鏡の前で、ひまりは小さくため息をついた。
「……違う。」
ティッシュでアイラインを拭き取る。
もう三回目だった。
右は細く引けたと思えば左が太い。
左を直せば今度は右が曲がる。
「なんで……。」
鏡の中の自分は、どこかぎこちない。
引き出しの中には見慣れない化粧品がきれいに並んでいた。
きっと毎日使っていたはずなのに、どれをどう使えばいいのか分からない。
口紅を手に取っては戻し、ブラシを持っては首を傾げる。
時計を見る。
もうこんな時間。
蓮を待たせてしまう。
焦るほど手は動かなくなる。
「あ……。」
マスカラがまぶたについてしまった。
思わず目を閉じる。
情けなくて、少しだけ涙が滲んだ、その時だった。
――ピンポーン。
玄関のチャイムが鳴る。
「……さなさん!」
思わずそう呟いていた。
⸻
「おはようございます。」
いつもの穏やかな笑顔で入ってきたさなさんは、ひまりの顔を見るなり状況を察したようだった。
「うふふ。」
「ご、ごめんなさい……。」
ひまりは恥ずかしくて俯く。
「せっかく大人になったのに、お化粧もできなくて……。」
その声は少し震えていた。
さなさんは首を横に振る。
「できなくて当たり前ですよ。」
優しくティッシュを取る。
「記憶は十七歳なんですもの。」
その一言だけで、張りつめていた気持ちが少し軽くなった。
「今日は私に任せてください。」
「……お願いします。」
鏡の前に二人並ぶ。
「ひまりさんはお肌がきれいだから、薄くで十分。」
「目を閉じてくださいね。」
「はい。」
ブラシが頬を優しくなでる。
少しずつ鏡の中の自分が変わっていく。
「はい、できました。」
恐る恐る目を開ける。
そこに映っていたのは、自然な笑顔が似合う大人の女性だった。
「……私?」
「ええ。」
さなさんは嬉しそうに笑う。
「とてもお綺麗ですよ。」
ひまりは照れくさそうに笑った。
⸻
次はクローゼットだった。
ハンガーに並ぶ服を見ながら、さなさんが一着のワンピースを取り出す。
淡いラベンダー色。
柔らかな生地が陽の光を受けて揺れる。
「今日はお仕事ではありません。」
「今日は蓮さんのお仕事に付き添うだけですから。」
「会社へ遊びに行くようなものですよ。」
「少しだけ、おしゃれをしましょう。」
「でも……浮きませんか?」
「大丈夫。」
白いカーディガンを合わせ、小さなパールのイヤリングを添える。
「これくらいがちょうどいいですね。」
鏡の前へ立つ。
二十四歳の自分。
少し大人っぽいワンピース。
控えめなメイク。
「……こんな服、着てたんですね。」
「ひまりさん、とてもよくお似合いでしたよ。」
“でした”
その言葉が少し切なく響く。
でも嫌な気持ちにはならなかった。
「ありがとうございます。」
⸻
「蓮さん、お待たせしました。」
さなさんの声に、リビングのソファから蓮が立ち上がる。
何気なく振り返った、その瞬間。
「……。」
言葉が止まる。
ひまりは少し不安になった。
(やっぱり変……?)
