どこかで、誰かの恋がはじまる

どこかで、誰かの恋がはじまる

「――というわけで、今日からお前の家に住むことになった」

放課後の空き教室。夕陽が差し込む窓際で、来栖ひなたはモップを持ったまま固まっていた。目の前には、金色の髪を無造作に結んだ、やたら整った顔の男が仁王立ちしている。背丈は百九十センチ近く、肩には見たこともない紋様の入った布を羽織り、腰には妙に時代がかった剣を差していた。コスプレにしては様になりすぎている。

「……は?」

ひなたの反応はそれだけだった。あまりに突拍子もないことを言われると、人間はとっさに言葉が出てこないものらしい。

「聞こえなかったか。雷神ライジンドウ、いや今は名を変えている。ライトと呼べ。今日からお前の家に世話になる」

「雷神……ライト……いや、あの、まず不法侵入なんですけど。ここ学校ですよ」

「窓から入った」

「そういう問題じゃなくて」

ひなたは深くため息をついた。三年二組、来栖ひなた、十七歳。特技は掃除当番をサボらないこと、特徴は影が薄いこと。恋愛にもクラスの派閥にも縁がなく、平穏な高校生活を粛々とこなしてきた自負がある。そんな彼女の平穏に、今、盛大にヒビが入ろうとしていた。

「あのですね、ライトさん。雷神っていうのは、あの、天候を司る神様の、あの雷神様のことですか」

「察しがいいな。その通りだ」

「冗談ですよね」

ライトと名乗る男は、答える代わりに右手を軽く払った。その瞬間、教室の蛍光灯がバチバチッと音を立てて瞬き、窓の外で青空だったはずの空に一瞬だけ稲光が走った。

「……」

ひなたはモップを取り落とした。

「信じたか」

「信じたというか、警察に電話しようか本気で悩んでます」

「無駄だ。人間の道具で俺をどうこうすることはできん」

自信満々にそう言い放つライトを、ひなたはじとっとした目で見つめた。神様というにはどこか締まりのない喋り方だし、なにより――

「そもそも、なんでうちに住むことになるんですか。理由を聞いてないんですけど」

「うむ。実はな」

ライトは急に声のトーンを落とし、周囲を気にするように視線を動かした。それから、心底言いにくそうに続けた。

「――天界の会計監査で、俺の担当区域の降雨量に大幅な誤差が出た。原因を調べたところ、俺が居眠りをしていた三日間、雷の管理を完全に放置していたことが発覚してな」

「はい」

「上司から一時的な謹慎処分を言い渡された。人間界での禊みそぎ期間として、一般人の生活に溶け込みながら反省文を書けと」

「はあ」

「その禊の同居先として、たまたま近くにいたお前が指名された」

「たまたまってなんですか! ふざけないでください!」

「本当にたまたまだ。窓の外を通りかかったら、部屋の電気を無駄に一日中つけっぱなしにしていた家があったから、ここなら電気代の心配は要らんなと」

「それ私の部屋の話ですよね!? つけっぱなしにしてたの謝りますけど、それとこれとは話が別です!」

叫んだ拍子に、廊下から「来栖さん、まだ掃除終わってないの?」と担任の声が飛んできた。ひなたは慌てて振り返り、「す、すみません、今終わります!」と返事をする。振り返ったときにはもう、ライトの姿は影も形もなかった。

「……夢? いや、今の絶対夢じゃない」

床に転がったモップを拾いながら、ひなたは今日という日がろくでもない方向に転がり始めたことを、いやというほど実感していた。

その夜。ひなたが自室の扉を開けると、当然のようにライトがベッドの上で胡座をかいていた。

「遅かったな」

「なんで入れたんですか鍵閉めてたのに」

「神だからだ」

便利な言葉で片付けるライトに、ひなたはもう突っ込む気力もなかった。とりあえずカバンを下ろし、椅子に腰掛ける。

「……本当に、しばらくここにいるつもりですか」

「上司の許しが出るまでな。長くて一ヶ月、短ければ三日で終わる。俺の態度次第らしい」

「じゃあできるだけ早く終わらせてください。目立たず、静かに、大人しく」

「善処しよう」

その言葉が全くもって信用ならないことを、ひなたは翌朝には思い知ることになる。

朝、寝ぼけ眼で台所に行くと、フライパンから雷のような轟音が響いていた。見れば、ライトが目玉焼きを作ろうとして、コンロの火を「もっと強くすればいい」という発想のもと、指先から本物の稲妻を放っていた。天井の照明が弾け、卵は炭化し、キッチンには焦げ臭い煙が充満していた。

「な、なにやってるんですか!!」

「火加減が難しい。人間の道具は繊細すぎる」

「繊細とかそういう話じゃなくて、家が燃える!」

慌てて換気扇を回し、窓を全開にするひなた。隣で悪びれもせず「次はうまくやる」と豪語するライトを横目に、彼女は本気で頭を抱えた。これが、噂に聞く「残念な神様」というやつなのだろうか。威厳もへったくれもない。

