君を忘れるための春。



お祭りの屋台を連れ立って見て回り、りんご飴や綿菓子を手にしながら他愛のない話に花を咲かせる。
その時間は、まるで東京にいた頃の無邪気な幼馴染の三人に、一瞬で時を巻き戻したかのようだった。

人混みを離れ、境内の少し小高い丘の上まで歩くと、恭弥は視界の開けた木製のベンチへと糸を優しく案内した。

「ここからだったら、そろそろ始まる花火が丁度見えると思うよ」

恭弥はいつもの優しいお兄ちゃんのような顔で、ふわりと笑った。
糸の胸の奥に、一瞬だけ、言葉にできない悲しい影が過る。けれど、すぐにそれを打ち消すように「うん、ありがとう、恭弥」と、健気に笑ってみせた。

その時、恭弥の大きな掌が、糸の小さくて細い手をゆっくりと、けれど包み込むように強く握りしめた。
その温もりに導かれるようにして、糸は恭弥の真っ直ぐな瞳をじっと見つめる。
恭弥の顔からいつもの余裕が消え、一人の男の子としての、ひどく真剣な眼差しに変わっていく。

「糸。俺、ずっと言えなかったことがあるんだ。今日、東京からここに来たのは、それを伝えるためだ」

恭弥は少しだけ照れくさそうに、けれど決意を秘めた声で言葉を紡ぐ。
「俺……ずっと、糸に会いたくてたまらなかったんだ」

「っ……」

直球すぎる言葉に、糸の胸の奥が、ぎゅうぎゅうと締め付けられるように苦しくなる。

「知ってると思うけど、凛とは……別れたよ。こんなこと、今更言うの、本当に情けないと思うし、最低だと思う。自分の身勝手で、凛のことを本当に、ひどく傷つけてしまった」

恭弥は痛みに耐えるように一度強く目を閉じ、それから、震える声で糸の手をさらに強く握り直した。

「でも、俺は……っ。糸が何も言わずに遠くへ行ってしまって、ずっと忘れる事ができなかった。ずっと糸のことが特別に大切で、大好きだったんだって……やっと、本当の自分の気持ちに気づくことができたんだ。ずっと、糸の優しさに甘えて、目を背けていただけだったんだって」

夕闇が迫る境内のなかで、糸の視界がじんわりと、温かい涙で曇っていくのが分かった。
東京で一人で抱え、醜い嫉妬だと自分を責め立てて泣いていた、あの何年間もの片思い。
それが今、一番欲しかったはずの言葉となって、大好きな恭弥の口から完璧に語られている。

恭弥は糸の頬を伝う涙に気づくと、愛おしさを堪えきれないといった様子で、糸の身体をゆっくりと、けれど離さないように力強くその胸の中に抱きしめた。

「糸……ずっと、ずっと、大好きだったよ。もう自分に嘘はつきたくない。……お願いだから、もう一度、俺と一緒に東京に来てほしい」

耳元で響く、恭弥の切実な呼吸と温もり。
ずっと、ずっとこの腕の中で私だけを見てほしいと願っていた。もし、この言葉を東京のあのホームで聞けていたら、どんなに幸せだっただろう。

しかし、恭弥の腕に包まれながら、糸の脳裏に鮮烈に浮かび上がったのは、恭弥ではなかった。

『俺が糸ちゃんのの心ん中に居座っおる“恭弥”に、勝てばええだけの話やろ?』

あの不器用で、だけど誰よりも真っ直ぐに自分を照らしてくれた東雲響矢の、眩しい笑顔だった。