君を忘れるための春。



あのドキドキが詰まった体育祭が終わり、季節は本格的な夏休みを迎えていた。

強い夏の日差しが窓の外でジリジリと照りつけるなか、糸は自室の机に向かい、冷房の風を感じながら夏休みの宿題をこなしていた。
シャーペンを動かす手をふと止めたその時、机の上でスマホが短く震え、画面を灯した。

通知を開くと、送り主は響矢だった。
道場で汗を流す部員たちの背景と一緒に、汗で前髪を濡らした彼の自撮り写真が添えられている。メッセージには『糸ちゃん、京都の夏はごっつい暑いわぁ。干からびそうやから助けてぇなー』と、他愛のない泣き言が綴られていた。

「ふふっ……」

写真の中の、相変わらず端正なのにどこか締まりのない彼の顔が可笑しくて、糸の口元は自然と綻んでいた。
自分の頬がじんわりと熱く緩んでいくのを自覚する。

あの体育祭の保健室の後、結月の粋な計らいというか、強引な作戦のおかげで、夏休み前になんだかんだで響矢と連絡先を交換することになった。

彼とメッセージを交わすことにひどく緊張したし、なんだか恥ずかしかった。

けれど、連絡先を受け取った瞬間に『糸ちゃん! 夏休み、時間空いたら絶対にデートしよな!』と犬のように尻尾を振って喜んでくれた彼の姿が、今でも鮮明に焼き付いている。

剣道部の主将として、夏休みも毎日死に物狂いで部活に打ち込んでいるはずなのに、響矢はこうして些細な合間を縫っては、毎日のようにメッセージを届けてくれるのだ。

(私……やっぱり、響矢くんが好き……)

東京の初恋の残像なんかじゃない。今、自分の心を真っ直ぐに照らし、過去の暗い殻から引っ張り出そうとしてくれる彼に、糸の心は確実に、深く惹かれつつあった。

そんなある、よく晴れた土曜日のこと。
糸は必要な買い物を済ませるため、京都の賑やかなショッピングモールへと出かけていた。
涼しい館内から、連絡通路を通って駅前へと続く歩道を歩いていた、その時。

ざわめく人混みの遠く向こうから、信じられないほど聞き馴染んだ、懐かしい声が響いた。

「糸――! 糸ってば!」

「え……」

まさか、そんなはずはない。心臓が嫌な音を立てて跳ね上がる。
糸が弾かれたように振り返ると、そこには、夏の太陽を浴びて少し肌の焼けた、東京に置いてきたはずの親友――凛の姿があった。

その現実が信じられなくて、糸は激しい衝撃に大きく目を見開いた。
指先から一気に力が抜け、抱えていた買い物袋が、乾いたアスファルトの上にドサリと音を立てて落ちてしまう。

『糸。今度の夏休み、そっちに行けることになった』

あの時、保健室で届いていた恭弥からのメッセージ。
その意味を、糸は今になって、最悪な形で理解することになった。

カンコンカンコン、と歩行者用の信号機が青に切り替わる。
「やっと会えた……っ!」と、大粒の涙を瞳に溜めた凛が、人混みをかき分けてこちらへと真っ直ぐに駆け寄ってくる。

「……り、ん……っ」

動揺で唇が激しく震え、それ以上の言葉が出てこない。
京都の地でようやく響矢への恋心を自覚し、新しい幸せを掴みかけていた糸の前に、東京からの過去の現実が、あまりにも突然に呼び戻されようとしていた。