君を忘れるための春。


いよいよ、待ちに待った体育祭の幕が上がった。

運動場は色とりどりのクラスTシャツに身を包んだ生徒たちの熱気と、割れんばかりの歓声に包まれていた。

学年ごとの競技が順調に進むなか、二組の陣営は大盛り上がりを見せていた。
糸が出場した玉入れでは、チームの息の合った連係プレイで見事トップの成績を収め、続く障害物リレーでも、運動神経抜群の結月が怒涛のゴボウ抜きを披露して大きなリードを獲得したのだ。

「いけー! 赤組ぃぃ! 白組なんかに絶対に負けんなぁあ!!」

競技を終えた結月は、額の汗をぐっと拭いながら、声を張り上げて赤組の応援席で大はしゃぎしていた。
そのあまりの熱量に、糸は自分のクラスTシャツの裾を少し引っ張りながら、ぽつりと苦笑いを漏らす。

「結月、そんなに敵視しなくても……。白組って、響矢くんのいる組だよ?」

「あ。……ほんまや!あはは、すっかり忘れてさしもてたわ!」

結月はてへっと可愛らしく舌を出して頭を掻いた。そんな親友のカラッとした明るさに救われながらも、糸はメガホンを叩き合う周囲の凄まじい歓声に、少しだけ耳が痛くなってきていた。

「結月、私ちょっとジュース買いに行ってくるね。すぐに戻るから」

「おう、行ってらっしゃい! 私の分のパワーも買ってきてやー!」

元気よく手を振る結月に「うん」と微笑み返し、糸は賑やかな観客席を離れて、運動場の裏手にある自動販売機へと向かった。

グラウンドの喧騒が少しだけ遠のく。自販機の前に辿り着いた糸は、体操服のポケットから小さな財布を取り出した。

お金を出そうとしたその時、糸の視線は、財布のファスナーに揺れる小さなキーホルダーに吸い寄せられた。

可愛らしいイルカの形をした、少し年季の入ったキーホルダー。
――それは、小学校の頃、クラスの悪戯な男の子に奪われて泣いていた私を、怒りで肩を震わせながら助け出してくれた、恭弥がくれた大切なプレゼントだった。

あの時、恭弥は私をぎゅっと力強く抱きしめてくれた。私にとって、恭弥はいつだって絶対的なヒーローで、私の瞳はあの日からずっと、彼だけを追いかけ続けていたのだ。

「……前より、少し色あせてる」

指先でそっとイルカの背中を撫でてみる。
あの日からずっと肌身離さず持っていたはずの宝物が、京都の眩しい光の下では、なぜか少しだけ過去の贈り物のように見えた。
それはきっと、自分が今、この地で新しい一歩を踏み出そうと、必死にもがいて前を向いているせいかもしれない。

キーホルダーを優しく包み込むように握りしめながら、糸の脳裏に、あの渡り廊下での電話以来、ぷっつりと連絡が途絶えてしまった恭弥の顔が浮かび上がった。
凛との関係はどうなったのだろう。今頃、どんな顔をして過ごしているのだろう。

「――っ、いけない、いけない!」

糸は慌ててブンブンと首を横に振り、胸の奥に湧き上がろうとした過去の未練を激しく振り払った。

(いけない、いけない。私はもう、前を向かなきゃなんだから。……今は、ちゃんと響矢くんを、恭弥じゃなくて、一人の男の子として、見ようとしてるんだから……っ)

自分に強く言い聞かせるようにして、財布から小銭を取り出す。チャリンと小気味いい音を立てて自販機に投入し、スポーツドリンクのボタンを押した。
ゴトッと音を立てて落ちてきた冷たいペットボトルを拾い上げ、糸は火照った頬にそれを当てて少しだけ呼吸を整える。

「ん。よし、戻ろう」

これ以上過去を振り返らないと誓うように、財布を再び体操服のポケットに押し込み、糸は賑やかな歓声が響く運動場の方へと歩き出した。

しかし、歩き出した拍子に、ポケットの口から何かが滑り落ちた。

――カラン。

乾いた土の上に、小さなイルカのキーホルダーが静かに落ちて横たわる。

前を向いて歩き続ける糸は、自分の大切な過去のピースが、その場にぽつりと取り残されたことに、まだまったく気づいていなかった。