君を忘れるための春。



「ええよ、そんなん。俺は糸ちゃんが無事やったら、それでええ」

響矢はそう言って、どこまでも真っ直ぐな、いつものお日様のような笑顔を浮かべた。
けれど、糸は溢れ出る涙をそのままに、もう一度、頑なに首を横に振った。

「違う……違うの」

「糸ちゃん?」

怪訝そうに眉をひそめる響矢の視線を正面から受け止め、糸は拳を握りしめて声を絞り出した。

「響矢くんの言う通りなの……。私、最初からずっと、響矢くんのことを見てなかった。ずっと響矢くんに似た、大好きで、好きで好きでたまらなかった私の幼馴染……恭弥のことが忘れられなくて……っ」

ずっと心の奥底に閉じ込めていた、誰にも言えなかった一番の、そして一番醜い本音。

「名前まで同じだから、ずっと響矢くんを見ることから逃げて、避けてた。だからあの日、初めて響矢くんと目が合ったときも、胸の奥が張り裂けそうでずっと辛かった……! 私は結局、恭弥のことが忘れられない! 恭弥からもらったキーホルダー一つでこんなに取り乱して、倒れるまで探し回って、響矢くんにたくさん迷惑をかけて……っ。私、本当に最低なの……っ!!」

自分を責め立てるように叫び、糸が顔を覆って泣き崩れそうになった、その時だった。

「――っ!」

視界が不意に反転し、手首を優しく、けれど抗えないほどの強さで引っ張られた。
気づいたときには、糸の身体はパイプ椅子から立ち上がった響矢の胸の中へと、力強く抱き寄せられていた。

厚い胸板から伝わる、トクトクと刻まれる響矢の激しい鼓動。カッターシャツのボタンが鎖骨に当たって、微かに痛む。

「……っ! 響矢くんっ!! 何して……っ、離してっ!!」

パニックになり、糸は彼の胸を両手で押し返して必死に抵抗した。
こんな自分は、彼のその真っ直ぐで綺麗な温もりに触れていい人間じゃない。
けれど、響矢は回した両腕にさらに力を込め、糸の華奢な背中をぎゅうと、壊れ物を保護するように抱きしめ直した。

「……離さへん。今離したら、糸ちゃんきっと壊れてしまうやろ」

低く、押し殺したような響矢の声が、耳元に直接響く。

「離さへん。…だから絶対に離さへん」

その絶対的な拒絶と、それ以上の深い優しさに、糸の身体からすとんと力が抜けた。
抵抗するのをやめ、響矢の学ランの胸元に顔を埋めると、堰を切ったように涙が次から次へと溢れ出して止まらなくなる。

「う……くっ、ふ……ぁ……っ」

静まり返った夕暮れの保健室に、糸の切ない泣き声と、鼻をすする音だけが小さく響き渡っていた。
響矢は糸の茶色いロングヘアを、大きくて温かい掌で何度も何度も、優しく、宥めるように撫で続ける。そして、心痛な面持ちで目を閉じると、掠れた声でぽつりと囁いた。

「辛かったな…ごめんな、直ぐに気づいてあげられへんくて。一人でずっと、そんな苦しい思いしてたんやな……ほんまごめん」

「っ……」

糸は驚きに大きく目を見開き、響矢の胸元からゆっくりと顔をあげた。
涙に濡れた長いまつ毛を震わせながら、目の前にいる彼の顔を真っ直ぐに見つめる。

どうして、そんな言葉を私にかけるの?
私はあなたを傷つけた。あなたに別の男の影を重ねて、都合よく逃げていただけの最低な女の子なのに。どうして、私の代わりにそんなに悲しそうな顔をして、私を許そうとしてくれるの――?

「っ……どうして、そんなにっ……」

掠れる声を絞り出して尋ねる糸を、響矢は泣き出しそうなほど愛おしそうに、真っ直ぐな瞳で見つめ返した。
そして、少しだけ切なげに、不敵に笑ってみせる。

「だって俺……糸ちゃんのことが、死ぬほど大好きやから」

恭弥にそっくりな、その顔。
けれど、そこに宿る熱は、あの都会に置いてきた不器用な初恋の残像なんかでは、もう決してなかった。
誰よりも近くで自分の傷を見つめ、包み込もうとしてくれる東雲響矢自身の愛の告白だった。

夕闇が差し込む保健室のなかで、糸の止まっていた恋の時間が、新しい温もりを伴って、今度こそ完全に動き出そうとしていた。