ベッド脇の椅子に置かれたバッグへ、そっと手を伸ばした。
事故の衝撃を受けたのだろう。
淡いベージュの革には細かな擦り傷が残り、金具にも小さな傷がついている。
「……ごめんね。」
思わずそんな言葉がこぼれた。
自分のバッグなのに、まるで誰かの大切なものを預かっているような気がした。
ゆっくりとファスナーを開ける。
化粧ポーチ。
革の手帳。
文庫本。
財布。
どれも間違いなく自分の持ち物なのに、そのどれにも記憶がない。
胸の奥が、少しだけざわついた。
最初に化粧ポーチを開く。
落ち着いた色の口紅や小さなコンパクトがきれいに並んでいた。
「……これ、私が使ってるんだ。」
一本の口紅を手に取る。
高校生だった自分なら、きっと選ばなかった色だ。
鏡を開く。
映っているのは、少しだけ大人になった自分。
「なんだか……知らない人みたい。」
小さく笑って、そっとポーチを閉じた。
次に視線が止まったのは財布だった。
手を伸ばしかけて、止まる。
「……。」
開いていいのだろうか。
自分の財布なのに。
勝手に中を見てはいけないような、不思議なためらいが胸をよぎる。
まるで、他人の財布を覗こうとしているみたいだった。
「でも……私の、なんだよね。」
自分に言い聞かせるようにつぶやき、ゆっくり財布を開く。
中には現金とカードがきちんと収められていた。
レシートの日付は今年。
七年という時間が、本当に過ぎてしまったのだと静かに実感する。
カードに記された名前へ目が留まる。
藤堂ひまり
「藤堂……。」
その名字を小さく口にしてみる。
まだ少しだけ、自分の名前とは思えなかった。
財布をバッグへ戻そうとした時、ストラップの付いた透明なケースが目に入った。
「……?」
手に取る。
首から下げる社員証だった。
夏風出版社 編集部
写真の中の私は、自然な笑顔で笑っている。
「……笑ってる。」
今の自分より、ずっと穏やかな表情だった。
「ちゃんと……仕事、楽しかったのかな。」
社員証を胸の上で見つめる。
編集部。
その文字には、不思議と心が惹かれた。
社員証を外そうとした時、そのストラップに小さな革の手帳が一緒に留められていることに気づく。
何度も使い込まれた手帳。
そっとページを開く。
そこには、一枚の古い雑誌の切り抜きが大切そうに挟まれていた。
少し色褪せた紙。
優しく微笑む女性。
そして、一つの言葉。
『素敵な靴を履くとね、素敵な場所に連れて行ってくれるのよ。』
「あ……。」
その言葉だけは覚えていた。
中学生の頃。
図書館で偶然その雑誌に出会った。
夢中になって読み終えたあと、母にお願いして買ってもらった一冊。
何度も読み返し、一番大切だったこのページだけを切り抜いて、ずっと手帳に挟んでいた。
社員証へ視線を落とす。
夏風出版社 編集部
もう一度、記事を見る。
また社員証を見る。
胸の奥が、じんわりと熱くなった。
「私……。」
言葉が震える。
「夢、叶えたんだ……。」
七年間の記憶はない。
それでも。
あの日、この言葉に心を動かされた少女は、ちゃんと未来へ歩いていた。
その事実だけは、何よりも確かだった。
バッグの底には、一冊の文庫本が入っていた。
ページの間から、一枚の栞が顔を覗かせている。
少し色褪せ、角が丸くなった栞。
そっと指先でなぞる。
「……大切にしてたんだ。」
理由は分からない。
それでも、手放したくないと思った。
栞を元のページへ戻し、本を胸に抱きしめる。
静かな午後の日差しが病室へ差し込んでいた。
⸻
数日後。
退院の日を迎えた。
荷物をまとめ終えると、母が優しく微笑む。
「体だけは無理しちゃだめよ。」
「うん。」
頷くひまりのバッグには、社員証も、切り抜きも、栞も入っていた。
蓮が荷物を持ち上げる。
病室を出る前、ひまりは一度だけ部屋を振り返った。
目を覚ましてから過ごした場所。
戸惑いながらも、少しずつ今の自分を知っていった場所。
静かに一礼し、病室をあとにした。
病院の玄関前。
母はひまりの手をそっと握る。
「困ったら、いつでも帰っておいで。」
「ありがとう、お母さん。」
母は蓮へ向き直る。
「ひまりを、よろしくお願いします。」
「はい。」
短く、それでも迷いのない返事だった。
母の姿が少しずつ遠ざかっていく。
ひまりは何度も振り返りながら車へ向かった。
助手席に座り、シートベルトを締める。
車は静かに走り出した。
窓の外には、見慣れているはずなのに思い出せない街並みが流れていく。
赤信号で車が止まった、その瞬間。
ズキン。
鋭い痛みが頭の奥を走った。
「……っ。」
思わず額へ手を当てる。
「ひまり?」
蓮の声が聞こえた。
「……ううん。」
小さく首を振る。
「大丈夫。」
そう答える頃には、痛みはもう消えていた。
車は再びゆっくりと走り始める。
ひまりは窓の外へ視線を戻した。
胸の奥には、理由の分からない小さなざわめきだけが残っていた。
