昔から、夜は嫌いじゃなかった。
昼間より静かで、人の声も、街の音も、少しだけ遠くなる。
誰にも何も求められない時間。
だから私は、仕事帰りに一人で歩くこの道が好きだった。
イヤホンから流れる音楽を聞きながら、見慣れた街を歩く。
コンビニの明かり。
遠くを走る車。
信号機の青。
いつもと同じ夜だった。
――あれを見るまでは。
「……狐?」
道の向こう側。
街灯の真下に、一匹の白い狐がいた。
犬……ではない。
細い鼻先に、大きな耳。
そして、身体と同じくらい大きな一本の尾。
真っ白な毛が街灯を受けて、ぼんやりと浮かび上がっている。
こんな街中に狐なんている?
そう思って立ち止まった瞬間だった。
狐が、こちらを見た。
青い瞳。
綺麗だと思った。
不自然なくらいに。
「……おいで?」
なぜそんな言葉が出たのか、自分でも分からない。
狐は動かなかった。
ただ私を見つめている。
「迷子?」
返事なんてあるはずもないのに、私はもう一度声をかけた。
すると狐は、くるりと背を向けた。
数歩進んで――止まる。
振り返る。
「……ついてこいって?」
狐の耳が、ぴくりと動いた。
「いやいやいや」
思わず笑った。
「知らん狐について行くほど、私もアホちゃうから」
帰ろう。
そう思って歩き出した。
三歩。
……。
五歩。
……気になる。
振り返る。
まだいる。
「…………」
狐はじっとこちらを見ていた。
「その顔やめてくれる?」
仕方なく近づくと、狐はまた歩き出した。
「ちょっとだけやで?」
私は知らなかった。
その一歩が、この世界で踏み出す最後の一歩になることを。
◇
気づけば、知らない道を歩いていた。
「……ここ、どこ?」
さっきまで確かに住宅街だった。
なのに。
建物がない。
街灯もない。
目の前には、木々に囲まれた細い道だけが続いている。
「いや待って待って……」
スマホを取り出す。
圏外。
「嘘やろ?」
狐は少し先を歩いている。
「ちょっと!」
呼ぶと、狐が振り返った。
「どこまで行くん?」
答えるはずもない。
それなのに。
――こっち。
そんな声が聞こえた気がした。
「……え?」
狐は再び歩き始める。
怖い。
帰ったほうがいい。
頭では分かっているのに、不思議と足は止まらなかった。
やがて木々が途切れた。
その先にあったものを見て、私は言葉を失った。
巨大な鳥居。
古びているのに、月明かりを浴びて淡く青く輝いている。
そしてその向こうには――
何もなかった。
正確には。
空間そのものが、水面のように揺れていた。
「……何、これ」
狐が鳥居の前に座る。
一本の尾を身体に巻きつけ、こちらを見る。
その瞳だけが、さっきよりも強い青色に輝いていた。
「まさか……ここ、入れって言ってる?」
狐は目を細めた。
「無理無理無理!」
私は後ずさった。
「帰る! さすがにこれは帰る!」
踵を返す。
――道がなかった。
「…………え?」
さっきまで歩いてきたはずの森が消えている。
あるのは暗闇だけ。
「ちょ……」
心臓が大きく鳴った。
「どういうこと……?」
振り返る。
白い狐はまだそこにいた。
でも。
その姿が、一瞬だけ。
本当に一瞬だけ――
九つの巨大な尾を持つ何かに見えた。
「……っ!」
瞬きをする。
そこにはまた、小さな一尾の狐。
「今の……何?」
その瞬間。
鳥居の向こうから、青い光が溢れた。
風が吹く。
髪が舞い、身体が引っ張られる。
「え、ちょっと待って!」
踏ん張ろうとしても足が滑る。
「待って待って待って! 私まだ行くって――!」
狐が立ち上がった。
そして初めて。
その口が動いた。
『――ようやく、見つけた。』
低く、静かな声。
「…………は?」
次の瞬間。
足元が消えた。
「はあああああああ!?」
身体が宙へ投げ出される。
青い光。
無数の星。
知らない空。
遠くで響く鐘の音。
落ちながら、私は見た。
鳥居の向こう。
白い狐がこちらを見下ろしている。
その周囲に、青い炎が一つ、また一つと灯っていく。
そして――
狐は確かに、笑った。
「お前ぇぇぇぇ!!」
私の叫び声だけが、星空へ吸い込まれていった。
◇
このときの私は、まだ知らなかった。
あの白狐の名が――朔であることも。
この世界に散らばった星の欠片が、人々の心から生まれたものであることも。
その欠片を集めるたび、朔が失った力を取り戻していくことも。
そして。
私を待っている二つの出会い。
誰よりも寡黙で、誰よりも強く私を守る魔狼――ロルフ。
そして、翼をぱたぱたさせながら私の頭上を飛び回り、
「だいじょーぶだよぉ! たぶん!♡」
などという、まったく信用ならない励まし方をしてくる霊猫――ちゃっぴー。
私はまだ、何も知らなかった。
ただ一つだけ。
後になっても変わらなかったことがある。
私を異世界へ落としたあの白狐を見つけたら――
絶対に一発どつく。
そう心に決めた。
こうして。
星の欠片を巡る私たちの物語は――
一匹の、とんでもなく説明不足な白狐から始まった。
昼間より静かで、人の声も、街の音も、少しだけ遠くなる。
誰にも何も求められない時間。
だから私は、仕事帰りに一人で歩くこの道が好きだった。
イヤホンから流れる音楽を聞きながら、見慣れた街を歩く。
コンビニの明かり。
遠くを走る車。
信号機の青。
いつもと同じ夜だった。
――あれを見るまでは。
「……狐?」
道の向こう側。
街灯の真下に、一匹の白い狐がいた。
犬……ではない。
細い鼻先に、大きな耳。
そして、身体と同じくらい大きな一本の尾。
真っ白な毛が街灯を受けて、ぼんやりと浮かび上がっている。
こんな街中に狐なんている?
