どこかで、誰かの恋がはじまる

どこかで、誰かの恋がはじまる

工事現場に、鉄と土の匂いが立ち込めていた。
――俺の名は、鬼塚おにづか豪ごう。三十五歳。この道二十年の鳶とび職人だ。
鉄骨の上を歩く。足元は五十メートル下の地面。だが、恐怖という感情は、とうの昔に捨ててきた。
……はずだった。
「鬼塚さん、お茶、持ってきました!」
現場事務所の受付、水野みずの葵あおいの声が響いた瞬間、鬼塚の心臓は、五十メートルの高さよりも、もっと危険な場所へと落ちていく感覚を味わった。
(――なんだ、この動悸は。修羅場を何度もくぐり抜けてきたこの俺が。)
「あ、ああ。ありがとよ」
無骨な声で応えるのが精一杯だった。差し出された麦茶のコップを受け取る手が、わずかに震えていることに、鬼塚自身、気づいていなかった。

夕暮れ、現場の片付けを終えた鬼塚は、一人、缶コーヒーを片手に佇んでいた。
(――あの女に、心を乱される。俺としたことが。)
自嘲するように笑う。だが、笑いながらも、脳裏には葵の笑顔がちらつく。二十年、鉄骨の上で命を懸けてきた男が、事務の女に、こうも簡単に揺さぶられるとは。
「鬼塚さん、まだ残ってたんですか」
背後から声がかかった。振り返ると、そこには葵が立っていた。
「……ああ。ちょっと、頭を冷やしてた」
「頭? 何かあったんですか」
「いや……いいんだ、忘れてくれ」
不器用に視線を逸らす鬼塚。だが、葵はまっすぐに彼を見つめたまま、動かなかった。
「鬼塚さん」
「なんだ」
「最近、私と目が合うと、逸らしますよね。何か、私、悪いことしましたか」
鋭い指摘に、鬼塚は言葉を失った。(――この女、鋭すぎる。修羅場より恐ろしい。)
「悪いことなんぞ、何もねえ。ただ……」
「ただ?」
「……いや、なんでもねえ」
「言ってください。気になります」
葵の真剣な瞳に射抜かれ、鬼塚はついに観念した。二十年の修羅場を生き抜いた男の口から、震える声が漏れる。
「――惚れちまったんだ、お前に。柄にもなく」
沈黙が流れた。夕陽が二人を赤く染める中、葵は驚いたように目を見開き、それから、ふわりと笑った。
「気づかなかったの、私だけだったんですね」
「……知ってたのか」
「みんな知ってましたよ。鬼塚さんが私を見る目、現場の若い衆にもバレバレでした」
「――なんてこった」
鬼塚は思わず頭を抱えた。二十年、鉄骨の上で培った鋼の精神が、事務の女一人に、こうもあっさりと崩される。だが、それも悪くないと、今は素直に思えた。
「鬼塚さん」
「……なんだ」
「私も、鬼塚さんのこと、ずっと気になってました。不器用だけど、現場のみんなに慕われてる、そういうところ」
葵の言葉に、鬼塚はもう、隠す術を持たなかった。
「――なら、これからは、隠さずにいくとするか」
「はい。よろしくお願いします、鬼塚さん」
夕陽の中、二人の影が重なった。二十年の修羅場を生きた男が、たった一人の女に、完全に陥落した瞬間だった。