君を忘れるための春。



「小さいときから、ずっと好きだったことも、一から全部、伝えてきた。恭弥の、…恋人だった凛とも、ちゃんと正面から向き合って、本音で話してきたの……っ。それでね、あの……」

そこまで一気に捲し立てると、糸は行き場をなくした熱に耐えかねるように、顔を真っ赤に染めて視線を彷徨わせた。
激しく上下するその華奢な肩を、響矢は大きな掌でそっと支えたまま、それまでの不敵さを完全に引っ込めたひどく優しい表情で、静かに語りかけた。

「ゆっくりでええよ。糸ちゃん」

彼の低くて温かい声に、糸はもう一度、強く真っ直ぐに響矢の瞳を見つめ返した。

「だからっ……! 私は、ここで、この京都の街で、どうしても手放したくない大切な人ができたからって。だから東京には一緒に帰れないって、ちゃんと面と向かって……断ってきたの……っ!」

「……うん」

響矢は静かに、糸の言葉を一文字も聞き逃さないように、真剣な眼差しで聞いてくれている。

「そのっ、……大切な人っていうのはね、結月とか、響矢くんのことで……っ」

「おう……」
響矢は少しだけ口元を緩め、愛おしさを堪えるように短く応じた。

「結月はね、私の一番大切な友達、で……っ」

そこまで言って、糸は一度、深く、深く呼吸をした。

浴衣の胸の奥で、心臓が壊れてしまうんじゃないかと思うほど激しく脈打っている。
けれど、もう自分の心に嘘をつく必要なんて、どこにもなかった。

糸はゆっくりと顔を上げ、最愛の彼の瞳を真っ直ぐに見据えた。

「響矢くんは……私の、大好きな人、です……っ」

その瞬間、響矢の切れ上がった瞳が、驚きにゆっくりと大きく見開かれた。
いつもはお調子者のフリをして、からっとした笑顔で糸を振り回していた彼が、生まれて初めて、言葉を失って呆然と立ち尽くしている。

けれど、糸の溢れ出しそうな恋心は、もう誰にも止められなかった。

「だからっ! 私が、今、好きで、好きで、本当にたまらない人は――目の前にいるっ、響矢くっ……――んッ!!」

その名前を最後まで叫びきるよりも早く、糸の身体は、抗えないほどの強い力で響矢の胸の中へと引き寄せられていた。

力いっぱい、響矢の両腕が糸の背中にぎゅっと回された。

「っ……! 響矢、くん……」

あまりの勢いと、抱きしめられたことに驚き、糸の目からは、張り詰めていた涙がポロポロととめどなく溢れ落ちた。
東京のホームで優しい嘘を吐いて泣いていたあの日の涙とは違う、心からの幸せに満ちた、本当に綺麗な涙。

響矢は糸の茶色い髪に自分の顔を埋めるようにして、耳元で「はぁー……っ」と、限界を迎えたような深い、深い溜息を吐き出した。

「……俺もや」

掠れた、けれど一滴の迷いもない響矢の声が、糸の鼓動を揺さぶる。

「俺も、ずっと糸ちゃんのことが、死ぬほど大好きや」

響矢はそう優しく囁くと、抱きしめていた腕の力をゆっくりと緩め、糸の身体をほんの少しだけ離した。

月明かりに照らされた彼の顔は、耳の裏まで真っ赤に染まり上がっていた。

響矢は糸の涙を拭うことももどかしいといった様子で、ゆっくりと顔を近づけると、驚いている糸の唇へと、吸い込まれるように自分の唇を重ねた。


静まり返った夜の道場に、切なくも甘い、小さな衣擦れの音だけが響き渡る。



暫くして、糸は少し恥ずかしそうに視線を泳がせながら、夜空を彩るきらきらとした残光を見上げた。

「……花火、上がっちゃったね」

お互いの緊張をほぐすように、糸がふわりと柔らかく笑う。

すると、響矢もどこか照れくさそうに、けれど本当に愛おしそうに目を細めた。

「せやなぁ。……でも、あー、俺。今、世界で一番、めっちゃ幸せやわ」

何一つ飾らない、彼の心からのストレートな言葉。
東京にいた頃の自分なら、こんな言葉を向けられたら戸惑って逃げ出していただろう。

けれど、今の糸の胸にあるのは、自分を丸ごと肯定してくれる響矢への、溢れんばかりの愛おしさだけだった。

「ふふ、大げさだなぁ…響矢くんは…」

糸はクスクスと、鈴の音のように笑った。
その笑顔に引き寄せられるようにして、どちらからともなく、二人はもう一度自然と腕を回し、ぎゅっと優しく抱き締めあった。

「大げさちゃうって、本気やし!」

「分かった、分かったから!……響矢くん、ちょっと苦しいよっ」

お互いの体温を確かめ合うように抱き合いながら、夏の夜の庭先で、二人はいつまでも幸せそうに笑い合っていた。

頭上では、体育祭のフィナーレを祝福するかのように、最後の大きな花火がパァーン!と夜空へ鮮やかに弾けた。



―――二人の新しい恋の物語は、初夏のまばゆい光に包まれながら、最高に幸せな幕を開けた。