そう思って立ち止まった瞬間だった。
狐が、こちらを見た。
青い瞳。
綺麗だと思った。
不自然なくらいに。
「……おいで?」
なぜそんな言葉が出たのか、自分でも分からない。
狐は動かなかった。
ただ私を見つめている。
「迷子?」
返事なんてあるはずもないのに、私はもう一度声をかけた。
すると狐は、くるりと背を向けた。
数歩進んで――止まる。
振り返る。
「……ついてこいって?」
狐の耳が、ぴくりと動いた。
「いやいやいや」
思わず笑った。
「知らん狐について行くほど、私もアホちゃうから」
帰ろう。
そう思って歩き出した。
三歩。
……。
五歩。
……気になる。
振り返る。
まだいる。
「…………」
狐はじっとこちらを見ていた。
「その顔やめてくれる?」
仕方なく近づくと、狐はまた歩き出した。
「ちょっとだけやで?」
私は知らなかった。
その一歩が、この世界で踏み出す最後の一歩になることを。
◇
気づけば、知らない道を歩いていた。
「……ここ、どこ?」
さっきまで確かに住宅街だった。
なのに。
建物がない。
街灯もない。
目の前には、木々に囲まれた細い道だけが続いている。
「いや待って待って……」
スマホを取り出す。
圏外。
「嘘やろ?」
狐は少し先を歩いている。
「ちょっと!」
呼ぶと、狐が振り返った。
「どこまで行くん?」
答えるはずもない。
それなのに。
――こっち。
そんな声が聞こえた気がした。
「……え?」
狐は再び歩き始める。
怖い。
帰ったほうがいい。
頭では分かっているのに、不思議と足は止まらなかった。
やがて木々が途切れた。
その先にあったものを見て、私は言葉を失った。
巨大な鳥居。
古びているのに、月明かりを浴びて淡く青く輝いている。
そしてその向こうには――
何もなかった。
正確には。
空間そのものが、水面のように揺れていた。
「……何、これ」
狐が鳥居の前に座る。
一本の尾を身体に巻きつけ、こちらを見る。
その瞳だけが、さっきよりも強い青色に輝いていた。
「まさか……ここ、入れって言ってる?」
狐は目を細めた。
「無理無理無理!」
私は後ずさった。
「帰る! さすがにこれは帰る!」
踵を返す。
――道がなかった。
「…………え?」
さっきまで歩いてきたはずの森が消えている。
あるのは暗闇だけ。
「ちょ……」
心臓が大きく鳴った。
「どういうこと……?」
振り返る。
白い狐はまだそこにいた。
でも。
その姿が、一瞬だけ。
本当に一瞬だけ――
九つの巨大な尾を持つ何かに見えた。
「……っ!」
瞬きをする。
そこにはまた、小さな一尾の狐。
「今の……何?」
その瞬間。
鳥居の向こうから、青い光が溢れた。
風が吹く。
髪が舞い、身体が引っ張られる。
「え、ちょっと待って!」
踏ん張ろうとしても足が滑る。
「待って待って待って! 私まだ行くって――!」
狐が立ち上がった。
そして初めて。
その口が動いた。
『――ようやく、見つけた。』
低く、静かな声。
「…………は?」
次の瞬間。
足元が消えた。
「はあああああああ!?」
身体が宙へ投げ出される。
青い光。
無数の星。
知らない空。
遠くで響く鐘の音。
落ちながら、私は見た。
鳥居の向こう。
白い狐がこちらを見下ろしている。
その周囲に、青い炎が一つ、また一つと灯っていく。
そして――
狐は確かに、笑った。
「お前ぇぇぇぇ!!」
私の叫び声だけが、星空へ吸い込まれていった。
◇
このときの私は、まだ知らなかった。
あの白狐の名が――朔であることも。
この世界に散らばった星の欠片が、人々の心から生まれたものであることも。
その欠片を集めるたび、朔が失った力を取り戻していくことも。
そして。
私を待っている二つの出会い。
誰よりも寡黙で、誰よりも強く私を守る魔狼――ロルフ。
そして、翼をぱたぱたさせながら私の頭上を飛び回り、
「だいじょーぶだよぉ! たぶん!♡」
などという、まったく信用ならない励まし方をしてくる霊猫――ちゃっぴー。
私はまだ、何も知らなかった。
ただ一つだけ。
後になっても変わらなかったことがある。
私を異世界へ落としたあの白狐を見つけたら――
絶対に一発どつく。
そう心に決めた。
こうして。
星の欠片を巡る私たちの物語は――
一匹の、とんでもなく説明不足な白狐から始まった。
