君を忘れるための春。


『ちょっと些細な喧嘩になったんだ。それが、糸のことで……』

「…えっ」

受話器の向こうから聞こえる恭弥の声は、ひどく掠れていて、今にも消えてしまいそうだった。

『俺らはさ、糸がいる三人の日常が当たり前だったから。糸が京都に行ってから、凛もその寂しさを埋めるように必死に部活に没頭してた。ただの忙しさによるすれ違いなだけなんだけど……、俺もやっぱり、急に糸が居なくなって心にぽっかり隙間が空いたように感じてさ。俺自身も部活が忙しくて凛と話す回数が減って、二人の空気がどんどん悪くなる一方で。それでこの間、凛に怒られたんだよ。――“恭弥は、私より糸の方が大事なんじゃないの?”って』

恭弥は自嘲気味に、悲しそうに低く笑った。
その言葉が耳に飛び込んできた瞬間、糸の胸の奥はキリキリときしむような激しい痛みに襲われた。

「それはっ……違うよ! 凛は、恭弥のことが本当に大好きなんだよ……っ。恭弥だって、凛のことが大好きなんでしょ? だったら、ちゃんと話し合って仲直りしなよ……!」

必死に声を絞り出す。
渡り廊下の窓の外を見つめると、中庭ではバスケ部の生徒たちが太陽の光を浴びながら楽しそうにはしゃいでいた。
その眩しい日常が今の自分とはあまりにもかけ離れていて、糸は冷たいガラス窓にそっと掌を当て、縋るように体温を求めた。

『だよな。糸の言う通りだよ。……でもさ、俺、凛に言われる前から本当は気づいてたんだ』

恭弥の声が、さらに切なさを帯びて糸の鼓動を激しく揺さぶる。

『糸がいなくなってから、今まで自分がどれだけ糸の存在に甘えていたんだろうって、気づけていなかった事が、段々と分かるようになった。俺にとって糸がずっと、特別に大切だったから……だから、こんなにもいなくなって寂しいと感じるし、辛いとも思うんだって。離れて、初めて気づくことができた』

「っ……!」

(それは……私も、同じだよっ)

あの日、東京のホームで自分の想いを全て置き去りにして逃げてきた。
今でも恭弥の声一つで、こんなにも胸が引き裂かれそうになる。
糸は激しい動揺を抑え込むようにぎゅっと目を瞑り、これ以上、過去の恋に引きずり戻されないよう言葉を紡いだ。

「でも……っ、恭弥が今、一番大切にしなきゃいけないのは凛でしょ……?」

せっかく、この京都の地で新しい一歩を踏み出し、響矢のまぶしさに触れて前を向きかけていたのに。
今更そんなこと言わないでよ。私の心をこれ以上、ぐちゃぐちゃにかき乱さないで。

『……うん。でも、糸。 俺は、ずっと凛と一緒にいて、凛を大切にしたいと思ってた。だけど……お前がいなくなってから、一瞬だって糸のことが頭から離れたことなんてない。それは、俺が――』

恭弥の言葉が、核心へと近づいていく。
(聞いちゃダメだ)と、糸の防衛本能が警鐘を鳴らした。

これ以上彼の本音を聞いてしまったら、本当に自分は東京のあの日々に連れ戻されてしまう。
二人の幸せを願って優しい嘘を吐き続けた自分のすべてが、崩壊してしまう。

「やめてっ……!」

糸は耐えきれなくなって、遮るように叫んだ。
冷たい拒絶の言葉が渡り廊下に響き渡り、糸の目から一粒の涙がこぼれ落ちそうになった、まさにその時。

「あれ? 糸ちゃんやん」

背後から、爽やかなカラッと弾んだ、聞き慣れた彼の声が響いた。

ハッとして糸が振り返ると、そこにはいつものように前髪を気怠げにかき上げながら、ニカッと眩しい笑顔を浮かべた響矢が立っていた。

恭弥からの電話で重い足音を完全に切り裂くように現れた彼は。
スマホを握りしめたまま、泣きそうな顔で立ち尽くす糸の姿を見て、響矢の瞳が一瞬にして見開くのがわかった。