マリー・アントワネットは革命を乗り越えて平和に暮らしたい


第零章「戦友」

海鳴りが、木張りの甲板を絶え間なく揺らしていた。

視界いっぱいに広がる朝焼けの大西洋。水平線の彼方には、無数の帆を張った軍艦が、白波を割りながらこちらへと迫りつつあった。

「イギリス艦隊、確認。……数、我が方の二倍とのこと」

若い士官の報告に、旗艦の甲板に立つ一人の女が、静かに振り返った。

年の頃は五十路に差し掛かるはずだった。だが、風になびく金の髪、涼やかに澄んだ双眸、その佇まいは、とても半世紀を生き抜いた者とは思えぬほど、若々しい輝きを保っていた。

ル・グランドフランス帝国皇帝、マリー・アントワネット。

数年前、病を得て崩御した最愛の夫、ルイ十六世の後を継ぎ、この大帝国の頂点に立つ女だった。

彼女は、イギリス艦隊の指揮艦が誰であるかを、既に報告として受けていた。

大英帝国が誇る、不敗の提督。ホレーショ・ネルソン。

(……イギリス艦隊は我が方の二倍。それに、指揮するのはあのネルソン提督ね。……どう? 勝てるかしら、モン・コマンダン(少佐殿))

胸の内で、彼女は静かに問いかけた。

長年、共に在り続けた気配――脳裏の奥深くに宿る、もう一人の意識が、くつくつと笑う気配を返した。

『くく、負けるつもりなんてこれっぽっちも無いんだろ、マリー?』

その声には、これまでと変わらぬ、粗野で不遜な響きがあった。だが、そこに滲む温度は、かつてとは、明らかに違うものだった。

『それに、もうお前は卒業だ。……これからは戦友として、俺のことをシャルルと呼べ』

マリー――いや、皇帝マリー・アントワネットは、その言葉に、微かに口元を緩めた。

「……ええ。分かったわ、シャルル」

数十年ぶりに口にする、その名。長い歳月を経て、教官と生徒だった二人は、今、対等な戦友として、共に一つの海を見据えていた。

甲板を渡る潮風の中、彼女は静かに剣を抜いた。

刃が、朝日を弾いて煌めく。

「――全艦、砲雷撃戦用意!全砲門開け!フランスの誇りを、あの人が設計したこの戦艦リシュリューの力を暁の海に示しなさいっ!!!」

号令一下、無数の水兵たちが持ち場へと散っていく。

かつて、ただ守られるだけだった少女は、もはやどこにもいなかった。そこに立つのは、一つの国家の運命を、その両肩に背負う、一人の皇帝だった。

物語は、遥か遠い過去――一七七〇年、ライン川の中州に建てられた、一軒の館から始まる。


第一章 ライン川の館
第一節 ライン川の中州

ライン川はその日も静かに流れていた。

アルプスを源とし、幾つもの国を貫いて北海へと注ぐその大河は、幾世紀にもわたり王たちの野心と兵士たちの血を運び続けてきた。川底に沈んだ沈黙は、かつてここで命を散らした名もなき兵士たちの呻きであり、流された血の重みそのものであった。

その雄大な流れの中央に、ぽつんと小さな中州が浮かんでいる。

人が住むには狭く、畑を作るにもあまりに痩せた土地。普段ならば鳥たちが羽を休めるだけの小さな陸地に過ぎない。しかし今日だけは、ここがヨーロッパでもっとも重要な場所であり、後の世界を左右する出発点でもあった。

一七七〇年五月七日。

中州には、この日のためだけに建てられた木造の館――パヴィヨン・ド・ルミーズが静かに佇んでいた。

館はあらゆる細部にいたるまで左右対称に造られている。東側はハプスブルク家。西側はブルボン家。そしてその中央には、どちらの王も支配できない「無主の部屋」が配されていた。
今日、この部屋で一人の少女が祖国を失う。

それは、華やかな祝福に包まれた結婚式などではない。数百年にわたり血で血を洗う宿怨を続けてきた二大王朝が、束の間の平和を結ぶための証として、一人の皇女が別の王家へと引き渡される『人質による交歓』。

オーストリア皇女マリー・アントワネット(マリア・アントニア)

十五年に満たないその人生で、彼女が自ら選んだものは一つもなかった。着る服も、学ぶ言葉も、そして誰を愛し誰に添い遂げるかさえも、すべてはハプスブルク家の繁栄という巨大な天秤のうえで決められてきた。
館の外では、フランスとオーストリア、両国の近衛兵が一歩も譲らぬよう整列している。陽光を浴びた胸甲が眩しく輝き、両家の紋章が縫い込まれた旗が初夏の風にはためいていた。一見すれば平和の祭典のようでありながら、その実、兵士たちの視線には互いへの鋭い警戒と火花散るプライドが宿っている。

集まった群衆は息を潜めて館を見つめていた。誰もが歴史的瞬間を目撃し、語り部となろうとしていた。

ただ一人――渦中に置かれた少女を除いて。

(……お母様)

マリー・アントワネットは、小さな唇を強く噛んだ。瞼の裏に、厳格で偉大な母マリア・テレジアの顔が浮かぶ。幼い頃に一緒に駆け回った兄や姉たちの笑顔が浮かぶ。陽光に包まれたシェーンブルン宮殿の庭園。夕刻のウィーンに響き渡る聖シュテファン大聖堂の鐘の音。
昨日まで当たり前だった景色のすべてが、もう二度と戻らないものになろうとしていた。二度と触れることのできない輝かしい過去として、背後に遠ざかっていく。

(怖い……)

胸を押し潰しそうな感情の波。けれど、その言葉だけは、心の中でさえ決して口にしてはならないと自分に言い聞かせていた。

彼女はハプスブルク家の皇女なのだから。どれほど心細くとも、母の教え通り、誇り高く微笑んでいなければならないのだから。

「殿下」

オーストリア側の老女官が、静かに声を掛ける。

「お時間でございます」 その声はいつものように優しく、暖かかった。だが、どれほど優しくとも、それは後戻りを一切許さない、祖国との決別宣告だった。

マリー・アントワネットは、震える息をそっと吐き出し、小さく頷いた。母国オーストリアの職人が手掛けた重いベルベットドレスの裾をわずかに持ち上げ、ゆっくりと一歩、前へ出る。足音が、木造の廊下に低く響いた。そのたった一歩で、愛する祖国が、果てしなく遠ざかった気がした。

冷たい無主の部屋の扉が、少女の目の前で静かに開かれようとしていた。

第二節 裸の王女

貴賓室を包んでいたのは、洗練された静寂と、最高級のサンダルウッドの香りだった。

「お初にお目にかかります、マリー・アントワネット殿下。フランスへようこそお越しくださいました」

深く優雅な一礼とともにマリーを迎えたのは、デュナン伯爵であった。貴族の理想をそのまま体現したような人物である。深くたたえられた笑みには一切の隙がなく、佇まいから言葉遣いの一つに至るまで、指先まで洗練された礼儀正しさに満ちていた。何一つとして失礼な点など存在しない。理想的な紳士。非の打ち所の無い歓待。

——それなのに。

マリーの背筋には、冷たい氷を押し当てられたかのような悪寒が走っていた。

伯爵の目が笑っていない、というわけではない。態度が不誠実だというわけでもない。ただ、彼の破綻の無い笑みの奥に、人間なら誰しも持つはずの「温度」が決定的に欠落している——そんな得体の知れない恐怖が、じわじわと肌を刺すのだ。

「これより、新たな王太子妃殿下としての装いを整えさせていただきます。どうぞ、ご安心なさってください」

声は低く、どこまでも柔らかい。伯爵はもう一度優雅に頭を下げると、静かに貴賓室を辞していった。

重厚な扉が閉まり、後に残されたのは侍女たちだけになる。

「髪飾りをお外しいたします」

無感情なフランス侍女の手が、マリー・アントワネットの金の髪に触れた。ウィーンを発つ朝、母マリア・テレジアが愛おしそうになでてくれた髪である。ピンが抜かれ、美しく結い上げられていた金髪が肩へとさらりと落ちた。

続いて、ドレスの背中の紐が解かれていく。重厚なベルベットとシルクで仕立てられたオーストリア製のドレスが、すべり落ちるように床へと崩れ落ちた。

「ペティコートを。コルセットも解きなさい」
侍女達は指示に従っててきぱきとフックやボタンを外していく。
一つ、また一つと、彼女を保護していた「オーストリア」が剥ぎ取られる。コルセットの締め付けから解放された胸郭が大きく上下したが、そこに安らぎはなかった。

やがて、一番下に着ていた薄いリネンのシュミーズすらも、容赦なく肩から滑り落とされた。

「あっ……」

小さな悲鳴が、彼女の口から漏れた。部屋には暖炉は無く、五月のまだ冷たい空気で満たされている。肌をなでる冷気と、数人のフランス人女性たちの不躾な視線。マリー・アントワネットは生まれて初めて、本当の意味で「丸裸」にされた。

