何だかんだと目まぐるしい出来事が一気に押し寄せた、あのドキドキの土曜日の合同練習試合。
週末を挟み、新しく始まった週明けの月曜日。
糸の高校生活はまた少しずつ動き出そうとしていた。
糸が教室に入り、自分の席へと向かったその時だった。
「あ! 糸ちゃん、おはよう! 土曜日はほんまにありがとうなぁ~! ほんまめっちゃ助かったわぁ!」
ポニーテールをきゅっと揺らして、結月がぱっとひまわりのような満面の笑顔を輝かせながら駆け寄ってくる。
糸もその温かい姿に一瞬で心が満たされ、ブレザーの胸を弾ませて声を返した。
「結月、おはよう! え、そんな!あの時は私、補欠なのに勝手に試合に出ちゃって……逆に勝手なことしてごめんね」
糸が申し訳なさそうに眉を下げて笑うと、結月は「何言うてんの!」と大きく手を振った。
「糸ちゃんのおかげで、あのトーナメント戦勝てたんやから!! むしろ大感謝やわぁ!」
結月は勢いよく糸の身体に抱きついてくる。
裏表のない真っ直ぐな肯定感。
東京のきしんだ関係性の中にいた頃には感じられなかったその温もりに、糸の頬は嬉しさで自然と緩んでいった。
すると、結月は糸の腰にしがみついたまま、上目遣いで期待に満ちた瞳を向けてきた。
「なぁ、糸ちゃん。もし良かったら……うちの剣道部、正式に入らへん!?」
「えっ……」
まさかの直球のスカウトに、糸は思わず言葉を失った。
「…えっと、せっかく誘ってくれたのにごめんね。まだちょっと、部活に入ることは考えてなくて……」
京都に来たのは、傷ついた心を癒やすのが最優先だった。
これ以上過去の剣道の記憶を引っ張り出して、東京でのドロドロした感情を思い出したくなかったのだ。やんわりと断る糸に、結月は諦めきれない様子でさらに身体を寄せる。
「えーっ! もったいない! あんなに見事な三段突きできるのにぃ! 入ってぇやぁ~、糸ちゃんが居たら絶対楽しいってぇ~!」
結月が必死に粘って食い下がっていた、その時だった。
「おい結月〜、そんなベタベタして強引に迫ったら、糸ちゃん困って断られへんようになるやろ?」
低くて、少し掠れていて、だけど小気味よく弾んだ声。
「――っ!」
糸はびっくりして大きく目を見開いた。
声のする方を振り返ると、そこにはカバンを無造作に肩にかけ、前髪を気怠げにかき上げながら歩いてくる東雲響矢の姿があった。
響矢は糸と目が合うと、ニカッと悪戯っぽく、けれどどこまでも爽やかに笑ってみせた。
「よ! おはよう、糸ちゃん! 土曜日は急なお願いやったのに、試合出てくれてほんまにありがとうな!」
「なんや、響矢やん。カッコええ先輩が来たんか思て、びっくりして損したわ~」
結月がいつもの調子でフンと鼻を鳴らして突っ込みを入れる。
すると響矢はオーバーに肩をすくめて見せた後、すぐに糸の方を向いて救いを求めるように声を張った。
「『なんや』とは無いやろ、結月! ――糸ちゃん聞いて~、ほんまコイツ、昔からの俺にだけいっつも冷たいやつやねん。どう思う?」
テンポよく繰り広げられる、息の合った二人のフランクな掛け合い。
その眩しい姿を見つめていた糸の視界が、一瞬だけ、白くブレる。
(あ……)
脳裏に重なったのは、東京に残してきた、あの大好きな恭弥としっかり者の凛の姿だった。
もし、私が自分の気持ちを押し殺して、あのまま無理をして東京に残っていたら――きっと、こんな他愛のないやり取りが、当たり前の日常としてそこにあったのかもしれない。
(あ、また私、勝手に重ねて考えてる……! いけない、いけない。私はもう、離れるって決めたんだから)
糸は慌てて小さく首を横に振り、自分の内側に湧き上がろうとした過去の亡霊を必死に消し去ろうとした。
「ん、おーい……糸ちゃん?」
急に黙り込んで首を振った糸の様子を、響矢は不思議そうに、小首をかしげて覗き込んできた。
前髪の奥から、鋭くもどこか優しい瞳が、糸の顔をじっと見つめている。
ハッと我に返った糸は、自分の動揺を隠すように、すぐにいつもの優しい苦笑いを浮かべて見せた。
「ううん、何でもないの! ちょっとぼーっとしちゃって、ごめんね」
そう言って笑う糸の顔を、響矢はまだどこか心配そうに見つめている。
容姿は恭弥にそっくり。だけど、恭弥なら絶対に気づかないような小さな変化を、彼は鋭い観察眼で見落とさずにいるなんて糸は気付いていなかった。
京都の賑やかな日常は、糸の傷ついた心を、ほんの少しずつ、けれど確かに解きほぐしていってくれていた。



