どこかで、誰かの恋がはじまる

どこかで、誰かの恋がはじまる

病室の窓から見える空は、今日も痛いくらいに青かった。
「また来たの。暇なんだね、颯太そうた」
ベッドの上で本を読んでいた凪咲なぎさは、顔を上げずにそう言った。素っ気ない口調とは裏腹に、しおりを挟むその指先は、どこか嬉しそうに動いていた。
「暇なわけあるか。受験生だぞ、俺は」
「じゃあ勉強すればいいのに」
「凪咲の顔見ないと、集中できないんだよ」
颯太は椅子を引き寄せながら、平然とそんな台詞を口にする。三年前、入院生活を送る凪咲のクラスメイトとして知り合って以来、彼はほとんど毎日のようにこの病室に通い続けていた。
「今日の主治医の話、聞いた?」
凪咲がぽつりと切り出した。颯太の表情が、わずかに強張る。
「……ああ、聞いた」
「思ったより、早いみたい」
窓の外、入道雲が夏の空に大きく広がっている。凪咲の病状が、いよいよ予断を許さない段階に入ったことは、颯太も薄々気づいていた。それでも、はっきりと言葉にされると、胸の奥が締め付けられるように痛んだ。
「なあ、凪咲」
「なに」
「まだやってないことリスト、覚えてるか。二年前に作ったやつ」
「もちろん。海に行くとか、花火大会とか、色々書いたよね」
「今年の夏、全部やろう。俺が、全部連れて行く」
颯太の言葉に、凪咲は少し驚いたように目を見開いた。それから、困ったように笑う。
「私の体、外出許可、そんなに簡単には下りないよ」
「主治医の先生には、もう頼み込んである。短時間なら、外出許可出せるって」
「……もう頼んでたの?」
「凪咲に断られる前に、外堀から埋めておいた」
得意げに笑う颯太に、凪咲は思わず噴き出した。こういう強引なところが、昔から変わらない。それでいて、いつも自分のことを一番に考えてくれていることも、痛いほど伝わってくる。
「ずるいよ、颯太は」
「ずるくてもいい。凪咲と、少しでも多くの景色を見たいだけだから」
* * *
その夏、二人は約束していた場所を一つずつ巡った。海辺で貝殻を拾い、屋台の綿菓子を分け合い、打ち上げ花火を並んで見上げた。車椅子を押す颯太の手は、いつも優しく、それでいて力強かった。
花火大会の夜、人混みから少し離れた土手で、凪咲はぽつりと呟いた。
「颯太、ありがとう。こんなにたくさん、思い出作ってくれて」
「まだ終わりじゃない。来年も、再来年も、一緒に見るんだから」
「……無理な約束、しないでいいよ」
「無理じゃない。俺が、そうすると決めたことだから」
颯太は凪咲の手を、そっと握った。夜空に咲く大輪の花火が、二人の顔を赤や青に染めていく。
「もし――」
凪咲が言いかけた言葉を、颯太は静かに遮った。
「もし、なんて考えるのは、今夜だけはやめよう。今この瞬間、凪咲がここにいて、俺の隣で花火を見てる。それだけで、俺にとっては十分だ」
「……颯太」
「好きだよ、凪咲。ずっと前から、変わらず」
涙をこらえるように微笑んだ凪咲は、颯太の肩にそっと頭を預けた。
「私も、好き。颯太がいてくれたから、この三年間、頑張れた」
夜空に響く花火の音と、二人分の静かな鼓動だけが、その夜の記憶に深く刻まれていった。未来がどうなるかは、誰にも分からない。それでも、この瞬間だけは、確かに二人だけのものだった。