14歳の少女の体は、まだ幼さを残していた。華奢な肩、薄い胸、細い腰。彼女は恥ずかしさと恐怖のあまり、自分の腕でささやかな胸を隠し、体を小さく丸めてガタガタと震えた。床に落ちた自分の服を踏まないように爪先立ちになりながら、屈辱に耐える。

(お母様……助けて……怖いよ……)

目頭が熱くなり、涙が溢れそうになる。しかし、ここで泣けば「オーストリアの王女は意気地がない」とフランス貴族たちに嘲笑されるだろう。彼女は必死に歯を食いしばり、床の一点を見つめた。

侍女たちは、そんな彼女の屈辱など意にも介さず、フランス側が用意した新しい下着——豪奢な刺繍が施された絹のシュミーズを手にして歩み寄ってきた。

一糸まとわぬ姿で立ち尽くすマリー。息を飲んだ一瞬の静寂。
まさに、その時だった。

『……なんだ?こりゃ?』

脳の奥底、記憶の最も深い場所から、野太く、低く、そして途方なく粗野な「男の声」が響き渡った。

「っひぁぁぁぁっ!?」

マリー・アントワネットは、まるで電流が走ったかのように跳び上がった。

「殿下!?」

着替えさせようとしていた侍女たちが驚いて手を引く。マリー・アントワネットは自分の頭を両手で抱え込み、錯乱したように周囲を見回した。

「な、男の人の声が聞こえます! 頭の中で! どういうこと!?誰か居るのですか!?」

絶叫に等しい彼女の叫び声が、部屋に響き渡った。侍女たちは一瞬固まったが、すぐに呆れたような、あるいは「頭の可笑しいお姫様」を見るような冷ややかな目つきに変わった。

侍女長が溜息をつき、冷たく言い放つ。

「……王太子妃殿下。お戯れも大概になさいませ。長旅のご疲労でお心が混乱されているのでしょう。お召し替えが滞りますので、お静かに願います」

誰も彼女の異変を本気で取り合わない。それどころか、異国から来た「未熟で扱いづらい小娘」という評価が、彼女たちの心の中で確定していくようだった。侍女たちは再び無感情な手つきで、彼女の体にフランス製の下着をかぶせようとする。

『すまない、お嬢さん。大声をだされると、脳が痛い。ここは?あんたは誰だ?』

まただ。頭の中で、はっきりと声が聞こえる。男の声だ。しかも、宮廷の誰もが使うような優雅なフランス語でも、ドイツ語でもない。荒々しく、どこか異質で野蛮な響きを持った言葉。

(だ、誰なの!? 悪魔!? 私、取り憑かれたの!?)

マリー・アントワネットは声を出さず、必死に心の中で叫んだ。すると、驚いたことにその「問いかけ」に対して、男の声が即座に返答してきた。

『オレは……シャルル……ここはどこなんだ?確か……最後の作戦で……』

(シャルル?フランスの悪魔?何を言っているの!? 出ていって! 私の頭から今すぐ出ていって!!)

『出て行ってって……?お嬢さん、さっきから何を言って……待て。オレの声があんたの“頭の中”で聞こえてるって言うのか?』

男——シャルルの声に、混濁した困惑が混じる。

『お嬢さん、ちょっと教えてくれないか。このメイド達はなんだ?変な趣味の店か?というか、この体……オレの体じゃ無い……脳移植……なのか?作戦で重傷を負って……?』

(変な趣味の店?何を言っているの?このメイド達はフランス側のメイドよ。私がルイ・オーギュスト様に嫁ぐ為の準備をしてくれてるのよ)

『ルイ・オーギュスト?…………あんた、まさか……。おい、お前の名前を言ってみろ』

マリーは失礼な物言いのレベルが急に上がった男の声に困惑しながらも、堂々と答えて見せた。

(マリー・アントワネットよっ!)

その言葉に、頭の中の男が息を呑んだような気がした。

『マリー・アントワネット?』

男の声は沈黙し、しばらく思索にふけっているような感じがマリーにも伝わってくる。

『はっ? 冗談だろ……500年以上前じゃねぇか。それに、オレは時空振動弾で消滅したはず……』

どうやら、マリーに伝えようとしなければ心の声は伝わらないらしい。シャルルは必死にマリーの「視覚」に意識を集中させ、共有されている視界を凝視した。時代がかった木造の室内。古めかしい絹の下着。冷ややかな目で見下ろしてくるクラシカルな侍女たち。そして鏡に映る、幼く華奢な少女の姿。

『……マジかよ。時空の裂け目に飲まれて……昔の歴史の、よりによって世界最悪の悪役令嬢の頭の中に潜り込んじまったってのか……!?』

合理的な分析が導き出した結論。それはあまりにも非合理で、絶望的な現実だった。次の瞬間、先ほどまでの困惑とは一転した、澱のような嫌悪感がわき上がってきた。

『……クソが。死に損なって過去に飛ばされた挙句、よりによってブルボン朝の王族の小娘だと……? けっ、反吐が出るぜ』

(な、何なのよその言い方は……!?)

呼び方まで急に変えられ、マリーはわけも分からず苛立ちを募らせる。だが、シャルルは彼女の抗議など知ったことではないとばかりに、冷ややかな視線(思考)を鏡に映るマリーへ向けた。

『……しかし、お前。胸……全然無いな。実は男なのか?』

(へっ?)

あまりに無遠慮な本音が、シャルルの口(思考)からうっかり滑り出た。姿を見られていると気づいたマリーの顔が、一瞬で耳の先まで真っ赤に染まる。目の前の大きな鏡には、一糸まとわぬ自分の姿が映し出されていた。

(だっ、誰が男よ! 失礼ね!! これから大きくなるのよ!! っていうか、どこ見てるのよこの悪魔ーーーっ!!)

『あ、いや、悪気は……! って、おい、暴れるな! 脳が揺れる! 脳が揺れるから!!』

第三節 イアソンとメディア

「お召し替えを続けます」

侍女たちはマリー・アントワネットの狼狽を完全に無視し、重厚なフランス式のドレスを彼女に着せ始めた。コルセットが締め上げられ、あばら骨が圧迫される。オーストリアのそれよりもさらに窮屈で、まるで身動きを封じる拘束着のようだった。フランスの最高級シルクで作られた青とゴールドのドレス。異国の幼い王女からフランス王太子妃の姿に仕立て上げられていくマリー・アントワネットだったが、その心はボロボロだった。

(お母様……私、もうダメかもしれません……)

涙を必死にこらえる彼女の視線が、ふと大広間の壁に掛けられた巨大なタペストリーに向いた。それはフランス側がこのパヴィヨンを装飾するために用意した、極めて精巧で美しい織物だった。色鮮やかな糸で描かれているのは、古代ギリシャの衣装を纏った男と女、そして不吉な暗雲である。

『おい、小娘』

頭の中で、シャルルの冷ややかな声が響いた。

『あのタペストリーの意味、知ってるか?』

(え……? いいえ、知りません……美しい絵柄ですが……)

マリーは心の中で弱々しく答えた。シャルルは鼻で笑った。

『ありゃギリシャ神話の一節だ。『イアソンとメディア』。夫のイアソンに裏切られたメディアって女が、狂気に囚われて、夫の新しい妻を焼き殺し、さらには自分と夫の間に生まれた我が子まで自分の手で殺すって話だよ』

マリー・アントワネットの息が止まった。

(……え? 子供を……殺す……?)

『そうだ。我が子殺しの狂気の物語だ。考えろよ、小娘。オーストリアから嫁いでくるお前を迎え入れる部屋に、子供を殺す女の絵が飾られてんだぞ? 要するに“お前なんか最初から歓迎してねぇ”“オーストリアの女なんか呪われて死ね”っていう、フランス側からの痛烈な皮肉と嫌がらせだよ』

シャルルの言葉は、容赦なくマリーの胸を突き刺した。

『へっ、王侯貴族なんざイバラの上で苦しんで死ねばいいんだ。お前も含めてな。お前は歓迎されて嫁ぐんじゃ無い。呪われた人質として、この国に投げ込まれたんだよ』

(そんな……そんなこと……っ!)

