しばらくして、暗い夜道の中に、花園高等学校の武道場がうっすらと明かりを灯して姿を現した。
糸はもう、自分の姿がどうなっているのかなんてこれっぽっちも気にしていなかった。
全力で夜道を走り続けたせいで、ひらひらとした藍色の浴衣は少し乱れ、ふんわりと巻いていた茶色いロングヘアも出発前よりかは少し崩れてしまっている。
それでも、胸の奥で爆発しそうなほど高鳴る鼓動に突き動かされるようにして、最後の力を振り絞って一歩を踏み出した。
カラン、コロン――。
静まり返った敷地内に、歪んだ下駄の音が不規則に響き渡る。
門をくぐった視線の先、月明かりと道場の外灯に照らされながら、紺色の袴姿でひたむきに竹刀を振り下ろしている彼の姿が目に飛び込んできた。
「響矢くんっっ!!」
喉の奥から、ありったけの声を出してその名前を叫ぶ。
「――えっ!?」
竹刀を振り抜いた形のまま、響矢の身体がピタッと凍りついた。
驚きに大きく目を見開いた彼に向かって、糸はよろよろと歩み寄り、そのままその場に崩れ落ちるようにして両膝に手を突いた。
「はぁっ……はぁっ……く、苦しい……っ」
肩を激しく上下させ、必死に酸素を吸い込もうと呼吸を荒らげる糸。
いつものお人形さんのように澄ました可憐な姿からは想像もつかないその必死な様子に、響矢は持っていた竹刀を庭の芝生へと放り出し、大慌てで糸のもとへと駆け寄った。
「え!? 糸ちゃんっ……っ!? ちょ、どないしたんや一体!! なんでこんな所におるん!?」
響矢は焦りで声を上ずらせながら、倒れそうになる糸の華奢な両肩を、自分の大きな掌で力強くガシッと支えた。
その頼もしい温もりに触れた瞬間、糸はばっと顔を上げた。前髪の隙間から覗く大きな瞳で、目の前にいる彼の顔を真っ直ぐ、強く見つめ据える。
「何ってっ……!! 響矢くんに、会いに、来たんだよっ……!」
「……え」
あまりにも直球すぎる糸の言葉に、響矢の思考が完全にストップした。
支えていた糸の肩を通じて、彼女の激しい心臓の鼓動が、自分の掌にまでドクドクと伝わってくる。
響矢はそこで初めて、至近距離にいる糸が、初夏の月明かりの下で艶やかにきらめく、ひらひらとした浴衣を身に纏っていることに気がついた。
崩れた髪が白い首筋にかかり、いつもより少しだけ大人びた、息を呑むほどに美しい彼女の姿。
「えっ……っていうか糸ちゃん、浴衣……?? なんやそれ……めちゃくちゃ、可愛すぎやんか……!?」
先ほどまでのシリアスな焦りはどこへやら、響矢は一瞬にして耳の裏まで真っ赤に染め上げると、その破壊力抜群の姿に頭がパニックを起こしてしまった。
「あかん、ガチでこれはあかんわ……」と呻きながら、片手で自分の顔を覆い、必死に照れ顔を隠そうとドギマギしている。
いつも自信満々で猪突猛進な彼が見せる、最高に愛らしい、彼だけのリアルなリアクション。
それを見つめながら、糸は自分の浴衣の胸元をぎゅっと握りしめ、一度だけ深く息を吸い込んだ。
「あのね……。私、さっきまでお祭りで、東京の幼馴染の……恭弥くんに会ってきたの」
「っ……」
響矢の動きが、ピタッと止まった。
顔を覆っていた手をゆっくりと下ろし、少しはだけた袴の奥で、彼の鋭い瞳が静かに引き締まっていく。
からかいの空気は一瞬にして消え去り、響矢は一人の男としての真剣な眼差しで、糸の言葉の続きを待つように彼女をじっと見つめ返した。