学校でも似たようなことが続いた。ライトは「監視のため」と称して転校生として現れ(いつの間にか転入手続きまで神通力で済ませていた)、隣の席に堂々と座った。授業中、教師の質問に誰も答えられずにいると、ライトが的外れに「天候のことなら任せろ」と挙手して、明後日の方向の答えを堂々と発表し、教室を沈黙させる。体育の時間には、バレーボールを「もっと高く飛ばせばいい」と本気で雷を落として大穴を開けかけ、慌てて阻止する羽目になった。

それでも不思議なことに、クラスメイトたちはライトを毛嫌いするどころか、妙に懐いていった。物怖じしない性格と、時折見せる不器用な優しさのせいだろう。落ち込んでいる生徒がいれば、変に持ち上げず「今日は雨が降る。傘を持っていけ」とだけ言って、本当に的中させる。困っている生徒の忘れ物を、こっそり神通力で見つけてやる。派手さの裏に、意外と面倒見のいい一面があった。

ひなたはそれを、少し離れたところから眺めていた。

「……なんか、あの人、思ったより悪い人じゃないのかも」

そう呟いたのを、隣にいた友人の亜里沙に聞かれてしまった。

「ひなた、あの転校生のこと気になってるの?」

「べ、別に! ただの居候というか、事情があって、その」

しどろもどろになるひなたに、亜里沙はにやにやと笑うだけだった。

事件が起きたのは、同居生活が始まって五日目の夜だった。

ひなたが夕食の後片付けをしていると、玄関の呼び鈴が鳴った。開けると、そこに立っていたのは、青白い顔をした見知らぬ女性――いや、女性のような何か、だった。

「雷神ライジンドウはこちらにいますか」

声に妙な響きがある。人間のものではない。ひなたが答えあぐねていると、奥からライトが出てきて、表情を一変させた。

「……お前、天界の使いか」

「いかにも。監査部より追加の報告要請です。降雨量誤差の原因について、より詳細な聴取が必要と判断されました」

「まだ禊の期間中のはずだ」

「規則が変わりました。反省が不十分と判断された場合、即時天界への強制送還及び、俸給の凍結処分が下されます」

淡々と告げられる内容に、ライトの表情がわずかに強張った。ひなたは初めて、この軽薄で騒がしい神様が、本気で困っている顔を見た気がした。

「……分かった。すぐに戻る」

「え」

思わず声を上げたのはひなただった。使いの女性はライトに一礼すると、音もなく姿を消した。玄関にはひなたとライトだけが残される。

「……戻るって、天界に、ですか」

「ああ。俺の失態のせいで、これ以上迷惑をかけるわけにはいかん。禊は途中だが、仕方ない」

いつになく殊勝な態度に、ひなたは戸惑った。この五日間、散々振り回されてきたはずなのに、いざ「もういなくなる」と言われると、胸の奥がざわつく。

「べ、別に、私は困ってないですよ。家は燃えかけたし、学校でも変な噂立てられたし、いい迷惑でしたけど」

「そうか。ならよかった」

「よくないです!」

思わず大声を出してしまい、ひなた自身が一番驚いた。ライトも目を丸くしている。

「……なんだ。行くなというのか」

「そういうわけじゃ、ないですけど……」

言葉に詰まるひなたを見て、ライトはふっと表情を緩めた。それは、これまで見せたことのない、静かで優しい笑い方だった。

「大丈夫だ。俺は神だぞ。人間の五日間なんぞ、俺にとっては瞬きの間だ。だが、正直に言うと」

一拍置いて、ライトは続けた。

「お前の家で過ごした五日間は、天界の千年よりも騒がしくて、悪くなかった」

「……それ、褒めてます?」

「褒めている」

不器用な言い方だったが、ひなたには十分すぎるほど伝わった。

「絶対また来てくださいよ。反省文とやら、ちゃんと書いて、真面目に禊を終わらせて」

「約束しよう。次はもっと上手く目玉焼きを焼いてみせる」

「そこは別にどうでもいいです」

思わず吹き出してしまったひなたに、ライトも笑った。窓の外では、まるで別れを惜しむように、静かな雨が降り始めていた。

「じゃあな、来栖ひなた」

「はい。……あ、待って」

ひなたが呼び止めると、ライトが振り返る。ひなたは少し迷ってから、思い切って言った。

「戻ってきたら、ちゃんと『ただいま』って言ってください。あと、ノックしてから入ってください。あと、あと」

「あと?」

「……その、無事に、帰ってきてください」

夜空に稲光が走り、次の瞬間には、ライトの姿は跡形もなく消えていた。ひなたは静かな部屋に一人残され、窓の外の雨音に耳を澄ませる。

数分後。

「――ただいま」

背後から聞こえた声に、ひなたは飛び上がって振り返った。ライトが、ばつの悪そうな顔で立っている。

「な、なんで戻ってきてるんですか!? もう見送ったばかりなのに!」

「反省文、お前の家で書いた方が捗る気がしてな。あと、上司に確認したら禊の期間はまだ二十五日残っていた」

「さっきの緊迫した空気を返してください!」

「返せん。それより、腹が減った。今度こそ、目玉焼きを――」

「絶対にコンロに触らないでください」

騒がしい声が、雨音に混じって夜の街に響いていく。来栖ひなたの平穏な日常は、こうして盛大に、しかしどこか温かく、崩れていくのだった。