絶望が、彼女の全身を支配した。母国を離れ、たった一人で渡ってきた異国。そこで待っていたのは祝福ではなく、“異物”への蔑視と呪いだった。そして自分の中に棲みついた男すらも、王侯貴族を、自分を憎んでいる。世界中のすべてが自分の敵であるかのように思えた。ポロポロと、ついに大粒の涙が目からこぼれ落ちそうになる。マリー・アントワネットは必死に唇を噛み締め、肩を震わせて泣きじゃくるのを耐えた。14歳の少女のあまりにも可哀想で、健気な抵抗だった。

『……チッ』

その様子を、マリー・アントワネットの意識の深層から見ていたシャルルは、暗い胸の中で舌打ちをした。23世紀の過酷な戦場で、地球帝国の暴政によって親を奪われ、泣き叫んでいた子どもたちの姿が過った。身分制度も、政治の駆け引きも知らないただの子供が、大人の都合で踏みつけにされる構図。

『……しゃくに障るな』

シャルルは呟いた。自分が憎むのはシステムと腐敗した権力者や特権階級であり、目の前で泣きそうになっている14歳の子供ではない。

『おい小娘、泣くな。……特別に助け船を出してやる。これからオレが言う通りに、あの侍女どもに言え』

(え……?)

『いいから言え! 腹くくれ小娘! ナメられたまま死にたいのか!?』

(死ぬって……)

シャルルの怒号のような念が意識を揺らした。マリーはハッとし、涙を引っ込めた。ドレスの着付けが終わり、姿を整え終えた侍女たちが、満足そうに一歩引いた瞬間だった。

マリーは、シャルルに授けられた言葉を、震える声で口に出した。

「あ……あの絵は何ですか!?」

侍女たちの動きがピタリと止まった。

マリーは、シャルルの指示通りに壁のタペストリーをビシッと指差した。

「王太子妃となる私を、『イアソンとメディア』のタペストリーで迎えるなど……! これは、私と我が母国オーストリアへの『絶縁状』ということですね!?」

静寂が、パヴィヨンの部屋を支配した。侍女たちの顔から一瞬で血の気が引いていく。ただの扱いやすい小娘だと思っていたオーストリアの王女が、タペストリーのギリシャ神話の意味を正確に見抜き、政治的な意図を糾弾してきたのだ。

マリーの「絶縁状」という言葉を聞いた侍女の一人が、あわてて隣の部屋へ走った。そして大広間の重厚な扉が開いて蒼白な顔をしたデュナン伯爵が駆け込んでくる。

「も、申し訳ございません殿下!これは単なる手違いでございます!すぐに撤去させます。どうかお許しを」

デュナン伯爵は膝をつき、恭しく頭を下げた。だが、その瞳には焦りが色濃く浮かんでいる。

(ねぇ、シャルル。本当にただの手違いなのではないかしら?)

『お前、信じられないくらいあまちゃんだな。連中の意図なんてこの際どうでもいいんだよ。問題は向こうが弁解できないことだ。戦争は事実で始まるんじゃねぇ。口実で始まるんだよ。いいからオレの言うとおりに言え!』

シャルルの粗野な声が脳内で響く。

「撤去?それだけですか?私はこのような、最初から望まれない婚姻など受け入れません! 今すぐオーストリアへ引き返します! そして母上(マリア・テレジア)にご報告し、『それなり』の対応を取っていただきます!」

「なっ……!?」

デュナン伯爵の額から、滝のような汗が噴き出した。国交断絶。最悪の場合、オーストリアとの開戦。14歳の少女の口から出たとは思えない、あまりにも的確で、フランス王国の喉元を完璧に捉えた脅迫だった。

もし本当に王女がオーストリアへ逃げ帰れば、担当責任者であるデュナン伯爵の首が飛ぶどころの話ではない。王命によって爵位も領地も取り上げられ、一族が路頭に迷うレベルの大不祥事である。

「お、お許しを!手配した者に厳しい罰を与えますゆえ!」

「厳しい罰? 両国の断交を防ぐほどの『厳しい罰』ですね?わかりました。では、すぐにその罰を下した『証』を持ってきてください。そうすれば、この件は不問に処しましょう」

言い終えたマリー・アントワネット自身、自分が何を口にさせられているのか、本当の意味を理解していなかった。デュナン伯爵は「は、ははぁっ!」と青ざめた顔で叫び、なりふり構わず大広間を飛び出していった。

静まり返る室内。数分後、隣の控えの間から男の叫び声が響き渡った。

「やめろーーー!ひっ!私は言われたとおりに!デュナン伯爵様が用意しろとお命じになったでは……」
「うるさい!やれっ!」

「――ガアッ、ギ、アァッ……!!」

一瞬だけ鈍い打撃音が聞こえてきた。そして、隣の部屋からは何も聞こえなくなる。不自然なほどの静寂が支配する中、マリーの側に控える侍女達は、顔面を蒼白にして体を小刻みに震えさせていた。

(な、何が……・?)

マリー・アントワネットもまた、胸の奥が凍り付くような恐怖に息を呑んだ。間もなくして、大広間の扉がゆっくりと開いた。戻ってきたデュナン伯爵は落ち着きを取り戻し、何事も無かったかのように息を整えてマリー・アントワネットに一礼する。その手には銀の盆が捧げ持たれていた。

盆の上に載せられていたのは――つい数十秒前まで生きていたであろう、40歳ほどの男の、滴る血に塗れた「生首」だった。見開かれた死体の目と、生温かい血の匂いが大広間に充満する。

「ご要望通り……不届き者に罰を下した『証』にございます……」

「あ……あぁ……っ」

目が合ってしまった。盆に載せられている男の目が、その視線が自分を睨んだような気がした。それは、『処罰』を要求したマリーを恨んでいる――そう思えてしまった。

生々しい「死」を目の前に突きつけられた14歳の少女の精神は、その瞬間、許容量を超えた。視界が急激に暗転し、彼女の意識は深い闇へと落ちていった。

糸が切れた人形のように、崩れ落ちそうになるマリー・アントワネットの身体。 ――だが、その身体は膝をつかなかった。

ガクリと頭を垂れた彼女の体が、不自然なほど滑らかな動きで持ち上がる。背筋がピンと伸び、固く閉じられていた瞳が開かれた。だが、その瞳に宿っていたのは14歳の少女の怯えではなかった。幾千もの戦場を渡り歩いた男――死神のようなシャルルの眼光だった。彼女(シャルル)は、銀の盆の上の生首を一瞥し、フッと口角を上げて嘲笑した。

「……デュナン伯爵。あなたの『誠意』、確かに受け取りましたわ」

マリー・アントワネットの可憐な容姿からは想像もつかない、低く、重厚な冷気がこもった声。彼女(シャルル)はドレスの裾をかすかに持ち上げ、一歩、デュナン伯爵へと歩み寄った。

「ですが……私をただの『小娘』だと思わないことです。……あなた自身のためにもね」

冷たい視線が、デュナン伯爵の瞳を正面から射抜く。その瞬間、デュナン伯爵は全身の毛穴が開き、心臓が狂ったように脈打つのを感じた。目の前にいるのは、華奢な14歳の少女に過ぎない。しかし、その背後に見えたのは――地獄の底から這い上がってきた「怪物」の影だった。

「は……はひぃっ……!」

デュナン伯爵は本能だけで理解した。この少女を敵にしてはならないと。


第四節 地球消滅作戦「ドゥームデイズ」

「バカなっ!本当にそんな作戦を実行するのか!上は正気なのか!」

(……ここは?)

見たことのない甲冑を着た男達が大勢集まり、怒号が飛び交っている。どこかの建物の中だろうか? マリーはパヴィヨンの館に居たはずだと思い出す。そして——

(イヤーーーーー!!!)

目の前に差し出された男の生首を思い出してしまった。自分を恨めしそうに睨んでいる、その生気を失った目も……。

(何てことを……)

でも、ここは明らかにパヴィヨンの館ではない。装飾の無い金属の壁に囲まれていて、天井には光る板のような物がはめ込まれている。甲冑を着た男達が向いている方向を見ると、同じ甲冑を着た一人の男が壇上に立って何かを説明していた。

「シャルル隊長!そんな作戦を本当に実行するんですか!?帝国を倒すことに異論は無い!皇帝や貴族どもには裁きを受けさせる!だが、地球には無関係の市民が何億も居るんだぞ!」

男の一人が壇上に向かって叫び声を上げた。

(シャルル?)

壇上に立つ男は唇を噛んで苦渋の表情をしている。そして、重々しく口を開いた。

「統合幕僚本部の決定だ。地球を消し去ってでも、火星同盟は生き残る。それだけのことだ」

(この声……シャルル……)

それは自分の頭の中で響いていた声の持ち主に間違いなかった。男は見上げるほどの長身で、無骨だが軍人らしい凜々しさを持っている。髪は黒髪で、一見フランス人のようにも見えるが、肌は少し浅黒い。マリーは見たことがなかったが、これが異国の人々との混血というものだろうかと考える。そういえば、この部屋にいる男達の半分以上は黒い肌や褐色の肌をしている。

シャルルの顔をじっと見つめていると、彼は俯いて目を閉じた。そしてその瞬間、マリーの世界も真っ暗になる。地面が消失し、上も下も解らないどこかにマリーは放り出されてしまった。

(あれは……月?)

