昔から貴族は家を継ぐ男子を望んでいた。
その願いが神に届いたのか、それとも悪戯だったのか。
数十年もの間、生まれてくる子どものほとんどは男ばかり。
その結果、現在の未婚貴族の男女比は、およそ8対2。
令嬢は慢性的に不足し、貴族たちは息子に少しでも家柄の良い娘を迎えようと躍起になっていた。
名門公爵家の令嬢ともなれば、一日に何百通もの求婚状が届くことも珍しくない。
舞踏会では令息たちが列をなし、お茶会は未来の花嫁探しの場へと変わった。
誰が言い始めたのか。
貴族たちはこの異常な状況を「令嬢争奪戦」と呼んでいる。
その恩恵は、没落した私にまで及んでいた。
「リリアお嬢様、本日もたくさん届いておりますよ」
出勤しようと玄関へ行くと、家に唯一残ってくれた使用人のマルタが苦笑いしながら大きな籠を差し出す。
中には色とりどり封筒がぎっしり詰まっていた。
「……また?」
「48通あります。」
「昨日よりも少ないわね。」
「昨日は63通でしたから。」
少ないと言っても48通である。
父が亡くなり、領地を維持できず爵位を返上したアシュフォード家は、今では没落した元子爵家。
普通なら誰からも見向きもされない立場だ。
それなのに令嬢が少ないこの時代では「元子爵家令嬢」というだけで求婚される理由になるらしい。
そこで私は考えてみた。
今の世の中だったら20歳を過ぎても結婚相手には困らないだろう。
私はまだ16歳。
だったら、20歳になるまでは結婚のことは忘れて自分の好きなことをする。
私の好きなもの。
それは、本。
歴史書も伝記も薬草学も好きだけれど、一番好きなのは恋愛小説。
甘い言葉を囁く王子様。
不器用だけれど、一途な騎士。
身分違いの恋。
何百冊読んでも飽きることはない。
だから私は今、王宮にある宮廷図書館で司書補佐として働いている。
本に囲まれて暮らせるなんて、これ以上の幸せはない。
「お嬢様、いつも通り全てお断りのお返事を書きますね。」
「よろしくお願いします。」
「それではお気をつけていってらっしゃいませ。」
「行ってきます。」
こうして今日も、宮廷図書館での一日が始まる。
◇◇◇
「また断られたらしいわよ。」
「今回で12人目だとか。」
返却された本を書架へ戻していると、司書たちの話し声が耳に入る。
話題はもちろん、この国の王太子ーー
アルベール・ソル・レジス殿下。
容姿端麗。
文武両道。
誠実で聡明。
私がまだ令嬢としてお茶会に参加していた頃、『結婚したい男性は誰?』という話題になれば、必ず1位に名前が挙がるほど憧れの存在だった。
それなのに。
1人、また1人と妃候補が辞退していく。
気がつけば、もう12人。
「どうしてなのかしら……?」
これほど条件の良い男性なのに。
誰も理由を知らない。
だからこそ、様々な噂が飛び交っていた。
その答えを知ることになるとは、この時の私は思ってもいなかった。
「アルベール王太子殿下がお見えになります!」
図書館長の声に館内が静まり返る。
入口から歩いてきたのは、王太子殿下と桃色の淡いドレスをまとった可憐な令嬢。
きっと13人目の妃候補だ。
私は邪魔にならないように本棚の陰へ身を寄せた。
……でも。
少しだけ様子が気になる。
令嬢が柔らかく微笑む。
「殿下は普段、どのような本を読まれるのですか?」
「歴史書だ。」
「歴史書…私には難しくて、あまり読んだことがありません。恋愛小説はお読みになられますか?」
「読まない。」
(終わった!?)
危うく声が漏れそうになる。
そこは。
『君は恋愛小説が好きなのかい?おすすめがあるなら読んでみたい。』
とか。
『君のために読みやすい歴史書を用意するから、君も私のために恋愛小説を用意してくれるかい?』
とか。
あるでしょう!?
令嬢は健気に笑顔を崩さない。
「今日はお庭の薔薇がとても綺麗でした。」
「あぁ。」
(それだけ!?短すぎ!)
『今度一緒に見に行こう。』
とか。
『君は花が好きなのか?』
とか。
そこは、何でもいいから会話を広げないと!
私は堪えきれず、小さな手帳を取り出した。
【歴史書だ】
→『私は歴史書をよく読むが、君はどんな本が好きなんだい?』
【読まない】
→『恋愛小説は読んだことはないが、君のおすすめがあるなら読んでみたい。』
【あぁ】
→返答短すぎ!相手にも質問!
夢中で添削を書き込んでいく。
恋愛小説なら、こんなの初歩中の初歩なのに。
その時だった。
「殿下………。」
令嬢が足を止める。
「私と一緒にいても、楽しくありませんか?」
お願い!
今度こそ何か言って!
私は祈るような気持ちで二人を見守る。
アルベール殿下は少し考え、
「………いや。」
とだけ答えた。
(主語がありません!!!)
令嬢の瞳が揺れる。
「もう結構です。」
悲しそうな表情を浮かべ、令嬢は一礼した。
「私といることが苦痛なのでしたら、もう二度と殿下の前には姿を現しません。」
そう言って去っていく。
私は心の中でそっと呟いた。
(ほら、やっぱりこうなる。)
「やっぱり今回もダメだったのね。」
突然、背後から女性の声がした。
驚いて振り返る。
「お、王妃様!?」
慌てた拍子に手帳が床へ落ちる。
「あっ!?」
王妃エレノア様がそれを拾い上げ、ページをめくった。
『会話終了禁止!』
『もっと褒める!』
『主語がない!』
赤字まみれの添削が目に飛び込む。
(終わった……。)
王族の会話を勝手に添削するなんて、不敬にもほどがある。
今日で図書館は解雇だろう…。
解雇だけで済めばいいが、もしかすると処刑の可能性だって…。
恐怖で体を震わす私の前で、王妃様は肩を震わせた。
「ふふっ……。」
次の瞬間。
「あははははははっ!」
館内に笑い声が響いた。
「素晴らしいわ!」
「え?」
王妃様は私の両手をしっかり握る。
「あなたにお願いがある!」
「は、はい?」
「息子に恋愛を教えてちょうだい!」
思わず固まる。
「でも私、恋愛経験なんてありません。」
そう答えると、王妃様はにっこりとほほ笑んだ。
「安心して。」
「…はい?」
「あの子もゼロだから!」
「安心できません!」
この日、私の平穏な図書館生活は終わりを告げた。

