糸は、自分の身体を包み込んでいた恭弥の温もりから、ゆっくりと、けれど確かな意志を持って身を離した。
「……ごめんね、恭弥」
静かに、そっと呟かれた拒絶の言葉。
抱きしめていた両腕を所在なさげに下ろした恭弥は、ゆっくりと目を見開いて糸を見つめた。
「……糸?」
その戸惑う瞳を、糸は逃げることなく真っ直ぐに見つめ返した。
涙を帯びた瞳の奥には、東京にいた頃の弱さはもう一欠片も残っていない。
「私はね、小さいときからずっと、ずっと恭弥が大好きだったよ。……それは、凛も同じ。私は恭弥のことも、凛のことも同じくらい本当に大切で……だから、ずっと変わらないままの三人がいいって、それだけを勝手に願ってたんだ」
浴衣の袖をぎゅっと握りしめ、糸はかつて誰にも言えなかった自分の弱さを言葉にして紡いでいく。
「だけど……私は、恭弥と凛から逃げたの。恭弥への想いを誰にも打ち明けないで、傷つくのが怖くて、本音を隠して、凛に嘘をついてまで…二人を裏切るみたいに逃げ出した。私はね、本当にずるい人間なんだよ」
自嘲気味に、ふわりと切なく笑ってみせる糸。そんな彼女の痛々しい姿に、恭弥は慌てて一歩、距離を縮めた。
「糸は、そんなんじゃない! ずるくなんかないよ。……なぁ、今からだって、俺達いくらでもやり直せるだろ……っ?」
今にも糸の腕を掴みそうなほど、必死に手を伸ばしてくる恭弥。
けれど、糸は優しく、静かに首を横に振った。
「恭弥。……ほんとに大好きだよ。ずっと、ずっと大好きだった。ちゃんとこの想いを伝えたかった。そして離れて、私もやっといろんなことが分かった。恭弥へのこの何年もの想いも、凛への大切な友情も。全部、私の宝物だよ」
「だったら……っ!」
「でもね」
糸は恭弥の言葉を遮るように、自分の浴衣の胸元にそっと手を当てた。
その掌の下で、新しく、そして激しく脈打つ鼓動を感じながら。
「私ね……ここで、この京都の街で、とても大切な人ができたの。恭弥と、凛と同じくらい……ううん、それ以上に、私の心を真っ直ぐに変えてくれる、本当に大切な人達がいるの。だから――恭弥の気持ちには、もう答えられない」
言い終えた瞬間、糸の白い頬を一筋の涙がゆっくりと伝い、夜の闇に消えていった。
長年引きずり続けた、不器用で切ない初恋の終わり。
けれど、それは決して悲しいだけの結末ではなかった。
過去から逃げるのをやめ、自分の足で新しい恋のために踏み出した、糸の強さの証だった。
糸の言葉の重さを、その瞳に宿る真剣な熱を受け止めて、恭弥の頬からも、ゆっくりと一筋の涙が伝い落ちた。
すべてを悟ったように、恭弥は握りしめていた拳をそっと緩める。
そして、いつもの太陽のような笑顔のなかに、どこか清々しさを滲ませて、小さく、吹っ切れたように笑ってみせた。
「そっか……。分かったよ。糸がそんなに真っ直ぐな顔して言うなら、…もうしょうがないよなっ」
「うん。……ありがとう、恭弥」
糸は最後の愛おしさを込めて微笑むと、ゆっくりと恭弥から背を向け、一歩ずつ歩き出した。
カラン、コロンと、夏の夜の境内に下駄の音が静かに響き渡る。
歩みを重ねるたびに、東京の三角関係という名の重い呪縛が、一枚ずつ剥がれ落ちていくような気がした。
去っていく糸の浴衣の背中を、恭弥は花火の始まりを告げる最初の破裂音のなかで、静かに見送り続けていた。
過去を完璧に精算した糸の心は今、この京都の夏祭りの人混みのどこかで、自分のために必死に汗を流してくれているはずの、――響矢を想って走り出していた。