そこには、遠くに光り輝く太陽と、吸い込まれそうな真っ黒な空。そして見慣れた月があり、その向こうには見たこともない美しく眩い青い球体が浮かんでいた。

(月に太陽……あの青く美しいものは……私たちの大地?)

全く音の無い空間だった。そして、マリーのすぐ横を、闇を切り裂いて巨大な物体が現れた。帆も漕ぎ手もなく、波を立てる水すらない暗闇を滑っていく、巨大な鉄の城塞——。そしてその傍らには、大聖堂の偶像よりも遥かに巨大な「鉄の巨人」が立ち並び、冷たい光を放っていた。

向こう側から同じような城塞と鉄の巨人が迫ってくる。鉄の巨人は大きなマスケット銃のような物を構えて発射した。漆黒の闇の中に光り輝く線がきらめく。しかし、音は一切聞こえない。

そして鉄の巨人達はお互いに光る剣を抜いて斬り合いを始めた。声もなく斬られ、炎の光となって弾け飛ぶ鉄の巨人達。

マリーにも解った。これは戦争だ。

その時、十体ほどの鉄の巨人が、大聖堂ほどの大きさもある謎の物体を引っ張って突進していくのが見えた。その先頭に立っている巨人がこちらの方を振り向いた。そして、その巨人の無機質な目とマリーの視線が交錯する。

(シャルル……)

激しい攻撃を退けて、シャルル達は月に近づいていく。マリーの視界もシャルル達を追うように月へと向かう。

(これが……月?)

遠目に見上げていたときは、夜空に優しく浮かぶ月そのものだった。しかし、近づくにつれて見えてきたその表面は、荒涼とした色の無い、死の世界だった。

シャルル達は激しい攻撃を退けて、大聖堂のような物体を月面に降ろした。そして何か作業のような事を始める。

「お前達!起爆準備は出来た。すぐに退避するんだ」

シャルルの声がマリーの中で聞こえた。

「シャルル隊長を置いていくわけにはいきません!」

「解るだろ。オレのマシンはメインノズルとスタビライザーがやられた。月の重力圏を脱出できない。お前達に引っ張ってもらっては、制限時間を超えてしまう。これは命令だ」

短いやりとりの後、シャルルを残して鉄の巨人達は飛び立っていった。

いつの間にか敵影は消えていて、全くの無音の世界が広がっている。シャルルは手元のパネルカバーを押し上げて、赤いボタンに手を伸ばした。

そして、シャルルは青い球体を見つめて呟いた。

「これも命令だ。悪く思うなよ」

その瞬間、世界が割れた。


第五節
断頭台の予言

「……様、マリー様」
柔らかい声と、微かに漂うオレンジの花の香油の匂いで、マリーはゆっくりと瞼を開いた。視界に飛び込んできたのは、見慣れたシェーンブルン宮殿の豪華絢爛な装飾ではなく、パヴィヨン館の控え室の天井だった。フランス側に用意されたその小さな部屋のソファで、彼女は横たわっていた。

「お、お目覚めになられましたか? 一時間ほど、とても深くお眠りになられていましたよ」

控えていた侍女が温かいハーブティーを差し出してくる。その侍女の声は、どことなく恐怖で震えているように感じられた。
マリーは処刑された男の生首を見て気を失っていたのだ。その後のことは解らないが、どうやら少し休ませてほしいと申し出たようだった。

(……誰が?まさかシャルルが……私の体を?)

カップを受け取るマリーの手は、かすかに震えていた。夢——いや、あれは夢などという生ぬるいものではなかった。風も音もない漆黒の闇。夜空に浮かぶ青い大地。巨木のような鉄の兵器たちが光の束を放ち合い、声もなく爆散していく地獄絵図。そして、荒涼とした月面に一人残され、「世界が割れた」あの圧倒的な破滅の瞬間。

(……シャルル?)

マリーは心の中で、そっとその名を呟いた。頭の奥で、重々しい溜息が聞こえた。いつもの鋭く不遜な声だが、どこか酷く掠れている。

『……ちっ、起きやがったか』

(あなたも……眠っていたの?)

『眠ってたんじゃねぇ。お前が気を失ってる間、体を動かそうと試みたんだよ。だが……ダメだ。少しは動かせたが、想像以上に精神を削られて意識が飛んでたんだ。おまけに……』

シャルルは吐き捨てるように苦々しく呟いた。

『胸糞悪い夢まで見ちまった』

マリーの心臓が跳ねた。

(大地を……滅ぼした夢?)

頭の中の気配が、ピタリと固まるのが分かった。

(私、見たわ。金属の部屋で怒号を上げる男たちや……月で、あなたが何か恐ろしいものを動かそうとしていたのを……。シャルル、あの場所は一体何なの? あなたは一体……)

『おい』

シャルルの低い声が、マリーの精神を冷たく突いた。

『うるせぇ、黙っていろ小娘。オレはクソムシと王侯貴族が死ぬほど嫌いなんだよ。これ以上オレの過去をほじくり返そうとするなら、次はお前の口を永遠に閉じさせてやる』

底知れぬ殺意が波のように押し寄せ、マリーは息を飲んで黙り込んだ。この男は本気だ。これ以上、あの恐ろしい「過去」に触れることは許されない。マリーは冷や汗を拭いながら、恐れをなして問いを引っ込めた。

けれど、どうしても拭えない疑問があった。シャルルという男の言葉遣いは野蛮で酷く不躾だが、彼がふと漏らす知識は深い。なぜこの男は、あのタペストリーの詳細を知っていたのだろうか。

恐る恐る、マリーは別の問いを投げかけた。

(過去のことは……もう聞かないわ。でも、どうしてあなたはそんなに物知りなの?あのタペストリーの事だって……)

頭の中で、シャルルが鼻で笑った気がした。

『知識だと? ハッ、そんなもん学問でも何でもねぇよ。オレたちの世界じゃ、頭の中に「生体デバイス」を組み込んでるのが当たり前だったんだ。機械の知識が脳に直接入ってるんだよ。……まあ、オレのやつは型が古いんだがな……』

そこまで考えてシャルルはおかしな事に気付く。魂だけになってもデバイスが使えているのは不自然すぎるのだ。

『まさか……な』

(ドヴィス……? 道具のこと?頭の中に……?“まさか”って何?)

マリーには想像もつかない話だった。頭の中に“道具”を埋め込むなど、まるで魔術か悪魔の技業だ。

『そうさ。記憶の閲覧も、演算も、この時代のどんな学者よりもオレは優秀だ。……だからこそ、だ』

シャルルの声に、いびつで意地悪な響きが混ざりはじめた。

『オレは知ってるんだぜ。お前がこの先、どんな運命を辿るのかもな。……教えてやろうか、オーストリアの小さな王女様?』

「……っ」

マリーは思わず、現実の身体で身をすくめた。 自分の未来。これからフランスの王太子妃となり、いずれ王妃となる己の人生。シャルルの言い方は不吉で、底知れぬ悪意に満ちていた。聞かないほうがいいと、頭の中の警鐘が激しく鳴り響いている。しかし——見知らぬ国にたった一人で嫁いできた十四歳の少女にとって、「己の未来」という誘惑には抗えなかった。

(……教えて。私は……どうなるの?)

『フン、後悔するなよ』

シャルルは冷ややかに、噛み締めるように言葉を紡ぎ出した。

『オレが知ってるお前の未来だ。……1774年に現国王がくたばって、お前はフランスの王妃になる』

(……王妃。あと4年後に……)

『くくく、それでな、王妃になったお前は浮かれちまって浪費をしまくるんだ。それこそ国の財政が傾くくらいにな』

(そんな……! 私はそんなこと……!)

『さらに頼りない旦那を見限って、スウェーデンのお貴族様と浮気をして現(うつつ)を抜かすんだぜ。それが国民にバレて蛇蝎のごとく嫌われるんだ』

(私はそんな女じゃ無いっ!)

『王侯貴族ってのはみんなそういう連中だ。——お前たちが食糧を買い占め、税を絞り上げたせいで、飢えて苦しむ民衆の怒りが爆発する。奴らは革命を起こし、国王の城へ押し寄せるんだ。そしてお前と、お前の間抜けな旦那を捕らえ……』

シャルルの声が、一段と低く、刃物のように研ぎ澄まされた。

『断頭台で、お前たちの首を刎ねる。……我が儘で貪欲な王族に、これ以上ふさわしい最期はねぇだろ?』

「あっ……!」

マリーの口から、小さな悲鳴が漏れた。

首を、刎ねられる——。

その言葉が出た瞬間、脳裏に強烈なフラッシュバックがはしった。ついさっき、パヴィヨンの館で目の前に突き出された、あの男の生首。自分を恨めしそうに睨みつけていた、血の気のない目。胴体から切り離された、生の残骸。

(私のせいで……嫌……いやあぁぁぁっ……!)

