どこかで、誰かの恋がはじまる
「本日をもって、あなたたちには夫婦として、対象の邸宅に潜入してもらう」
局長の言葉に、蒼あお真央まおは露骨に顔をしかめた。目の前には、既に見慣れた同僚――結城ゆうき玲れんが、涼しい顔で報告書に目を通している。
「よろしくお願いします、局長」
「よろしくなんかない。なんで相棒がこいつなんですか」
「不服そうだな、真央」
「不服しかないよ。あんた、任務中に平気で私を囮に使うタイプでしょ」
「人聞きが悪いな。あれは合理的判断だっただけだ」
飄々と言い返す玲に、真央は舌打ちしたい気分を必死に抑えた。二人はこの諜報機関でも指折りの実力者だったが、性格が正反対すぎて、これまで一度も組んだことがなかった。
* * *
潜入初日、豪奢な邸宅の客間で、真央は夫婦を演じるための衣装に着替えていた。深紅のドレスに身を包んだ姿を鏡で確認していると、背後から玲の声がかかる。
「よく似合っている」
「世辞はいい。それより、今夜のパーティーで接触対象の位置、確認しといて」
「もう頭に入っている。……真央、緊張してるのか」
「してない」
「珍しく、視線が泳いでる」
図星を突かれ、真央は思わず言葉に詰まった。任務前の緊張ではなく、玲と「夫婦」を演じることそのものに、妙な落ち着かなさを感じていたことを、自分でも認めたくなかった。
パーティー会場、玲は完璧な紳士を演じ、真央の腰に自然に手を回した。任務のための演技だと分かっていても、その手のひらの熱さに、真央の心臓は不本意なほど跳ねていた。
「奥さん、今夜は一段とお美しい」
耳元でわざと甘く囁く玲に、真央は笑顔を保ったまま、彼の足を思い切り踏みつけた。
「調子に乗らないで」
「痛……だが、この演技、悪くないだろう」
「最悪の部類だから」
軽口を叩き合いながらも、二人の連携は完璧だった。対象の警備を巧みにかいくぐり、目的の情報を抜き取ることに成功する。任務そのものは、拍子抜けするほど順調に進んでいった。
* * *
深夜、潜入先の邸宅を脱出した後、二人は隠れ家のアパートで一息ついていた。緊張が解けたせいか、真央はソファに崩れるように座り込む。
「疲れた……あんたと組むの、精神的に一番疲れる」
「光栄だな」
「褒めてないから」
軽口を返しながら、玲は真央の隣に腰を下ろした。いつもの飄々とした態度が、心なしか少し柔らかい。
「なあ、真央」
「なに」
「今日の演技、どこまでが演技だったか、正直に言ってもいいか」
不意な問いに、真央の心臓が跳ねた。
「……どういう意味」
「腰に手を回したとき、お前の心拍数が上がったのが分かった。訓練で培った観察眼だ。演技にしては、少し反応が正直すぎたんじゃないか」
「っ、それは、任務中の緊張で」
「俺もだ」
玲の言葉に、真央は思わず顔を上げた。いつも余裕たっぷりのこの男が、珍しく視線を逸らしている。
「腰に手を回した瞬間、柄にもなく緊張した。演技のつもりが、途中から本気になっていた自覚がある」
「……本気って」
「お前のことが、好きだということだ。任務のパートナーとしてじゃなく、一人の女として」
淡々とした口調の裏に、確かな熱がこもっていた。真央はしばらく言葉を失っていたが、やがて観念したように小さくため息をついた。
「……最悪。よりによって、こんな任務の帰り道に言うなんて」
「タイミングは選べなかった」
「私も、認める。今日のあんたの手、演技だって分かってても、ちょっとドキドキした」
素直な言葉に、玲はわずかに目を見開いた後、柔らかく笑った。
「では、次の任務でも、偽装夫婦を続けてもらえるか。……いや、次は偽装じゃなく、本物として」
「気が早い」
「善は急げ、が信条でな」
呆れながらも、真央はその手を拒まなかった。任務のために始まった偽りの関係が、いつの間にか、本物の始まりに変わっていた。窓の外、都市の夜景が二人を静かに照らしていた。