ほんの一秒。
蓮は静かに視線を向けたまま、
「……似合ってる。」
そう言った。
ひまりの頬がふわっと赤くなる。
「ありがとうございます。」
照れながら小さく頭を下げる。
「じゃあ、行こう。」
蓮はそれだけ言って玄関へ向かった。
ひまりも慌てて後を追う。
少し後ろでその様子を見ていたさなさんは、くすっと笑う。
「蓮さん。」
靴を履いていた蓮が振り返る。
「耳、真っ赤ですよ。」
「……。」
蓮は一瞬だけ固まった。
何も言わず、そっと自分の耳へ触れる。
「……気のせいです。」
ぼそりと答えて視線を逸らす。
「そういうことにしておきます。」
さなさんは笑いを堪えきれない。
そのやり取りをよそに、ひまりはバッグの中を確認していた。
「忘れ物、ないかな……。」
何も気付いていない。
蓮は小さく咳払いを一つすると、
「行こうか。」
いつもの落ち着いた声で言った。
「はい。」
玄関の扉が開く。
柔らかな朝の風が二人を迎えた。
「……違う。」
ティッシュでアイラインを拭き取る。
もう三回目だった。
右は細く引けたと思えば左が太い。
左を直せば今度は右が曲がる。
「なんで……。」
鏡の中の自分は、どこかぎこちない。
引き出しの中には見慣れない化粧品がきれいに並んでいた。
きっと毎日使っていたはずなのに、どれをどう使えばいいのか分からない。
口紅を手に取っては戻し、ブラシを持っては首を傾げる。
時計を見る。
もうこんな時間。
蓮を待たせてしまう。
焦るほど手は動かなくなる。
「あ……。」
マスカラがまぶたについてしまった。
思わず目を閉じる。
情けなくて、少しだけ涙が滲んだ、その時だった。
――ピンポーン。
玄関のチャイムが鳴る。
「……さなさん!」
思わずそう呟いていた。
⸻
「おはようございます。」
いつもの穏やかな笑顔で入ってきたさなさんは、ひまりの顔を見るなり状況を察したようだった。
「うふふ。」
「ご、ごめんなさい……。」
ひまりは恥ずかしくて俯く。
「せっかく大人になったのに、お化粧もできなくて……。」
その声は少し震えていた。
さなさんは首を横に振る。
「できなくて当たり前ですよ。」
優しくティッシュを取る。
「記憶は十七歳なんですもの。」
その一言だけで、張りつめていた気持ちが少し軽くなった。
「今日は私に任せてください。」
「……お願いします。」
鏡の前に二人並ぶ。
「ひまりさんはお肌がきれいだから、薄くで十分。」
「目を閉じてくださいね。」
「はい。」
ブラシが頬を優しくなでる。
少しずつ鏡の中の自分が変わっていく。
「はい、できました。」
恐る恐る目を開ける。
そこに映っていたのは、自然な笑顔が似合う大人の女性だった。
「……私?」
「ええ。」
さなさんは嬉しそうに笑う。
「とてもお綺麗ですよ。」
ひまりは照れくさそうに笑った。
⸻
次はクローゼットだった。
ハンガーに並ぶ服を見ながら、さなさんが一着のワンピースを取り出す。
淡いラベンダー色。
柔らかな生地が陽の光を受けて揺れる。
「今日はお仕事ではありません。」
「今日は蓮さんのお仕事に付き添うだけですから。」
「会社へ遊びに行くようなものですよ。」
「少しだけ、おしゃれをしましょう。」
「でも……浮きませんか?」
「大丈夫。」
白いカーディガンを合わせ、小さなパールのイヤリングを添える。
「これくらいがちょうどいいですね。」
鏡の前へ立つ。
二十四歳の自分。
少し大人っぽいワンピース。
控えめなメイク。
「……こんな服、着てたんですね。」
「ひまりさん、とてもよくお似合いでしたよ。」
“でした”
その言葉が少し切なく響く。
でも嫌な気持ちにはならなかった。
「ありがとうございます。」
⸻
「蓮さん、お待たせしました。」
さなさんの声に、リビングのソファから蓮が立ち上がる。
何気なく振り返った、その瞬間。
「……。」
言葉が止まる。
ひまりは少し不安になった。
(やっぱり変……?)
ほんの一秒。
蓮は静かに視線を向けたまま、
「……似合ってる。」
そう言った。
ひまりの頬がふわっと赤くなる。
「ありがとうございます。」
照れながら小さく頭を下げる。
「じゃあ、行こう。」
蓮はそれだけ言って玄関へ向かった。
ひまりも慌てて後を追う。
少し後ろでその様子を見ていたさなさんは、くすっと笑う。
「蓮さん。」
靴を履いていた蓮が振り返る。
「耳、真っ赤ですよ。」
「……。」
蓮は一瞬だけ固まった。
何も言わず、そっと自分の耳へ触れる。
「……気のせいです。」
ぼそりと答えて視線を逸らす。
「そういうことにしておきます。」
さなさんは笑いを堪えきれない。
そのやり取りをよそに、ひまりはバッグの中を確認していた。
「忘れ物、ないかな……。」
何も気付いていない。
蓮は小さく咳払いを一つすると、
「行こうか。」
いつもの落ち着いた声で言った。
「はい。」
玄関の扉が開く。
柔らかな朝の風が二人を迎えた。


