窓の外に流れる景色が、少しずつ変わっていく。
見慣れない街並み。
初めて見る駅。
信号を曲がるたび、知らない景色が増えていく。
助手席からぼんやりと外を眺めていたひまりは、小さく息をついた。
「……遠いね。」
「そうだね。」
蓮が穏やかに返す。
「大学を卒業してから、ここへ来た。」
その言葉に、ひまりは静かに頷いた。
大学。
その二文字だけで、胸の奥が少しざわつく。
私は大学へ行ったんだ。
卒業もして。
仕事もして。
結婚もして。
全部、本当なのに、何一つ覚えていない。
車は住宅街へ入り、やがて大きな門の前でゆっくりと止まった。
「着いたよ。」
ひまりは窓の外を見て、思わず目を見開く。
「……ここ?」
黒い門扉の向こうには、広い庭と落ち着いた雰囲気の家が建っていた。
豪華というより、静かで品のある家。
「うん。」
蓮が頷く。
「俺たちの家。」
「……大きい。」
それしか言葉が出なかった。
こんな家に、自分が住んでいるなんて信じられない。
蓮がトランクから荷物を下ろし、ひまりはゆっくりと玄関へ向かう。
風が庭木を揺らしていた。
けれど、その音にも景色にも、記憶は少しも反応しなかった。
蓮が玄関の鍵を開ける。
扉が静かに開いた。
「おかえりなさい。」
優しい声が響く。
エプロン姿の女性が、笑顔で立っていた。
ひまりは思わず蓮へ顔を寄せ、小声で聞く。
「……お義母さん?」
蓮は一瞬目を丸くすると、小さく笑った。
「違う。」
「さなえさん。」
「昼間だけ家のことを手伝ってもらってる。」
「あっ……。」
恥ずかしさで耳まで熱くなる。
女性は優しく笑いながら歩み寄った。
「初めまして。さなえです。」
「みんなからは『さなさん』って呼ばれてます。」
「ひまりさんが大学生の頃から、お世話になってるんですよ。」
「よろしくお願いします。」
「こちらこそ、よろしくお願いします。」
深く頭を下げるひまりに、さなさんはどこか安心したように微笑んだ。
「さあ、どうぞ。」
玄関へ足を踏み入れる。
木の香りがふわりと鼻をくすぐった。
明るい玄関。
季節の花。
きれいに並んだ靴。
どれも知らないはずなのに、不思議と冷たさは感じない。
ここが……
私の家。
その瞬間だった。
「……ただいま。」
自然と口からこぼれた。
さなさんの目が少し潤む。
「おかえりなさい。」
その声に包まれるような温かさを感じる。
すると隣から、もう一つ声がした。
「おかえり、ひまり。」
蓮だった。
穏やかな笑顔。
ひまりは思わず見上げる。
どうしてだろう。
同じ「おかえり」なのに、胸の奥が少しだけ温かくなる。
理由は分からない。
でも、その声をもっと聞いていたいと思った。
「疲れただろ。」
「少し休もう。」
「うん。」
リビングへ入ると、大きな窓から午後の日差しが差し込んでいた。
木のテーブル。
柔らかなソファ。
壁いっぱいの本棚。
「わあ……。」
思わず足が止まる。
「すごい……。」
知っている作家。
知らない作家。
読んだことのある本。
見たこともない本。
様々な本がきれいに並んでいる。
蓮が静かに言った。
「少しずつ増えていった。」
ひまりは背表紙を指先でなぞる。
「……変わってないんだ。」
「うん。」
短い返事。
それだけで十分だった。
一冊の文庫本を手に取る。
「じゃあ、記憶にない本もあるんだね。」
「そうだね。」
「なんだか得した気分。」
「得した?」
蓮が少しだけ首を傾げる。
「うん。」
ひまりは本を胸に抱く。
「もう一回、新鮮な気持ちで読める。」
そう言って笑った。
蓮は静かにその笑顔を見つめる。
「……どうしたの?」
「いや。」
少しだけ間を置いて、穏やかに言った。
「その笑顔が見られて、よかった。」
その声は、どこか安堵しているように聞こえた。
ひまりは少し照れくさそうに笑う。
「変なの。」
その言葉に、蓮も小さく笑った。
「お茶が入りましたよ。」
さなさんの声とともに、お茶の香りが部屋いっぱいに広がる。
病院では聞こえなかった生活の音。
食器が触れ合う音。
お湯の沸く音。
誰かが迎えてくれる家。
知らないはずなのに、どこか安心できる場所。
お茶を飲み終えると、蓮が立ち上がった。
「部屋へ案内する。」
ひまりも立ち上がり、その後を歩く。
廊下を進み、一つの部屋の前で蓮が足を止めた。
静かにドアを開ける。
白を基調とした、落ち着いた部屋だった。
窓際には小さな本棚。
机。
ベッド。
どれも整えられている。
「今日はここを使って。」
ひまりは部屋を見回した。
「……私の部屋?」
蓮は少しだけ考えてから答える。
「今は。」
その短い言葉の意味を、ひまりは深く考えなかった。
「何かあったら呼んで。」
「うん。」
蓮は静かにドアへ手を掛ける。
「おやすみ、ひまり。」
「……おやすみ。」
ドアが静かに閉まる。
一人になった部屋で、ひまりはゆっくりとベッドへ腰を下ろした。
知らない家。
知らない部屋。
知らない毎日。
それでも。
今日一日で、分かったことが一つある。
この家には、
「おかえり」
と言ってくれる人がいる。
ひまりは小さく微笑むと、そっと明かりを消した。
