君を忘れるための春。


次の日も、そしてまたその次の日も。
東雲響矢はまるでそれが当然の日課であるかのように、昼休みになると二組の教室へ遊びにやってくるようになった。

「なぁ糸ちゃん! 今日もめっちゃ可愛ええなぁ~! なぁ、今日の放課後、俺と剣道デートせぇへんか?」

響矢は糸と結月の席の間に割り込むようにして立ち、屈託のない笑顔を糸に向ける。
その迷いのない直球な言葉に、隣の結月がすかさず鋭いツッコミを飛ばした。

「はぁ? 剣道デートって意味分からんねんけど! ナンパならお断りやから!ほんま毎日毎日、よぉ飽きひんなぁ!」

「ナンパちゃうわ、俺の純粋な愛のアプローチや!」

最初の頃は、恭弥に瓜二つの顔でそんな風に迫られるたび、心臓が潰れそうなほど動揺していた糸だった。
けれど、毎日くり返される響矢の強烈なノリと、結月の容赦ない応酬を見ているうちに、糸の心からは少しずつ緊張が抜けていた。

(なんだか……この二人を見てると、すごく癒やされてる気がする)

東京にいた頃の自分は、いつも誰かの顔色を窺って、息を潜めていた。けれど、ここにあるのは裏表のない、からっとした温かい賑やかさだ。

「ほんま、九官鳥みたいに糸ちゃん糸ちゃんばっか。誰が汗臭い道場でデートなんかすんねん、アホか!」

結月が呆れたように腕を組んで言い放つ。すると響矢も負けじと、胸を張って言い返した。

「あのなぁ! 汗と涙を流して、心を通わせ合うデートも世の中にはあんねや! おこちゃまな結月には男のロマンが分からんのやろ!」

「誰がおこちゃまやねん!」

テンポよく繰り広げられる、まるで漫才のような二人のじゃれ合い。
それを正面からしばらく眺めていた糸は、とうとう胸の奥から湧き上がるおかしさを我慢することができなくなってしまった。

「あはっ……ふふ、あはははっ!」

澄んだ鈴の音のような、心の底からの明るい笑い声が糸の口から溢れ出す。
その瞬間、言い合っていた響矢と結月の動きがピタッと止まり、「え……」と驚いたように声を揃えて固まった。

特に響矢への破壊力は凄まじかった。

「あかん……これは、ガチであかんわ……」

響矢は耳の裏まで真っ赤に染め上げると、その照れ顔を隠すように片手をバッと顔に当てて、小さく呻くように天井を仰いだ。
いつも自信満々で猪突猛進な彼が、見たこともないほど動揺してドギマギしている。

「あはは、ごめんねっ、なんだか二人のやり取りがおかしくって……!」

糸は目尻に溜まった嬉し涙を指先でちょんと拭いながら、お腹を押さえて楽しそうに笑い続けた。

「ちょっとぉ、糸ちゃん笑いすぎやて! 恥ずかしいやんか!」
結月もどこか頬を赤くしながら、ぷんぷんと抗議の声を上げる。

一方、顔を手で覆ったままだった響矢は、指の隙間から、涙目を潤ませて笑う糸の姿をじっと見つめていた。
そのお人形さんのように可憐な顔に咲いた、これまでで一番自然で、一番眩しい満面の笑顔。

「……ほんま、可愛すぎやろ……」

響矢の唇から、掠れたような、本気の呟きがぽろりとこぼれ落ちる。

「え? 響矢、なんか言うた?」

結月は糸をなだめるのに忙しく、今の響矢の言葉に気づいていなかった。
もちろん、糸も楽しそうに笑う結月と話すのに夢中で、彼が自分に向けて放ったその甘く真剣な視線には、まだまったく気づいていなかった。

都会からの失恋の傷跡は、この騒がしくて愛おしい京都の日常のなかで、彼等の温もりによって、少しずつ、けれど綺麗に塗り替えられようとしていた。