あの男の首の残像と、未来の自分自身の姿が重なり合う。血の気が引き、マリーの顔は瞬く間に土気色へと変わっていった。激しい吐き気が込み上げ、彼女は膝を抱えてガタガタと震え出した。

「マリー様!? お顔色が……! どうなされたのですか!?」

侍女が慌てて駆け寄ってくる声も、いまのマリーには遠い海の底からの音のようにしか聞こえなかった。

頭の奥でシャルルが乾いた笑いをこぼしている、そんな気配だけが、冷たく響いていた。


第二章 暗雲の王宮
第一節 ヴェルサイユ宮殿

馬車の車輪が、ヴェルサイユの石畳を重々しく踏みしめていた。

パヴィヨン館での衝撃——あの「未来の予言」から数日。マリーの精神は、常に綱渡りのような危うさの上にあった。鏡を見るたび、自分の華奢な首元に目がいってしまう。断頭台なんて見たことは無いけれど、その刃の冷たさは想像できる。それが今も自分の皮膚に触れているかのような錯覚。生首の残像。そして、自分と共に殺されるという「夫」の存在。

「殿下、もうすぐコンピエーニュの森でございます。国王陛下と王太子殿下がお待ちかねでございますよ」

侍女の言葉に、マリーは膝の上で固く握りしめた手にぎゅっと力を込めた。ドレスの贅沢な絹の擦れる音が、いまの彼女には棺桶の蓋を閉じる音のように聞こえた。

(……怖い。行きたくない……)

心の中で震える声に、脳の奥底から冷ややかな嘲笑が返ってきた。

『おいおい、顔が青白いぜ、小さな王女様? そんな顔で挨拶に行ってみろ、フランスの貴族どもに『オーストリアの牝豚は度胸もねぇ』って鼻で笑われるのがオチだ』

(……シャルル、お願いだから黙っていて。私、いまそれどころじゃないの……!)

『言われなくても黙っててやるよ。……ただ、これだけは言っておく。周りの連中をよく見ろ。全員、お前を値踏みするための『目』しか持ってねぇ』

シャルルの言葉通りだった。馬車の窓の外、沿道を埋め尽くす群衆や、騎馬で護衛するフランス貴族たちの視線。そこには歓迎の光などなかった。あるのは、異国からやってきた十四歳の少女を解剖でもするかのような、品定めと警戒に満ちた好奇の視線だけだ。

(この人たち全員が……私を憎むようになるの? 私が贅沢をして、国を傾かせる悪女になるから……?)

胸が痛む。吐き気が込み上げる。自分はただ、母の命に従って嫁いできただけなのに。

やがて馬車が緩やかに速度を落とし、停止した。 扉が開かれ、眩いばかりの五月の光が車内に差し込む。まばゆい光の向こうには、絢爛豪華な衣装を纏った最高峰の権力者たちが、絵画のように居並んでいた。

「王太子妃殿下、お降りください」

差し出された手を取り、マリーはゆっくりと馬車を降りた。 風が吹き抜け、彼女の黄金色の髪を揺らす。

目の前に立っていたのは、衰えを見せながらも圧倒的な威厳を放つ老人——国王ルイ十五世だった。その隣には、豪奢な上着に身を包んだ、大きな体の少年が立っている。

彼が、ルイ・オーギュスト。私の夫となる人。そして……私と共に、首を刎ねられる男。

『へっ……なんだあいつは』

シャルルの呆れたような声が、マリーの脳腔に響いた。

『肩は丸まって重心は後ろに逃げている。眼球の動きが無駄に多くて視線が定まらねぇ。身体のデカさに精神が全く追いついてねぇぞ。軍人なら初日でしごき倒されて即脱落するタイプだな』

(シャルル、失礼よ……! あの人は王太子なのよ!)

『王太子ねぇ。あんな頼りねぇ背中で一国を背負おうってのか? 見かけ倒しにも程があるぜ。あいつ、お前のことを見るのが怖くて下ばかり向いてやがる』

マリーはシャルルの雑音を必死に無視し、教え込まれた通りの最も美しい優雅な礼(レヴェランス)を捧げた。

「お初にお目にかかります、国王陛下。そして……王太子殿下」

「よくぞ参られた、愛らしいマリー」

ルイ十五世は老練な笑みを浮かべ、マリーの頬に手際よく親愛の口づけを落とした。王の所作には、長年にわたって洗練された美しさがあった。しかし、問題はその隣の少年だった。

「……王太子。挨拶を」

王に促され、ルイ・オーギュストが一歩前に出た。 体格は大きく、肩幅もある。だが、その動作は酷くぎこちなく、まるで借りてきた衣服を着せられた人形のようだった。彼はマリーの顔を正面から見ることができず、彼女の視線からわずかに逸れた空差す空間を見つめている。

「……は、初めまして。マリー・アントワネット殿下。フランスへ……よく、お越しくださいました」

低く、割れたような声。途切れ途切れの言葉遣い。マリーの知るオーストリアの皇子たちや、フランスの洗練された貴族たちとはあまりにもかけ離れた、不器用で、どこか怯えたような挨拶だった。

マリーは息をのんだ。

頭の中で、シャルルが以前吐き捨てた凶悪な言葉がリフレインする。

- お前と、お前の間抜けな旦那を捕らえ……断頭台の上で、お前たちの首を刎ねる -

恐ろしい暴君。救いがたい愚者。横暴な貴族の頭領。マリーはどんな「怪物」が目の前に現れるのかと身構えていたのだ。 しかし、目の前に立っているのは——ただの、ひどく人見知りで、己の大きすぎる体に戸惑っているような、気弱な十五歳の少年だった。

(この人が……あんな恐ろしい目に遭うの? この、害のなさそうな男の子が……?)

混乱するマリーの前で、ルイ・オーギュストは冷や汗をかきながら、ぎこちなく右手を差し出してきた。エスコートするための手だ。

(震えてる……)

マリーの目の前の大きな手は、所在なく小刻みに震えている。ルイ・オーギュストの瞳の奥にあったのは、マリーに対する敵意でも、あでやかな王妃を迎える歓喜でもない。自分を取り囲む巨大なヴェルサイユ宮殿、そして「王太子」というあまりにも重すぎる看板に対する、恐怖と孤独だった。

(……一緒だ)

マリーの胸の奥で、何かが小さく跳ねた。

見知らぬ国に放り込まれ、一糸まとわぬ姿で品定めされ、未来の恐怖に震えている自分。 そして、この巨大な宮殿の中で、期待という名の重圧に押し潰されそうになりながら、居場所なく立っている彼。

表現の仕方は違えど、二人が抱えている闇の深さは、驚くほど似通っていた。

マリーはそっと、ルイ・オーギュストの差し出した手の上に、自分の小さな手を重ねた。

「……っ」

ルイ・オーギュストがビクッと肩を跳ねさせ、驚いたように初めてマリーの目を直視した。彼の瞳は澄んだ淡い青色で、そこには何の悪意も、不遜さも存在しなかった。

「お手伝いいただけますか、殿下。私……少し、長旅で足元がおぼつかないのです」

マリーがフランス語でそう囁くと、ルイ・オーギュストの緊張がほんのわずかだけ解けたように見えた。彼はコクリと大きく頷き、マリーの手をギュッと握り返した。その手は無骨で、爪の間にほんの少しだけ黒い汚れが残っていた。

「あ、ああ……任せてください。転ばないように、ゆっくり歩くから」

彼の不器用な優しさが、手のひらから伝わってくる。

(この人は、悪魔なんかじゃない。私を不幸にするために待っていた人じゃない……)

安堵にも似た温かい感情が、マリーの胸を満たしかけた——その時だった。

『ハッ、おめでてぇ頭だな、小さな王女様』

氷水を浴びせかけられるようなシャルルの声が、マリーの頭に響いた。

『その親切そうな坊ちゃんがな、お前が民衆に叩かれてる時、何をしたと思う? 何も出来なかったんだよ。お前を守る決断も、国を救う決断もできずに、あいつは鍵ばっか弄ってた臆病者だ。結果としてお前たち二人は、民衆の怒りを全部背負わされて、首を切り落とされたんだよ』

(やめて……! 今はそんなこと言わないで!)

『現実を見ろよ。その手はお前を救う手じゃねぇ。お前を断頭台まで引っ張っていく死神の手だ』

脳裏に、強烈なイメージが焼き付く。 いま握り合っている二人の手のひらが、真っ赤な血で染まっていくイメージ。 ヴェルサイユの豪華絢爛な回廊の床が、ぬかるんだ断頭台の木板へと変わっていく錯覚。

「……殿下? どうかされましたか?」

マリーの手が急に冷たくなり、ガタガタと震え出したことに気づき、ルイ・オーギュストが心配そうに覗き込んできた。彼の純粋な懸念の表情が、かえってマリーの胸を強く締め付ける。

(ああ、神様……。どうしてこの人を、私と同じ地獄へ引きずり込んでしまうのですか?)