見慣れない街並み。
初めて見る駅。
信号を曲がるたび、知らない景色が増えていく。
助手席からぼんやりと外を眺めていたひまりは、小さく息をついた。
「……遠いね。」
「そうだね。」
蓮が穏やかに返す。
「大学を卒業してから、ここへ来た。」
その言葉に、ひまりは静かに頷いた。
大学。
その二文字だけで、胸の奥が少しざわつく。
私は大学へ行ったんだ。
卒業もして。
仕事もして。
結婚もして。
全部、本当なのに、何一つ覚えていない。
車は住宅街へ入り、やがて大きな門の前でゆっくりと止まった。
「着いたよ。」
ひまりは窓の外を見て、思わず目を見開く。
「……ここ?」
黒い門扉の向こうには、広い庭と落ち着いた雰囲気の家が建っていた。
豪華というより、静かで品のある家。
「うん。」
蓮が頷く。
「俺たちの家。」
「……大きい。」
それしか言葉が出なかった。
こんな家に、自分が住んでいるなんて信じられない。
蓮がトランクから荷物を下ろし、ひまりはゆっくりと玄関へ向かう。
風が庭木を揺らしていた。
けれど、その音にも景色にも、記憶は少しも反応しなかった。
蓮が玄関の鍵を開ける。
扉が静かに開いた。
「おかえりなさい。」
優しい声が響く。
エプロン姿の女性が、笑顔で立っていた。
ひまりは思わず蓮へ顔を寄せ、小声で聞く。
「……お義母さん?」
蓮は一瞬目を丸くすると、小さく笑った。
「違う。」
「さなえさん。」
「昼間だけ家のことを手伝ってもらってる。」
「あっ……。」
恥ずかしさで耳まで熱くなる。
女性は優しく笑いながら歩み寄った。
「初めまして。さなえです。」
「みんなからは『さなさん』って呼ばれてます。」
「ひまりさんが大学生の頃から、お世話になってるんですよ。」
「よろしくお願いします。」
「こちらこそ、よろしくお願いします。」
深く頭を下げるひまりに、さなさんはどこか安心したように微笑んだ。
「さあ、どうぞ。」
玄関へ足を踏み入れる。
木の香りがふわりと鼻をくすぐった。
明るい玄関。
季節の花。
きれいに並んだ靴。
どれも知らないはずなのに、不思議と冷たさは感じない。
ここが……
私の家。
その瞬間だった。
「……ただいま。」
自然と口からこぼれた。
さなさんの目が少し潤む。
「おかえりなさい。」
その声に包まれるような温かさを感じる。
すると隣から、もう一つ声がした。
「おかえり、ひまり。」
蓮だった。
穏やかな笑顔。
ひまりは思わず見上げる。
どうしてだろう。
同じ「おかえり」なのに、胸の奥が少しだけ温かくなる。
理由は分からない。
でも、その声をもっと聞いていたいと思った。
「疲れただろ。」
「少し休もう。」
「うん。」
リビングへ入ると、大きな窓から午後の日差しが差し込んでいた。
木のテーブル。
柔らかなソファ。
壁いっぱいの本棚。
「わあ……。」
思わず足が止まる。
「すごい……。」
知っている作家。
知らない作家。
読んだことのある本。
見たこともない本。
様々な本がきれいに並んでいる。
蓮が静かに言った。
「少しずつ増えていった。」
ひまりは背表紙を指先でなぞる。
「……変わってないんだ。」
「うん。」
短い返事。
それだけで十分だった。
一冊の文庫本を手に取る。
「じゃあ、記憶にない本もあるんだね。」
「そうだね。」
「なんだか得した気分。」
「得した?」
蓮が少しだけ首を傾げる。
「うん。」
ひまりは本を胸に抱く。
「もう一回、新鮮な気持ちで読める。」
そう言って笑った。
蓮は静かにその笑顔を見つめる。
「……どうしたの?」
「いや。」
少しだけ間を置いて、穏やかに言った。
「その笑顔が見られて、よかった。」
その声は、どこか安堵しているように聞こえた。
ひまりは少し照れくさそうに笑う。
「変なの。」
その言葉に、蓮も小さく笑った。
「お茶が入りましたよ。」
さなさんの声とともに、お茶の香りが部屋いっぱいに広がる。
病院では聞こえなかった生活の音。
食器が触れ合う音。
お湯の沸く音。
誰かが迎えてくれる家。
知らないはずなのに、どこか安心できる場所。
お茶を飲み終えると、蓮が立ち上がった。
「部屋へ案内する。」
ひまりも立ち上がり、その後を歩く。
廊下を進み、一つの部屋の前で蓮が足を止めた。
静かにドアを開ける。
白を基調とした、落ち着いた部屋だった。
窓際には小さな本棚。
机。
ベッド。
どれも整えられている。
「今日はここを使って。」
ひまりは部屋を見回した。
「……私の部屋?」
蓮は少しだけ考えてから答える。
「今は。」
その短い言葉の意味を、ひまりは深く考えなかった。
「何かあったら呼んで。」
「うん。」
蓮は静かにドアへ手を掛ける。
「おやすみ、ひまり。」
「……おやすみ。」
ドアが静かに閉まる。
一人になった部屋で、ひまりはゆっくりとベッドへ腰を下ろした。
知らない家。
知らない部屋。
知らない毎日。
それでも。
今日一日で、分かったことが一つある。
この家には、
「おかえり」
と言ってくれる人がいる。
ひまりは小さく微笑むと、そっと明かりを消した。


