君を忘れるための春。



黄色い大歓声が飛び交うなか、声のした方へ糸が視線を向けると、学ラン姿の響矢がこちらに向かって全力で走ってきているところだった。

「へぇー、まあ響矢にしてはえーんとちゃうかー」

結月がいつもの調子でニヤニヤしながら、からかうように呟く。

息を弾ませて糸の目の前で足を止めた彼を見上げて、糸は目を丸くした。
「あれ、響矢くん。まだ練習中じゃないの?」

「あぁ、どーもない、どーもない。休憩に入った瞬間にダッシュしてきたわ! 結月はともかく、糸ちゃんがせっかく見に来てくれたんやから、会いに来るの当たり前やろ?」

響矢はそう言って、お日様みたいにきらきらと眩しい笑顔を弾けさせた。
周りの女子生徒たちの熱い視線なんてこれっぽっちも気にする風はなく、ただ真っ直ぐに自分だけを見つめて放たれた不意打ちの言葉。
糸は心臓が口から飛び出しそうなほど激しくドクンと跳ね上がるのを感じ、一瞬にして顔を真っ赤に染めた。

「えっ……あ、そう……?」
あまりの直球さに完全にキャパシティを超え、糸は次の反応に困ってオロオロと視線を彷徨わせる。

「なんやこれ。何を見せられてんのや私……なんかこっちまで恥ずかしいわ」

隣で結月が、これ以上ないほどじとりとしたジト目を響矢に向けていた。
響矢はそんな親戚の冷ややかな視線をスルーし、汗ばんだ額をリストバンドのついた腕で無造作に拭った。
「しっかし、あっついなぁー、今日は!」

学ランの襟元を少し緩める彼の仕草は、東京の恭弥の癖と驚くほど重なる。
なのに、そこから溢れる瑞々しい色気が漂っている。

「はぁー……。なぁ、糸ちゃん? ほんまこんなアホのどこがええの?」

結月がやれやれと肩をすくめ、わざとらしく呆れてみせる。

「ええっ!? ゆ、結月! ちょっと何言ってるの……っ!?」

完全に味方だと思っていた結月のまさかの直球パスに、糸は頭の中が真っ白になり、涙目になりながら慌てふためいた。

「あはは! 糸ちゃん顔真っ赤やんか。そんなに俺のこと真剣に見てくれてたんや?」

響矢は糸の狼狽ぶりがたまらなく愛おしいといった様子で、少し意地悪に、けれどひどく嬉しそうに目を細めてからかった。

「ち、違うから……っ! もう、ほら、皆待ってるし、早く練習に戻った方がいいよ!」

恥ずかしさが限界を迎えた糸は、顔を真っ赤にしたまま、照れ隠しで響矢の背中を両手でぎゅっと前へ押した。
男子高校生の背中は驚くほど固くて広く、掌から伝わるその体温にまた心臓が跳ね上がる。

響矢は糸の小さな抵抗に逆らうことなく、楽しそうに笑って振り返った。

「ほんま可愛ええなぁ、糸ちゃんは! ほな――最後まで、ちゃんと俺のことだけ見とってな」

クスクスと笑っていた声を少しだけトーンダウンさせ、響矢はどこまでも優しく、熱い眼差しで、糸だけを真っ直ぐに見つめ、頭に優しく手を置いた。
周囲の女子たちの黄色い声が、一瞬にして遠のいていくような錯覚に陥る。

「っ……」

糸は恭弥意外の男の子に、頭をポンとされ、暫く驚いて大きく目を見開いたまま立ち尽くした。

「ほな、行ってくるわ!」
ひらひらと手を振り、再び白組の陣営へと走っていく響矢の後ろ姿。
学ランの背中が、初夏の光を浴びて眩しく輝いている。糸はその背中をじっと見つめながら、トクトクと高鳴り続ける自分の胸元をそっと押さえた。

(また、ドキドキしてる……。私、もしかしたら……響矢くんのこと……)

今、目の前で自分を誰よりも真っ直ぐに照らしてくれる東雲響矢という一人の男の子のことが、もう、どうしようもないくらいに気になり始めている。
その確かな恋心の芽生えを、糸はついに自覚し始めていた。

「糸ちゃん。はよしな、他のクラスの女子らに取られてまうでー?」

いつの間にか隣に並んだ結月が、ニヤニヤしながら糸の横顔を覗き込んできた。

「ええっ!? あ、違うってば……! もう、結月までからかわないでよっ!」

糸はカバンで真っ赤になった顔を隠すようにして、ぷんぷんと結月の肩を小突いた。

初夏の青空の下、舞い上がる砂埃さえもきらきらと輝いて見えた。