「いいえ……なんでもありません、王太子殿下」

マリーは精一杯の微笑みを作った。作り笑いなど一度もしたことがなかった少女が、初めて身につけた宮廷の「仮面」だった。

「ただ……貴方とお会いできて、嬉しかったのです」

ルイ・オーギュストはその言葉に、少しだけ頬を赤く染めた。

マリーの言葉は半分が嘘で、半分は悲しい真実だった。

遠くで、ヴェルサイユの到着を祝う祝砲の大砲が、ズシンと腹に響く音で鳴り響いた。 群衆の歓声と、豪華な軍楽隊の奏でる音楽が、二人を包み込んでいく。

その華やかな喧騒の真ん中で、十四歳の王女と十五歳の王太子は、互いの手にすがりつくようにして、巨大な迷宮のような宮殿へと歩みを進めていった。

頭の奥底で、シャルルが不気味に、そして嘲笑うように不敵に囁いていた。

『さあ、おままごとの始まりだぜ、王妃様。……その笑顔が断頭台に消えるまで、あと二十三年だ』


第二章 暗雲の王宮
第二節 断頭台の婚礼(前半)

1770年5月16日

ヴェルサイユ宮殿の王室礼拝堂は、無数の蝋燭が放つ眩い黄金の光に包まれていた。

重厚なオルガンの旋律と聖歌隊の歌声が高天井に反響し、シルクや宝石で着飾った王侯貴族たちが息をのんで見守っている。フランス王太子ルイ・オーギュストと、オーストリア王女マリー・アントワネット。長年争い続けてきた二大強国が結ぶ、歴史的な婚礼の儀式だった。

だが、聖なる祭壇の最前列に並んで立つふたりの頭上には、他の誰にも見えない運命の影が濃密に垂れ込めていた。

(重い……息が、できない……)

マリーは、銀糸とダイヤモンドの刺繍がびっしりと施されたドレスの重みに押し潰されそうになっていた。

パヴィヨン館で見た凄惨な生首の残像。そして、頭の中の男——シャルルが突きつけてきた、あまりにも悲惨な「未来の予言」。

『お前はフランスの王妃になった後、民の苦しみも知らずに贅沢と浪費を貪り尽くす。……そして断頭台の上で、お前たちの首を刎ねる』

首筋に、ひやりとした冷気が走る。鏡で何度も見た自分の細い首。その皮膚の上に、まだ見ぬ冷たい鉄の刃が押し当てられているかのような錯覚。幾重にも重ねられた豪奢なレースも、輝く首飾りの重みも、いまのマリーには自分を死へと閉じ込める棺桶の飾りにしか思えなかった。

(私は……本当に二十三年後に首を斬られてしまうの? この煌びやかな宮殿の全員に嫌われて、血の海の中で殺されるの……?)

足元がガタガタと震えそうになるのを、彼女は重い絹の裾の下で必死に耐えた。
その隣で、新郎であるルイ・オーギュストもまた、別の冷や汗をかいていた。

(……えっと、次は……右足を一歩引いて、聖水を受領するんだったか?いや、待て。司教様の手のひらを取るのが先だったか……?)

ルイの頭の中は、複雑極まりない宮廷儀式の作法で今にも破裂しそうだった。大きな体に無理やりあわせられた金の刺しゅう入りの礼服は動きを奪い、背中を嫌な汗が伝う。

横に立つ十四歳の小さな花嫁は、非の打ち所が無かった。幼く、可憐で、まるで磁器の人形のように美しい。それに比べて自分は、歩き方はぎこちなく、挨拶の声は裏返りかけ、すでに何度も作法を間違えそうになっている。

(情けないな、僕は……。でも、せめて誓いの言葉だけは、ちゃんと滑舌良く言わなくちゃ。彼女を不安にさせないために……!)

ルイは握りしめた拳の中で、何度も呼吸を整えようとしていた。
純粋で不器用な少年の焦りと、未来の死に怯える少女の絶望。ふたりの精神が交錯するその頭の奥底で、第三の存在が静かに吐息を漏らした。

『……くだらねぇ』

脳腔を突くその声は、冷たく、どこまでも不躾だった。

(……シャルル、お願い。今だけは静かにしていて……)

マリーは心の中で泣きそうになりながら頼んだ。だが、シャルルにそんな哀願が通じるはずもなかった。彼の視界では、この絢爛豪華な婚礼が、ただの滑稽な茶番劇として処理されている。

『おめでてぇ群衆どもだ。結婚式なんてのは、綺麗な看板を立てた『二人揃って同じ墓場に向かうための葬式』みたいなもんだぜ』

(葬式……っ!?)

『そうだろ。お前たちは今、お互いの首に死のロープを掛け合って、楽しそうに結び目を固めてるんだよ』

シャルルの言葉が、マリーの心臓を激しく叩く。
やがてオルガンの音が引き、礼拝堂全体に重々しい静寂が訪れた。ステンドグラスから差し込む光が、わずかに陰る。

黄金の祭壇の前で、ランス大司教が金箔の聖書を抱えて一歩前へ出た。静寂の中で、低く通る声が天上に響き渡った。

「……神の御名において、問いかけます。王太子ルイ・オーギュスト殿下。汝は、このマリー・アントワネット殿下を正しき妻とし、病める時も健やかなる時も、これを愛し、敬い、生涯守り続けることを……『永遠の愛』として神の御前に誓いますか?」

重い問いかけが、空間に落ちた。

ルイ・オーギュストは、ゴクリと唾を呑み込んだ。全身の血が逆流するような緊張感。けれど、彼は胸を張り、隣に立つ小さく震える花嫁の横顔をじっと見つめた。

自分は不器用だ。王太子としての器量もないかもしれない。けれど、この遠い異国から嫁いできた小さな少女を、一生かけて守るのだという決意だけは本物だった。

ルイは背筋を伸ばし、一生懸命に声を張った。

「……はい。誓います」

その声を聞いた瞬間、マリーの胸が締め付けられた。

彼の横顔に見えたのは、自分に向けられた純粋な優しさと、幼い覚悟だった。この人は本気で言っている。私を守ろうとしてくれている。

だが——だからこそ、恐ろしかった。

司祭の視線が、今度はマリーへと向けられた。

「……王太子妃マリー・アントワネット殿下。汝は、このルイ・オーギュスト殿下を正しき夫とし、神の御前に……永遠の愛を誓いますか?」

喉がカラカラに乾いていた。言葉が出ない。

「はい」と答えた瞬間、自分はフランスの王妃となり、シャルルの言う「断頭台への運命」へと足を踏み入れることになる。この少年の手を取るということは、彼を私と共に死へと引きずり込むことなのだ。

(言えない……。言っちゃダメ……!)

だが、視線の端には、彼女の返答をじっと待つルイの澄んだ淡い青色の瞳があった。引き返せる道など、最初からどこにも存在しない。

マリーは爪が手のひらに食い込むほど拳を握りしめ、冷たい刃を首筋に感じながら、震える唇を開いた。

「……はい。……誓います」

二つの「はい」が、礼拝堂の静寂に溶けていった。

その瞬間、ルイは肩の力をふっと抜き、胸の底から安堵したように、小さく、優しく微笑んだ。

その純粋な笑顔を見た瞬間、マリーの心臓に鋭い罪悪感が突き刺さった。

(ああ……ルイ様……。私はあなたを、私と一緒に断頭台へ連れて行ってしまう……)

胸をかきむしられるような思いにマリーが唇を噛みしめた、まさにその時だった。

『……永遠の愛ねぇ』

脳の奥底で、シャルルが短くあざ笑った。

(シャルル……)

静かな沈黙。そして、刺すような冷たい声が脳腔を揺らした。

『二十三年後に、その言葉を断頭台でもう一回言ってみろ』

血の気が引いたマリーの瞳が、恐怖に大きく見開かれる。
歓喜のオルガンが再び爆発したように鳴り響いた。
貴族たちは口々に祝福の言葉を贈り、盛大な拍手を送る。 ルイは緊張が解け、晴れやかな顔をしている。 マリーだけが青ざめ、ガタガタと震えている。
そして、脳内でシャルルだけが、酷く愉しそうに笑っていた。
何事もなかったかのように、儀式は次の指輪交換へと進んでいく。

第二章 暗雲の王宮
第二節 断頭台の婚礼(後半)

聖職者によって清められた黄金の指輪が、恭しく差し出された。

ルイの手がわずかに震えながら、マリーの華奢な薬指へと指輪を滑り込ませていく。
滑り込んできた冷たい金の重みを感じながら、マリーは固く目を閉じた。

(これが、夫婦の証……。私たちは今日から、命を分け合う夫婦になる……)

