看護師が優しく微笑んだ。
「藤堂さん、お部屋へ戻りましょう。」
ひまりは小さく頷く。
診察室を出る前、一度だけ足を止めた。
静かに立つ蓮へ視線を向ける。
「……失礼します。」
礼儀正しく小さく頭を下げると、そのまま看護師の後を歩いていった。
その姿が廊下の向こうへ消えるまで、蓮は何も言えなかった。
昨日まで当たり前だった「おかえり」も、「ただいま」もない。
あの会釈は、初対面の年上の男性へ向ける礼儀だった。
「藤堂さん。」
医師の声に我に返る。
「少し、お時間よろしいでしょうか。」
「……はい。」
蓮は一礼し、医師の向かいへ腰を下ろした。
診察室には静かな空気が流れている。
医師はカルテを閉じ、ゆっくりと口を開いた。
「検査の結果ですが、脳に大きな損傷は認められません。」
蓮は黙って頷く。
「現在確認できている限りでは、ひまりさんの記憶は高校二年生頃で止まっています。」
「……はい。」
「事故による影響だけでなく、精神的な要因が関係している可能性もありますが、現時点で断定はできません。」
「今後の経過を見ながら、慎重に判断していく必要があります。」
蓮は静かに息を吐いた。
「ひまりは……不安ですよね。」
医師は穏やかに頷く。
「ええ。」
「七年間の記憶がなくなったというより、ご本人にとっては、突然七年後の世界に来てしまった感覚でしょう。」
「焦らせず、安心できる環境を作ってあげてください。」
「無理に思い出させようとする必要はありません。」
「分かりました。」
蓮は深く頭を下げた。
話は終わった。
席を立ち、ドアノブへ手を伸ばす。
しかし、その手が止まった。
「先生。」
振り返る。
「ありがとうございました。」
医師は少し驚いたように顔を上げた。
蓮は静かに頭を下げる。
「ひまりの命を助けていただいて、本当にありがとうございました。」
しばらく沈黙が流れた。
医師は穏やかに微笑む。
「助かったのは、私たちだけの力ではありません。」
蓮は顔を上げる。
「ひまりさん自身が、生きようと頑張った結果です。」
「私たちは、その力を少しだけお手伝いしたに過ぎません。」
蓮は静かに頷いた。
「……そうですね。」
医師は続ける。
「だからこれからは、藤堂さんがひまりさんを支えてあげてください。」
「……はい。」
蓮は深く頭を下げ、診察室を後にした。
病室へ向かう廊下。
歩みは自然とゆっくりになる。
病室の前で立ち止まり、小さな窓から中を覗く。
窓際の椅子に座るひまりは、春風に揺れる白いカーテンをぼんやりと見つめていた。
その横顔は、どこか幼く見える。
高校二年生のひまり。
蓮だけが知る、二十四歳のひまりではない。
胸の奥が痛む。
――大丈夫。
心の中でそっと呟く。
握り締めた右手が、自然と左手の薬指に触れた。
指先に伝わる、細いプラチナの感触。
二人で選んだ結婚指輪。
もう一度、小さく息を吐く。
――大丈夫。
不安なのは、ひまりだ。
俺まで立ち止まるわけにはいかない。
蓮は静かに表情を整え、病室の扉を開けた。
「藤堂さん、お部屋へ戻りましょう。」
ひまりは小さく頷く。
診察室を出る前、一度だけ足を止めた。
静かに立つ蓮へ視線を向ける。
「……失礼します。」
礼儀正しく小さく頭を下げると、そのまま看護師の後を歩いていった。
その姿が廊下の向こうへ消えるまで、蓮は何も言えなかった。
昨日まで当たり前だった「おかえり」も、「ただいま」もない。
あの会釈は、初対面の年上の男性へ向ける礼儀だった。
「藤堂さん。」
医師の声に我に返る。
「少し、お時間よろしいでしょうか。」
「……はい。」
蓮は一礼し、医師の向かいへ腰を下ろした。
診察室には静かな空気が流れている。
医師はカルテを閉じ、ゆっくりと口を開いた。
「検査の結果ですが、脳に大きな損傷は認められません。」
蓮は黙って頷く。
「現在確認できている限りでは、ひまりさんの記憶は高校二年生頃で止まっています。」
「……はい。」
「事故による影響だけでなく、精神的な要因が関係している可能性もありますが、現時点で断定はできません。」
「今後の経過を見ながら、慎重に判断していく必要があります。」
蓮は静かに息を吐いた。
「ひまりは……不安ですよね。」
医師は穏やかに頷く。
「ええ。」
「七年間の記憶がなくなったというより、ご本人にとっては、突然七年後の世界に来てしまった感覚でしょう。」
「焦らせず、安心できる環境を作ってあげてください。」
「無理に思い出させようとする必要はありません。」
「分かりました。」
蓮は深く頭を下げた。
話は終わった。
席を立ち、ドアノブへ手を伸ばす。
しかし、その手が止まった。
「先生。」
振り返る。
「ありがとうございました。」
医師は少し驚いたように顔を上げた。
蓮は静かに頭を下げる。
「ひまりの命を助けていただいて、本当にありがとうございました。」
しばらく沈黙が流れた。
医師は穏やかに微笑む。
「助かったのは、私たちだけの力ではありません。」
蓮は顔を上げる。
「ひまりさん自身が、生きようと頑張った結果です。」
「私たちは、その力を少しだけお手伝いしたに過ぎません。」
蓮は静かに頷いた。
「……そうですね。」
医師は続ける。
「だからこれからは、藤堂さんがひまりさんを支えてあげてください。」
「……はい。」
蓮は深く頭を下げ、診察室を後にした。
病室へ向かう廊下。
歩みは自然とゆっくりになる。
病室の前で立ち止まり、小さな窓から中を覗く。
窓際の椅子に座るひまりは、春風に揺れる白いカーテンをぼんやりと見つめていた。
その横顔は、どこか幼く見える。
高校二年生のひまり。
蓮だけが知る、二十四歳のひまりではない。
胸の奥が痛む。
――大丈夫。
心の中でそっと呟く。
握り締めた右手が、自然と左手の薬指に触れた。
指先に伝わる、細いプラチナの感触。
二人で選んだ結婚指輪。
もう一度、小さく息を吐く。
――大丈夫。
不安なのは、ひまりだ。
俺まで立ち止まるわけにはいかない。
蓮は静かに表情を整え、病室の扉を開けた。