「本日をもって、あなたたちには夫婦として、対象の邸宅に潜入してもらう」
局長の言葉に、蒼あお真央まおは露骨に顔をしかめた。目の前には、既に見慣れた同僚――結城ゆうき玲れんが、涼しい顔で報告書に目を通している。
「よろしくお願いします、局長」
「よろしくなんかない。なんで相棒がこいつなんですか」
「不服そうだな、真央」
「不服しかないよ。あんた、任務中に平気で私を囮に使うタイプでしょ」
「人聞きが悪いな。あれは合理的判断だっただけだ」
飄々と言い返す玲に、真央は舌打ちしたい気分を必死に抑えた。二人はこの諜報機関でも指折りの実力者だったが、性格が正反対すぎて、これまで一度も組んだことがなかった。
* * *
潜入初日、豪奢な邸宅の客間で、真央は夫婦を演じるための衣装に着替えていた。深紅のドレスに身を包んだ姿を鏡で確認していると、背後から玲の声がかかる。
「よく似合っている」
「世辞はいい。それより、今夜のパーティーで接触対象の位置、確認しといて」
「もう頭に入っている。……真央、緊張してるのか」
「してない」
「珍しく、視線が泳いでる」
図星を突かれ、真央は思わず言葉に詰まった。任務前の緊張ではなく、玲と「夫婦」を演じることそのものに、妙な落ち着かなさを感じていたことを、自分でも認めたくなかった。
パーティー会場、玲は完璧な紳士を演じ、真央の腰に自然に手を回した。任務のための演技だと分かっていても、その手のひらの熱さに、真央の心臓は不本意なほど跳ねていた。
「奥さん、今夜は一段とお美しい」
耳元でわざと甘く囁く玲に、真央は笑顔を保ったまま、彼の足を思い切り踏みつけた。
「調子に乗らないで」
「痛……だが、この演技、悪くないだろう」
「最悪の部類だから」
軽口を叩き合いながらも、二人の連携は完璧だった。対象の警備を巧みにかいくぐり、目的の情報を抜き取ることに成功する。任務そのものは、拍子抜けするほど順調に進んでいった。
* * *
深夜、潜入先の邸宅を脱出した後、二人は隠れ家のアパートで一息ついていた。緊張が解けたせいか、真央はソファに崩れるように座り込む。
「疲れた……あんたと組むの、精神的に一番疲れる」
「光栄だな」
「褒めてないから」
軽口を返しながら、玲は真央の隣に腰を下ろした。いつもの飄々とした態度が、心なしか少し柔らかい。
「なあ、真央」
「なに」
「今日の演技、どこまでが演技だったか、正直に言ってもいいか」
不意な問いに、真央の心臓が跳ねた。
「……どういう意味」
「腰に手を回したとき、お前の心拍数が上がったのが分かった。訓練で培った観察眼だ。演技にしては、少し反応が正直すぎたんじゃないか」
「っ、それは、任務中の緊張で」
「俺もだ」
玲の言葉に、真央は思わず顔を上げた。いつも余裕たっぷりのこの男が、珍しく視線を逸らしている。
「腰に手を回した瞬間、柄にもなく緊張した。演技のつもりが、途中から本気になっていた自覚がある」
「……本気って」
「お前のことが、好きだということだ。任務のパートナーとしてじゃなく、一人の女として」
淡々とした口調の裏に、確かな熱がこもっていた。真央はしばらく言葉を失っていたが、やがて観念したように小さくため息をついた。
「……最悪。よりによって、こんな任務の帰り道に言うなんて」
「タイミングは選べなかった」
「私も、認める。今日のあんたの手、演技だって分かってても、ちょっとドキドキした」
素直な言葉に、玲はわずかに目を見開いた後、柔らかく笑った。
「では、次の任務でも、偽装夫婦を続けてもらえるか。……いや、次は偽装じゃなく、本物として」
「気が早い」
「善は急げ、が信条でな」
呆れながらも、真央はその手を拒まなかった。任務のために始まった偽りの関係が、いつの間にか、本物の始まりに変わっていた。窓の外、都市の夜景が二人を静かに照らしていた。