ルイのぎこちなくも優しい指先のぬくもりが、彼女の肌に伝わる。
その温もりを打ち消すように、マリーの脳の奥底から冷たい吐息が漏れた。

『……指輪ねぇ』

一拍の静寂。

『首輪の間違いだろ』

短い一言。説明など何一つない。だが、薬指に嵌められた金環は、二人を繋ぐ目に見えない鎖となり、これから歩む未来へ向かう足枷になった気がした。

マリーの顔から血の気が引いていく。

その時、大聖堂の巨大な鐘が、地の底から響くような重低音を鳴り響かせた。それを合図に、歓喜の爆風が礼拝堂を満たした。祝砲の轟音が遠くパリの空を揺らし、重厚なパイプオルガンの旋律が空気を震わせる。

貴族たちが一斉に立ち上がり、惜しみない拍手を送っていた。輝くシルクとベルベット、煌めく宝石の海。誰もが「二大強国の平和」と「若き新婚夫婦の誕生」を疑わず、歓喜に頬を染めている。

だが、マリーの目を通してその光景を見つめるシャルルには、まったく別の色が見えていた。

今、歓声をあげる美しい伯爵夫人。 数十年後、髪を乱し、怯えながら泥の敷石を牢獄へ向かって引かれていく姿。
胸を張り拍手を送る若き貴族。 数十年後、血と汗に塗れ、生気を失った顔で断頭台の階段を登っていく姿。
脳内のデータベースが弾き出す歴史の果て。専制政治の豚どもが辿る無残な破滅の光景に、シャルルは冷たく鼻を鳴らした。

『……最高の処刑名簿(リスト)だ』

未来の歴史を知る者としての優越感と、特権階級に対する泥のような嫌悪。火星同盟の兵士として戦場を生き抜いてきた男の瞳には、目の前の華やかな貴族たちが、やがて屠殺場へ運ばれる家畜の群れにしか映っていなかった。

(シャルル……あなたには、何が見えているの……?)

マリーは恐怖に震え、その場に崩れ落ちそうになる膝を必死で叩いた。

その瞬間、ふっと、彼女の指先が温かい体温に包まれた。

ハッとして隣を見ると、ルイが彼女の手を、ぎこちなく、けれど力強く握り返していた。

貴族たちの喝采が鳴り響く狂乱の中で、ルイはマリーの耳元に顔を寄せ、小さな声で囁いた。

「……怖かったですか?」

マリーは息をのんだ。

見上げると、そこにあったのは、自分と同じように全身の汗を拭い、緊張で唇を固く結んだ十五歳の少年の顔だった。

ルイは困ったように、照れくさそうに小さく笑った。

「僕も……少し怖かったです」

その言葉と、自分以上に汗をかいた彼の温かい手。 自分の緊張や恐怖を、この不器用な少年はちゃんと見ていてくれたのだ。

マリーの胸の奥で、冷え切っていた何かがゆっくりと解けていく。

(ああ……この人も普通の男の子なんだわ。私と同じように、怖くて、必死で……それでも私の隣に立とうとしてくれている……)

胸を突くような愛おしさと小さな希望が、絶望の暗闇の中に灯る。

(私……この人と一緒なら、きっと——)

マリーがルイの温もりを感じ取り、ほんの僅かに微笑みかけた、まさにその瞬間だった。頭の奥深く、闇の底からシャルルの静かな声が響いた。

『覚えておけ、小娘』

二人が引き寄せ合った手、通い合わせた心、そのすべてを見下ろすように。

『人間ってのはな……幸せの絶頂で、一番無防備になる』

歓喜のオルガンが最高潮に達し、頭上で巨大な鐘が鳴り響く。

晴れやかな顔で祝福を送る貴族たち。 互いの温もりに救われ、小さく微笑み合う幼い夫婦。 そして、その頭上で残酷な未来を見据え、一人冷たく冷笑するシャルル。

マリーは無意識に、指に嵌められた冷たい金環へ触れた。 それは確かに、不器用な少年と交わした温かい夫婦の証だった。しかし同時に、この血塗られた未来へと二人を繋ぎ止める、最初の鎖でもあった。

第三節 漆黒の初夜

昼間の眩い狂乱が、まるで遠い夢だったかのように消え去っていた。
何百人もの貴族たちが上げた歓声も、高天井に反響した荘厳なパイプオルガンの旋律も、空を揺らした祝砲の轟音も、いまのヴェルサイユにはひとかけらも残っていない。

広い寝室を支配していたのは、息が詰まるほどの重々しい闇と静寂だった。

かすかに響くのは、壁に置かれた巨大な時計が刻む規則正しい針の音と、銀の燭台で揺れる蝋燭が時折爆ぜる音だけ。マリーは、広大すぎるベッドの端に、白いナイトドレス姿でぽつんと一人座っていた。

昼間の重厚なウェディングドレスと輝く宝石は脱ぎ捨てたはずだった。それなのに、胸を締め付ける圧迫感は一向に消えてくれない。

自分を値踏みする何百もの冷ややかな目が消えた部屋で、マリーはかえって別の恐怖に震えていた。これから足を踏み入れる「フランス王太子妃」という底知れぬ未来の闇が、彼女の華奢な身体をそっと覆い尽くしていく。

その時、重厚なオーク材の扉が、静かに滑るような音を立てて開いた。
マリーの身体が跳ねるように強張る。

部屋に入ってきたのは、髪を解いたルイだった。豪華な金の刺繍が施された礼服ではなく、質素な白い寝衣を纏った彼は、昼間の凛とした姿からは想像もつかないほど、小さく頼りなく見えた。

ふたりきりの室内に、ピンと張りつめた空気が漂う。

手が触れそうな距離まで歩み寄ってきたルイだったが、どうしてもマリーの顔を直視することができないようだった。俯いたまま、緊張で大きな指先をぎゅっと固く握りしめている。

「……すみません」

ぽつりと落とされたその言葉に、マリーは驚いて顔を上げた。

「……殿下?」

「僕……あなたを不安にさせていると思います」

ルイの声はかすかに震えていた。
そこにいたのは、命令を下す権力者でも、頼もしい新郎でもない。己の不器用さに戸惑い、葛藤している十五歳のひとりの少年だった。

「僕……」

ルイはそこで一度、言葉を止めた。喉がキュッと詰まったように唇を噛みしめる。 フランス王太子として、己の未熟さや弱音を晒すことがどれほど危険か、彼は教え込まれてきたはずだった。それでも——目の前で不安そうに自分を見つめる少女には、嘘をつきたくなかった。

「……僕は、立派な王太子になれないかもしれない」

ルイは恥じるように小さく視線を落とした。

「政(まつりごと)の難しさより、部屋に閉じこもって鍵の構造を調べている時が一番落ち着くんだ。そんな王太子らしくない妙な趣味ばかりに夢中になって……あなたを失望させるような、頼りない夫になるかもしれない」

それは自虐や過剰な自己否定ではなかった。これから巨大な国家を背負っていくことへの深い畏怖と、目の前の少女の期待に応えられるだろうかという、あまりにも誠実な不安だった。

不器用な言葉。だが、その裏にある想いにマリーの胸が熱く締め付けられる。

この人はなんて温かいのだろう。王太子という権力の上に胡座をかくこともなく、ただ一人の少女を不安にさせてしまったことを、自分の未熟さとしてこんなにも申し訳なさそうにしている。

(ルイ様……)

マリーの心に、そっと温かい灯火が灯りかけた——まさにその時だった。
脳腔の暗闇、言葉の届かない深い底から、あの冷たい声が差し込んできた。

『……だから余計に残酷なんだよ』

マリーの息が止まる。

(シャルル……?)

