それは穏やかながら、芯の硬さを感じさせる口調だった。
「あの頃の僕は幼すぎて、母親が生活のすべてだった。だから、いつか優しい母親に戻るはずだって、ありもしない希望に縋ることしかできなかった。……“いつか”なんて来ない。あの人はそういう人間だったんだって、いまなら認められるけど」
彼の指先に力が入った。
眉根を寄せ、表情が、呼吸が揺れる。
「ずっと……怖かった。苦しかった。あの家であの人といると、息ができなくて。本気で殺されるんじゃないかって何度も思ったし……ずっと、逃げたかった」
割れた窓越しに見た彼の涙が蘇り、突き刺さったままだった氷の刃が溶けていく。
雨のせいか、目の前の彼も泣いているように見えた。
「叶人くん……」
たまらずこぼすと、彼は目を上げてわたしを見る。
澄んだ柔らかい微笑みに照らされた。
「学校でもそう。誰も僕と関わろうとしない中、羽衣だけはちがった。僕を見てくれた。僕の言葉を信じてくれた。ひとりぼっちだった僕と、ずっと一緒にいてくれたよね」
ひと筋、頬を伝った涙は、温度を感じた頃にはもう雨に溶けていた。
けれど、いつの間にか先ほどよりも優しい雨へと変わっている。
「あの人からの虐待のことも、真っ先に気づいてくれたのは羽衣だった。羽衣の存在が、あの頃の僕にとってどれだけ大きかったか……。どれだけ特別だったか、分かる? 唯一、安心できて信じられる相手だった。きみだけなんだよ」
小鳥を埋葬した日のこと、白猫を世話した日々のこと、ケーキを食べてしおりをあげた誕生日のこと────言い出したらきりがないほどの、ふたりで過ごした鮮やかな毎日が、蘇ってはきらめいた。
その眩しさとあたたかさにまた泣きそうになる。
「それに……本当は気づいていたよ、片想いじゃないってことも。うれしかった。羽衣の言う通り、きみさえいればよかったから。ほかの誰も関係ない。どうでもよかった。羽衣が僕のすべてだった」
────僕には羽衣ちゃんしかいない。
はにかんだようなあのときの彼の笑顔と重なり、焦がれていく。
こんなときでも花びらみたいに想いが積もってどうしようもない。
「あの日、羽衣があの人に立ち向かってくれて、怒ってくれて、どんなに救われたことか。ずっと否定されてきたのに……世界がひっくり返ったみたいだった。羽衣のお陰で人生が変わったんだ」
はっと見張った瞳が揺れるのを自覚する。
罪の根となったあの日が、彼の目にはそんなふうに映っていたなんて思わなかった。
「ずっと羽衣に伝えたかった……“ありがとう”って。あの人から解放されるきっかけまでくれて。僕を助けてくれて」