事故の衝撃を受けたのだろう。
淡いベージュの革には細かな擦り傷が残り、金具にも小さな傷がついている。
「……ごめんね。」
思わずそんな言葉がこぼれた。
自分のバッグなのに、まるで誰かの大切なものを預かっているような気がした。
ゆっくりとファスナーを開ける。
化粧ポーチ。
革の手帳。
文庫本。
財布。
どれも間違いなく自分の持ち物なのに、そのどれにも記憶がない。
胸の奥が、少しだけざわついた。
最初に化粧ポーチを開く。
落ち着いた色の口紅や小さなコンパクトがきれいに並んでいた。
「……これ、私が使ってるんだ。」
一本の口紅を手に取る。
高校生だった自分なら、きっと選ばなかった色だ。
鏡を開く。
映っているのは、少しだけ大人になった自分。
「なんだか……知らない人みたい。」
小さく笑って、そっとポーチを閉じた。
次に視線が止まったのは財布だった。
手を伸ばしかけて、止まる。
「……。」
開いていいのだろうか。
自分の財布なのに。
勝手に中を見てはいけないような、不思議なためらいが胸をよぎる。
まるで、他人の財布を覗こうとしているみたいだった。
「でも……私の、なんだよね。」
自分に言い聞かせるようにつぶやき、ゆっくり財布を開く。
中には現金とカードがきちんと収められていた。
レシートの日付は今年。
七年という時間が、本当に過ぎてしまったのだと静かに実感する。
カードに記された名前へ目が留まる。
藤堂ひまり
「藤堂……。」
その名字を小さく口にしてみる。
まだ少しだけ、自分の名前とは思えなかった。
財布をバッグへ戻そうとした時、ストラップの付いた透明なケースが目に入った。
「……?」
手に取る。
首から下げる社員証だった。
夏風出版社 編集部
写真の中の私は、自然な笑顔で笑っている。
「……笑ってる。」
今の自分より、ずっと穏やかな表情だった。
「ちゃんと……仕事、楽しかったのかな。」
社員証を胸の上で見つめる。
編集部。
その文字には、不思議と心が惹かれた。
社員証を外そうとした時、そのストラップに小さな革の手帳が一緒に留められていることに気づく。
何度も使い込まれた手帳。
そっとページを開く。
そこには、一枚の古い雑誌の切り抜きが大切そうに挟まれていた。
少し色褪せた紙。
優しく微笑む女性。
そして、一つの言葉。
『素敵な靴を履くとね、素敵な場所に連れて行ってくれるのよ。』
「あ……。」
その言葉だけは覚えていた。
中学生の頃。
図書館で偶然その雑誌に出会った。
夢中になって読み終えたあと、母にお願いして買ってもらった一冊。
何度も読み返し、一番大切だったこのページだけを切り抜いて、ずっと手帳に挟んでいた。
社員証へ視線を落とす。
夏風出版社 編集部
もう一度、記事を見る。
また社員証を見る。
胸の奥が、じんわりと熱くなった。
「私……。」
言葉が震える。
「夢、叶えたんだ……。」
七年間の記憶はない。
それでも。
あの日、この言葉に心を動かされた少女は、ちゃんと未来へ歩いていた。
その事実だけは、何よりも確かだった。
バッグの底には、一冊の文庫本が入っていた。
ページの間から、一枚の栞が顔を覗かせている。
少し色褪せ、角が丸くなった栞。
そっと指先でなぞる。
「……大切にしてたんだ。」
理由は分からない。
それでも、手放したくないと思った。
栞を元のページへ戻し、本を胸に抱きしめる。
静かな午後の日差しが病室へ差し込んでいた。
⸻
数日後。
退院の日を迎えた。
荷物をまとめ終えると、母が優しく微笑む。
「体だけは無理しちゃだめよ。」
「うん。」
頷くひまりのバッグには、社員証も、切り抜きも、栞も入っていた。
蓮が荷物を持ち上げる。
病室を出る前、ひまりは一度だけ部屋を振り返った。
目を覚ましてから過ごした場所。
戸惑いながらも、少しずつ今の自分を知っていった場所。
静かに一礼し、病室をあとにした。
病院の玄関前。
母はひまりの手をそっと握る。
「困ったら、いつでも帰っておいで。」
「ありがとう、お母さん。」
母は蓮へ向き直る。
「ひまりを、よろしくお願いします。」
「はい。」
短く、それでも迷いのない返事だった。
母の姿が少しずつ遠ざかっていく。
ひまりは何度も振り返りながら車へ向かった。
助手席に座り、シートベルトを締める。
車は静かに走り出した。
窓の外には、見慣れているはずなのに思い出せない街並みが流れていく。
赤信号で車が止まった、その瞬間。
ズキン。
鋭い痛みが頭の奥を走った。
「……っ。」
思わず額へ手を当てる。
「ひまり?」
蓮の声が聞こえた。
「……ううん。」
小さく首を振る。
「大丈夫。」
そう答える頃には、痛みはもう消えていた。
車は再びゆっくりと走り始める。
ひまりは窓の外へ視線を戻した。
胸の奥には、理由の分からない小さなざわめきだけが残っていた。


