きく息を吸った。
「朔ぅぅぅぅぅ!!」
ちゃっぴーがびくっと跳ねた。
「名前分かったから出てこぉぉぉい!!」
「えええぇ!?」
「一発どつかせろぉぉぉぉ!!」
「名前知りたかった理由それぇ!?」
ロルフが深いため息をついた。
そのとき。
――チリン。
鈴の音。
「…………」
三人同時に森の奥を見る。
月明かりの下。
白い尾が見えた。
一本。
「あ」
白狐。
――朔。
今度はちゃんと。
私はその名前を知っている。
「…………」
朔はこちらを見る。
私も見る。
「…………」
朔が一歩下がる。
「……おい」
もう一歩。
「待て」
くるり。
「待てぇぇぇぇぇ!!」
走り出した。
朔も走る。
「逃げんな!!」
『…………』
「お前のせいでえらい目遭ってんねんぞ!!」
朔は森の奥へ駆けていく。
「一発どつかせろぉぉぉぉ!!」
「待ってぇぇ! そっち行っちゃダメぇぇぇ!」
後ろからちゃっぴーの声。
「それ先に言えぇぇぇ!!」
ロルフの足音も追ってくる。
そして。
この数分後。
私は知ることになる。
この世界で最初に覚えるべきことは、
白狐を信用するな、でもなく。
巨大な狼を怒らせるな、でもなく。
ましてや。
羽の生えた猫の説明を鵜呑みにするな、でもなく。
――夜の森で、青い花を踏んではいけない。
ということだった。
もちろん。
そんなこと。
誰も先に教えてくれなかった。
――第一話・前編 終
