君を忘れるための春。

「ごめんなぁ、糸ちゃん! ほんま失礼すぎるわ、響矢のやつ!」

廊下から戻ってきた結月は、開口一番、糸の前に駆け寄ってきて眉を下げて謝った。

「ううん、全然だよ。ちょっとびっくりしちゃったけど……東雲くんって、すごく面白い人なんだね」

カバンで赤くなった顔を隠していた糸だったが、クスッと漏れ出た笑みと一緒に顔を上げ、穏やかに微笑んだ。

結月は、糸の表情に先ほどまでの張り詰めていたものが消え、少し元気を取り戻しているのを見て、心底ホッとしたように胸をなでおろした。

「糸ちゃんがどうもないならええけど、ほんま迷惑やったらすぐ言うてな! あいつ、剣道も性格もほんまに猪突猛進やからさぁ。私は、せっかく友達になれた糸ちゃんに、悲しい顔なんか絶対にさせたないし!」

結月は小さな拳をきゅっと握り、お日様のような笑顔を向けた。
その言葉に、糸の胸はドキリと小さく跳ね上がる。

(悲しい顔、か……)

向こうでの惨めな自分を見破られたのかと思って一瞬だけ焦ったけれど、結月はただ、純粋に新しい友達である自分のことを大切に想ってくれているだけなのだと分かり、すぐに心の奥がじわりと熱くなった。

「ううん、迷惑なんかじゃないよ。……ありがとう、結月」

心からの感謝を込めて微笑み返すと、ちょうどそこで、授業の始まりを告げる予鈴が校舎に響き渡った。

「あ、チャイム鳴ったわ! ほなまたね、糸ちゃん!」

「うん、また後でね」

結月は慌てて自分の席へと戻っていった。
それまで響矢の登場で騒がしかった教室が一気に静かになり、生徒たちがそれぞれの教科書を開き始める。

糸は教材を机に出しながら、ふと教室の窓の外へと視線を向けた。
まだ五月だというのに、窓の隙間から滑り込んできたのは、どこか夏前の生温い気配を含んだ風だった。その風が、糸のふんわりとした茶色いロングヘアの毛先を優しく揺らしていく。

ざわざわと揺れる校庭の青葉を見つめながら、糸の意識はゆっくりと、遠い東京の空へと引き戻されていく。

(恭弥、凛……。今頃、どうしてるのかな…?)

あのホームでの別れから一ヶ月。
二人は今頃、同じクラスで楽しく笑い合っているのだろうか。
私のいない日常に、もう慣れてしまっただろうか。
授業の始まりを告げる先生の声が遠くで響くなか、糸は机に頬杖をつき、届くはずのない二人の面影を、静かにぼーっと考え続けていた。