どこかで、誰かの恋がはじまる
吾輩は猫である。名前はまだ、正式には無い。飼い主からは「トラ」と適当に呼ばれているが、吾輩自身はこの呼び名にさほど愛着を持っていない。
さて、吾輩がこの物語を語る理由は、他でもない。吾輩の飼い主である青年、名を健一郎けんいちろうというのだが、この男が近頃、実に滑稽な事態に陥っているからである。
健一郎は、隣の家に住む娘、名を千鶴ちづるというのだが、この娘に対して、どうやら恋心なるものを抱いているらしい。吾輩は日がな一日、縁側で丸くなりながら、この愚かしくも微笑ましい人間の恋模様を、傍観する立場にある。
*
「トラ、お前は良いよな。恋の悩みなんて、無縁で」
健一郎は、吾輩を膝に抱きながら、そう独りごちる。吾輩としては、猫にも猫なりの複雑な事情があると言いたいところだが、生憎、人間の言葉を話す術を持たない。仕方なく、ニャアと一声鳴くにとどめておいた。
「今日も、千鶴さんとすれ違ったんだけどさ。挨拶しかできなかった。情けないよな」
情けない、というのは、吾輩も概ね同意見である。健一郎という男、仕事は真面目にこなすくせに、こと恋愛に関しては、驚くほど不器用な性質を持っている。
*
ある日、隣家の千鶴が、庭先で洗濯物を干していた際、吾輩はふらりと塀の上を歩き、彼女の家の庭に迷い込んだ。
「あら、トラちゃん。今日も遊びに来たの?」
千鶴は吾輩を見つけると、嬉しそうに駆け寄ってきた。吾輩がこの家に出入りするようになったのは、健一郎の恋の橋渡し役を、勝手ながら自任しているからに他ならない。
千鶴は吾輩を撫でながら、ぽつりと呟いた。
「トラちゃんの飼い主さん、健一郎さんって言うんだよね。……いつも会釈だけで、あんまり話したことないけど、なんか、気になる人ではあるんだよね」
吾輩は思わず、内心で快哉を叫んだ。この娘、憎からず健一郎のことを想っているらしい。ならば、これは吾輩の出番である。
*
吾輩は一計を案じ、その日の夕刻、健一郎の家と千鶴の家の間にある塀の上で、わざと大きな声で鳴いてみせた。
「ニャアアア!」
「トラ? どうした?」
異変に気づいた健一郎が庭に出てくる。同時に、洗濯物を取り込んでいた千鶴も、吾輩の声に気づいて顔を上げた。
「あ、健一郎さん。トラちゃん、いつもうちにも遊びに来るんです」
「そうだったんですね。すみません、勝手に」
「いえいえ、可愛いので大歓迎です」
吾輩の思惑通り、二人はようやく、まともに言葉を交わす機会を得た。吾輩は塀の上で丸くなりながら、この滑稽な茶番の行く末を、興味深く見守ることにした。
*
それから幾度か、吾輩を介した二人の交流は続いた。ある晩、庭先で偶然顔を合わせた二人は、吾輩をその場に置いたまま、珍しく長い会話に興じていた。
「あの、千鶴さん。突然なんですが、今度、お茶でもどうですか。その、二人きりで」
「……はい、喜んで」
吾輩は、二人のやり取りを、縁側から静かに見つめていた。人間の恋愛というものは、実に回りくどく、時間のかかる代物である。だが、こうして無事に実を結んだ様を見るのは、猫の身であっても、なかなかに気分の良いものだと、吾輩は思う。
健一郎が後日、上機嫌で吾輩を抱き上げながら、こう呟いた。
「トラ、お前のおかげかもな。ありがとよ」
吾輩は、ただ一声、満足げに鳴いておいた。
「ニャア」
吾輩は猫である。名前はまだ、正式には無い。飼い主からは「トラ」と適当に呼ばれているが、吾輩自身はこの呼び名にさほど愛着を持っていない。
さて、吾輩がこの物語を語る理由は、他でもない。吾輩の飼い主である青年、名を健一郎けんいちろうというのだが、この男が近頃、実に滑稽な事態に陥っているからである。
健一郎は、隣の家に住む娘、名を千鶴ちづるというのだが、この娘に対して、どうやら恋心なるものを抱いているらしい。吾輩は日がな一日、縁側で丸くなりながら、この愚かしくも微笑ましい人間の恋模様を、傍観する立場にある。
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「トラ、お前は良いよな。恋の悩みなんて、無縁で」
健一郎は、吾輩を膝に抱きながら、そう独りごちる。吾輩としては、猫にも猫なりの複雑な事情があると言いたいところだが、生憎、人間の言葉を話す術を持たない。仕方なく、ニャアと一声鳴くにとどめておいた。
「今日も、千鶴さんとすれ違ったんだけどさ。挨拶しかできなかった。情けないよな」
情けない、というのは、吾輩も概ね同意見である。健一郎という男、仕事は真面目にこなすくせに、こと恋愛に関しては、驚くほど不器用な性質を持っている。
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ある日、隣家の千鶴が、庭先で洗濯物を干していた際、吾輩はふらりと塀の上を歩き、彼女の家の庭に迷い込んだ。
「あら、トラちゃん。今日も遊びに来たの?」
千鶴は吾輩を見つけると、嬉しそうに駆け寄ってきた。吾輩がこの家に出入りするようになったのは、健一郎の恋の橋渡し役を、勝手ながら自任しているからに他ならない。
千鶴は吾輩を撫でながら、ぽつりと呟いた。
「トラちゃんの飼い主さん、健一郎さんって言うんだよね。……いつも会釈だけで、あんまり話したことないけど、なんか、気になる人ではあるんだよね」
吾輩は思わず、内心で快哉を叫んだ。この娘、憎からず健一郎のことを想っているらしい。ならば、これは吾輩の出番である。
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吾輩は一計を案じ、その日の夕刻、健一郎の家と千鶴の家の間にある塀の上で、わざと大きな声で鳴いてみせた。
「ニャアアア!」
「トラ? どうした?」
異変に気づいた健一郎が庭に出てくる。同時に、洗濯物を取り込んでいた千鶴も、吾輩の声に気づいて顔を上げた。
「あ、健一郎さん。トラちゃん、いつもうちにも遊びに来るんです」
「そうだったんですね。すみません、勝手に」
「いえいえ、可愛いので大歓迎です」
吾輩の思惑通り、二人はようやく、まともに言葉を交わす機会を得た。吾輩は塀の上で丸くなりながら、この滑稽な茶番の行く末を、興味深く見守ることにした。
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それから幾度か、吾輩を介した二人の交流は続いた。ある晩、庭先で偶然顔を合わせた二人は、吾輩をその場に置いたまま、珍しく長い会話に興じていた。
「あの、千鶴さん。突然なんですが、今度、お茶でもどうですか。その、二人きりで」
「……はい、喜んで」
吾輩は、二人のやり取りを、縁側から静かに見つめていた。人間の恋愛というものは、実に回りくどく、時間のかかる代物である。だが、こうして無事に実を結んだ様を見るのは、猫の身であっても、なかなかに気分の良いものだと、吾輩は思う。
健一郎が後日、上機嫌で吾輩を抱き上げながら、こう呟いた。
「トラ、お前のおかげかもな。ありがとよ」
吾輩は、ただ一声、満足げに鳴いておいた。
「ニャア」
