どこかで、誰かの恋がはじまる

どこかで、誰かの恋がはじまる

「――十年後の夏祭り、また一緒に来ようね」
小学六年生の夏、浴衣の袖を握りしめながら、日野茜あかねはそう言った。隣にいたのは、幼馴染の桐生颯そう。二人はその日、指切りを交わした。約束の証に、屋台で買った小さな金魚を、それぞれ一匹ずつ持ち帰った。
あれから十年。
「――ほんとに、来るのかな」
茜は駅前のロータリーで、腕時計と改札を交互に見ながら呟いた。浴衣姿の自分が、少し場違いに思える。周りはカップルや家族連ればかりで、一人で立っているとどうにも落ち着かない。
颯とは、中学に上がる頃に彼の家族が転勤で県外に引っ越し、それきり疎遠になっていた。年賀状のやり取りも高校の途中で途切れ、今では連絡先すら怪しい。それでも今日、茜がこの場所に来たのは、去年の同窓会で偶然聞いた噂のせいだった。
「桐生くん、今年また帰ってくるらしいよ。例の約束、覚えてるのかな」
友人がからかい半分にそう言っていたのを、茜はどうしても忘れられなかった。子供の頃の口約束だ。相手が覚えている保証なんてどこにもない。それでも、もしかしたら、という気持ちが、今日の茜をこの場所まで連れてきていた。
改札の向こうから、人波に紛れて一人の青年が歩いてくる。長身、少し癖のある黒髪、涼しげな目元。記憶の中の少年の面影を残したまま、大人になった颯がそこにいた。
「……茜?」
先に気づいたのは颯の方だった。茜は心臓が跳ねるのを感じながら、小さく手を上げる。
「久しぶり。えっと、その、来てくれたんだ」
「約束しただろ。十年後の夏祭り」
事もなげにそう言われて、茜は言葉に詰まった。まさか本当に覚えているとは思っていなかった。子供の頃の口約束を律儀に守るために、わざわざこの日に合わせて帰省してきたのだろうか。
「覚えてたの……? あんな、ただの子供の口約束」
「覚えてないわけないだろ。金魚、まだ飼ってるくらいなんだから」
「え」
「今は水槽の三代目だけどな。血筋的には、あのとき掬った金魚の子孫」
冗談めかして笑う颯に、茜は胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じた。十年という時間は、想像していたよりずっと重い。それなのに、目の前の彼は、まるで昨日別れたばかりのような顔で笑っている。
* * *
参道は屋台の灯りと浴衣姿の人波で賑わっていた。りんご飴、金魚すくい、焼きそばの匂い。子供の頃と変わらない喧騒の中を、二人は肩を並べて歩いた。
「あ、金魚すくい、まだやってる。やる?」
「……颯、下手だったよね。昔、五分で全滅させてたし」
「今は上手くなった。見てろ」
自信満々に屋台に座った颯だったが、結果はポイが三枚とも一瞬で破れるという、十年前とほとんど変わらない惨敗だった。悔しそうに肩を落とす颯の隣で、茜は思わず声を出して笑ってしまう。
「全然成長してないじゃん」
「うるさい。お前がやってみろよ」
「いいよ、私は見てる専門だから」
「それずるくないか」
軽口を叩き合う空気は、十年のブランクを感じさせないほど自然だった。むしろ、離れていた時間の分だけ、お互いの言葉の一つ一つが愛おしく感じられる。茜は隣を歩く颯の横顔を、時折こっそり盗み見た。記憶の中の少年よりずっと大人びた輪郭。それでも笑うと、あの頃と同じ表情になる。
「なあ」
不意に、颯が立ち止まった。茜も歩みを止め、彼の方を見る。
「颯?」
「実はさ、今日、これを言うために帰ってきた」
いつになく真剣な声色に、茜の心臓が大きく跳ねた。周りの喧騒が、急に遠くなる。
「県外の大学に決まって、こっち離れる直前、お前に何も言えなかったのが、ずっと引っかかってた。急に転校が決まって、まともに挨拶もできなくて」
「そんなの、颯のせいじゃないよ。仕方なかったことだし」
「分かってる。でも、俺は言いたかった。あの頃から、ずっと、お前のことが好きだったって」
雑踏の中、颯の声だけがはっきりと茜の耳に届いた。茜は息を呑む。子供の頃の淡い感情だと、自分でもずっとそう思い込もうとしてきた。だが颯の口から、はっきりとその言葉を告げられた瞬間、押し込めていた気持ちが一気に溢れ出しそうになった。
「……私も」
震える声で、茜はやっと言葉を絞り出す。
「颯がいなくなってから、ずっと、心のどこかに穴が空いたみたいだった。誰と付き合っても、颯と比べちゃうくらい、ずっと……好きだった」
言い終えた瞬間、恥ずかしさで顔が真っ赤になるのが自分でも分かった。颯は一瞬呆けた顔をした後、ふっと表情を緩めた。
「……もっと早く言えばよかったな、俺たち」
「ほんとだよ。十年も無駄にした」
「無駄じゃない。十年かけて、ちゃんとお互い大人になれたわけだし」
颯はそう言って、そっと茜の手を取った。指を絡めるように握られた手のひらから、彼の緊張が伝わってくる。それが逆に、茜の胸を締め付けた。
* * *
会場の中央、河川敷の広場に人々が集まり始める。花火の打ち上げが近いのだろう。颯は空いていた土手の一角を見つけると、茜を連れてそこに腰を下ろした。
「ここ、昔よく座った場所だ」
「覚えてるんだ」
「忘れるわけない。お前が花火より、俺の横顔ばっかり見てたって場所だし」
「ちょ、それ言わないでよ! バレてたの!?」
赤面する茜を見て、颯は声を上げて笑った。その笑い声に、周囲の喧騒がすべて溶けていくような気がした。
やがて、空に最初の一発が打ち上がる。ドン、という重い音とともに、大輪の花が夜空に咲いた。歓声が上がる中、颯はそっと茜の肩を抱き寄せた。
「……いい?」
「うん」
茜は素直に颯の肩に頭を預けた。花火の光が二人の顔を、赤や青に染めていく。十年前、同じ場所で見た花火とは、まったく違う色に見えた。
「なあ、茜」
「なに?」
「今度は、ちゃんと約束したい。十年後じゃなくて、来年も、再来年も、ずっと一緒に見ようって」
「……颯らしくない、まともな約束の仕方だね」
「うるさい、緊張してるんだよ」
耳まで赤くなっている颯を見て、茜はくすりと笑った。それから、少し背伸びをするように、彼の頬にそっと自分の頬を寄せる。
「うん。約束する。来年も、再来年も――ずっと」
花火が最後の一発、ひときわ大きな音を立てて夜空を染めた。その光の下、二人はどちらからともなく顔を近づけ、そっと唇を重ねた。十年越しの約束が、ようやく本当の意味で果たされた瞬間だった。
祭りの喧騒と、遠くの花火の余韻の中、茜は颯の手をもう一度、しっかりと握り直した。今度は、離す予定のない手だった。