君を忘れるための春。



「ちょっと待って」

すれ違いざま、糸の制服の腕を、響矢が無骨な手で優しく掴み取った。
予期せぬ温もりに、糸は弾かれたように驚いて振り返る。

「"響矢(きょうや)"や」

引き留めた彼は、静かにそう口にした。
意図が分からず、糸は目を丸くして「え?」と聞き返す。
すると響矢は、いつもの不敵さを少しだけ引っ込め、照れくさそうに眉を下げて笑った。

「俺の下の名前、知ってるやろ? 東雲くんって呼ばれるたびに、なんかずっと引っかかっててん。なんか他人行儀みたいで寂しいなぁ、思て」

「っ……」

その言葉が耳に届いた瞬間、糸の胸の奥で、心臓がドクンと激しく脈打った。
『きょうや』。
東京に大好きな人を置いてきて以来、彼を思い出すのが怖くて、ずっと無意識に避けてきた名前。それを今、まさに目の前にいる彼自身から「呼んでほしい」と突きつけられるなんて、思ってもみなかった。

糸は激しい動揺を隠すように少し視線を逸らし、小さく息を吐き出す。

「……えーっと、いきなり下の名前で呼ぶのは、その……恥ずかしくて、まだ呼べないよ」

女の子としての言い訳としては、十分に妥当なはずだった。
しかし響矢は、やはり糸が思っている以上にとても真っ直ぐだった。

「違う。……糸ちゃん、俺の名前を呼べへん本当の理由が、他にあるんとちゃうか?」

「え……っ」

完璧に図星を突かれ、糸の全身に電撃のような動揺が駆け巡った。

「そ、そんなんじゃないよ、ホントに……っ!」

焦って声を上ずらせる糸に、響矢は一歩、その距離を詰める。昼休みの廊下の光のなかで、彼の切れ上がった瞳が、糸の戸惑いを一滴残らずすくい上げるように見つめていた。

「じゃあ、なんで今、俺の顔を見られへんの? ――俺、初めて会った日から、ずっと気になっとった。初対面のとき、糸ちゃんは俺の顔を見て、まるで生き別れた双子にでも会うたかのような顔をしとったし……ずっと悲しそうやった」

響矢の低い声が、静かな廊下に重くはっきりと響き渡る。

「時々、俺を真っ直ぐ見てるようで……糸ちゃんは俺自身のこと、全然見てないやろ?」

すべて、当たりだった。
東京での惨めな失恋も、恭弥の顔を彼に重ねて都合のいい残像を追いかけていたことも、すべて彼に見抜かれていたのだ。
そこまで自分のことを見つめ、気づいてくれていたなんて。

糸は喉の奥がカラカラに乾き、いたたまれなくなって視線を彷徨わせた。

「えっと……その、それは、そうじゃ……なくて……」

完全に言葉に詰まり、歯切れが悪くなる糸を見て、響矢はふっと視線を落とした。
そして、掴んでいた糸の腕を、名残惜しそうにゆっくりと離す。

「……っごめん。責めたいわけやないねん」

響矢は少しぶっきらぼうに謝ると、今度はいつもとは違う、ひどく真剣な顔で糸を真っ直ぐに見据えた。前髪の隙間から覗くその瞳には、お調子者としての軽さは微塵も残っていない。一人の男の子としての、強い覚悟が宿っている。

「俺、ずっと糸ちゃんに、ただのお調子者やと思われとったやろうからさ!……結月がいない今のタイミングやないと、本気で話せるチャンスないと思て、ずっと伺っとった」

「――っ」

糸は息を呑み、驚きに大きく目を見開いたまま、動けなくなってしまった。

目の前にいる彼は、顔も名前も、あの大好きな恭弥にそっくりだ。
だけど、自分の気持ちに不器用で、私の涙にも気づかなかった恭弥とは、決定的に違う。
東雲響矢は、糸が隠そうとしていた心の傷も、涙も、視線の冷たさも、すべてを誰よりも近くで、真っ直ぐに、男の子の目で見つめ続けてくれていたのだ。