『お前ら二人とも、相手を守ろうと思っている。……だから怖いんだよ。歴史って奴は、そういうものから先に壊していく』

シャルルは、それ以上何も言わなかった。いつもなら吐き捨てるように未来を嘲笑する男が、今だけは沈黙していた。その沈黙の方が、マリーには恐ろしかった。恐ろしい未来を予見させる沈黙だった。

マリーは爪が食い込むほど拳を握りしめた。シャルルの静かな言葉を振り払うように、自分の胸の奥で渦巻く不安を振り切るように、彼女は勇気を振り絞って手を伸ばした。
そして、ルイの寝衣の袖を、小さく、すがるように掴んだ。

「……殿下」

ルイがハッとしてマリーを見つめる。

「もし……もし私が、みなさんの期待されるような、立派な王太子妃になれなかったら……?」

震える声での問いかけ。

ルイは驚いたように丸い瞳を見開いた。そして、自分の不安を和らげるように、どこか胸のつかえが下りたような、晴れやかな笑顔を小さく浮かべた。

「……その時は、僕も一緒に失敗します」
「え……?」
「僕も、立派な王太子にはなれそうにない。だから……一緒に失敗しながら、一緒に頑張りませんか」

胸が震えた。

完璧な王子として導いてくれるのではない。一緒に迷い、一緒に失敗し、同じ目線で歩んでくれる。その不器用で対等な言葉は、昼間の聖堂で交わしたどんな大層な儀式よりも、はるかに強くマリーの心に響いた。

国のための政治的な婚姻が、この暗闇の中で初めて、二人の「本当の約束」へと変わった瞬間だった。

ルイは照れくさそうに顔を赤らめると、ぎこちない動作で、マリーの額に一瞬だけ優しく唇を寄せた。

「おやすみなさい、マリー殿下」

ふたりは同じ広大なベッドに入り、左右の端へと身体を横たえた。中央にはぽっかりと距離が空いている。十四歳と十五歳の二人にとって、それが精一杯の距離感だった。

けれど、二人の手だけはベッドの中央で手繰り寄せられ、固く、温かく握り合わされていた。

深夜。

小さな部屋に、時計の音だけが響いている。

(まだ……起きていらっしゃるのかな……)

マリーは息を殺し、動かないようにしていた。隣のルイの身体が、緊張でまだ僅かに硬直しているのが伝わってくるからだ。

(僕の手……汗ばんで不快じゃないだろうか……)

ルイもまた、マリーを起こしてしまわないよう、必死に寝返りを打つのを耐えていた。

お互いを思いやるあまりに眠れない、初々しくも愛おしい夜。繋いだ手のぬくもりだけを頼りに、二人はゆっくりと安らぎの中へと落ちていった。

やがて、重なり合う二人の静かな寝息だけが、暗闇を満たしていった。

マリーの顔には、フランスへ来てから初めて見せる、幼く安らかな笑みが浮かんでいた。ルイもまた、握った手を決して離さないまま、穏やかな顔で眠っている。

その二人の寝息を、マリーの脳内から見つめる存在があった。

シャルルは、しばらく何も言わなかった。

『……馬鹿な奴らだ』

暗闇の中、静かに言葉が落ちる。

『そんな顔で笑いやがって……』

長い、長い沈黙。

『……だから歴史って奴は嫌いなんだよ』

それ以上、シャルルの声は聞こえなかった。だが、彼が消えたわけではない。マリーの寝顔のその下には、消えることの無い冷たい影が残っていた。

壁に掛けられた古びた大時計の針だけが、二人の知る由もない未来へ向かって、静かに時を刻み続けていた。


第二章:軋む運命と観測者の決意
第四節 孤独な王太子妃

鏡の中に映る己の姿が、マリーにはどうしても見知らぬ他人のように思えてならなかった。

絹の肌着の上から幾重にも締め上げられたコルセット。息を吸うたびに肋骨が悲鳴を上げ、皮膚が引きちぎれるような痛みが走る。その上に重ねられるのは、膨大な量の鯨骨で広げられたパニエと、重厚な銀糸の刺繍が施された絹織物のドレスだった。

「――殿下、少々お首を伸ばしていただけますでしょうか」

初老の女官が、一切の感情を排した声で宣告する。マリーが小さく頷くと、すぐさま三人の侍女が群がり、両耳にこぶし大のダイヤモンドが揺れるイヤリングを装着し、首筋には真珠の首飾りを重々しく巻きつけていった。

朝の身支度の儀式(ルヴェ)。 それが、ヴェルサイユにおけるマリーの一日の始まりだった。
室内には、彼女の着替えを「観賞」するために集まった数十人もの宮廷貴族たちがひしめき合っている。彼らは扇子で口元を隠しながら、ひそひそと囁き合い、マリーの皮膚の白さ、立ち振る舞い、果ては着替えの最中に見せるわずかな表情の揺らぎまでを、執拗な視線で観察していた。

(……息が、できない)

昨夜、あの暗がりの中でルイと交わした、不器用だが確かな温もりを宿した会話が、遠い幻であったかのように思えた。あそこにいたのは、一人の傷つきやすい少年と、寄り添おうとした少女だった。だが、日の光の下に引きずり出された瞬間、マリーは再び「フランス王太子妃」という高価な装飾品へと戻されていた。

耐えかねたマリーは、胸元に最後の仕上げとして付けられようとした、絢爛な宝石の襟飾りを手で制した。

「……もう、結構です」

室内の空気が凍りついた。侍女の手がピタリと止まり、貴族たちのひそひそ話が一瞬で途絶える。

「……何か不都合でもございましょうか、殿下」

女官が不審そうに眉をひそめる。マリーは呼吸を整え、胸の奥で渦巻く感情を必死に抑え込みながら口を開いた。

「これほど重々しい装飾は必要ありません。……私は、贅沢そのものを拒んでいるわけではないのです。ですが、パンを買うことすら叶わず、痩せ細った子供たちもいると聞きました。……王家が民の苦しみに心を寄せていることを、形として示すべきだと思ったのです。神から王家に与えられた使命として、私たちがその痛みを無視し、ただ富を貪っていると思われるのが怖いのです。……ドレスの装飾を、少し削ってください」

マリーの切実な訴えだった。金額の問題ではない。王家を壊したいのではなく、ただ「神と民に対して正しく、気高い王家でありたい」と願う、一人の純粋な少女としての祈り――真摯な善意から出た言葉だった。

しかし、返ってきたのは賞賛でも納得でもなかった。 部屋を支配したのは、あまりにも無機質で、冷ややかな困惑だった。

「殿下」

女官は、まるで理解不能な戯れ言を聞いたかのように首を横に振った。

「この衣装に施された刺繍や宝石は、単なる飾りではございません。我がフランス王家の富と権威、そして諸外国に対する威信を示すための『神聖なる儀礼』でございます。それらを退けることこそ、王家の格を貶め、秩序を揺るがす愚行にございます」

「ですが、民に心を残さぬ王家が、どうして正しくいられましょう――」

「神から与えられた使命、とおっしゃいましたか?」

周囲の貴族たちから、くすくすと抑えつけるような失笑が漏れた。扇子の影で交わされる視線には、明らかな蔑みが混ざっている。

『まあ、オーストリアの田舎から来た小娘は、何一つご存じないのね』 『王家の格というものを理解していらっしゃらない』 『民の目を気にして身を縮めるだなんて、王太子妃としての自覚がお欠けになっているのでは』

刺すような異物感が、マリーの皮膚を刻んでいく。正しい王家であることを願っているはずだった。誇り高き王族として民を慈しむことが、なぜこれほどまでに嘲笑されなければならないのか。マリーは拳を強く握りしめ、唇を噛みしめるしかなかった。



身支度が終わり、貴族たちがぞろぞろと退室していく。 一人残された自室の鏡の前で、マリーは崩れ落ちるように椅子に深く身体を預けた。絶望と途方に暮れた感情が、胸の奥から急速に広がっていく。

『――馬鹿だな、お前は』

頭の深層から、嘲るような冷ややかな声が脳内に直接響き渡った。 マリーはピクリと肩を揺らす。視界のどこにも姿はない。だが、頭蓋の裏側にへばりつくように、シャルルという存在の気配が冷たく漂っていた。

(……シャルル。あなたまで私を笑うの?)

『笑う気にもなれんさ。あまりにも知恵が足りなさすぎてな』

脳内で、シャルルが鼻で笑う気配がした。

『お前は「民のために」と言ったな。……その気持ち自体は結構なことだ。だが、やり方が致命的に素人なんだよ。この時代じゃな、宝石一つ、ドレスのレース一枚にまで明確な政治的意味がある。王冠ってのは頭に乗せるためだけの飾りじゃねぇ。周りに「俺たちは支配者だ」と信じ込ませるための政治道具なんだ』

(……では、威圧と誇示だけが『正しい王家』の姿だというの?)

『お前がやってるのは、ただの現実逃避だ。いいか、お前がドレスを簡素にしたところで、民との距離が縮まるわけじゃない。むしろ「オーストリアの女に威厳を奪われた」と宮廷から見なされ、お前自身の立場(求心力)を失うだけだ。お前はこの巨大な宮廷と戦うつもりでいて、自分が手にするはずだった最大の武器――「王家の威厳」って道具を、自ら投げ捨てようとしてるんだよ』

(武器……?)

『そうだ。権力闘争を生き抜き、周囲を従わせるための武器だ。お前は優しさを実現する方法を知らねぇ。味方……いや協力者も作れないお前が丸腰になって、自分の「正しさ」だけ振りかざして何が変えられる?』

頭の中に直接語りかけてくるシャルルの言葉は、逃れることのできない刃となってマリーの精神を抉った。 彼の言葉は非情だった。だが、反論の余地が無いほどに正しかった。自分は「正しい王家でありたい」と願いながら、ただ単にこの宮廷の仕組みを、政治という巨大なゲームのルールを理解していない「無知な少女」として突っ走っていただけなのだ。

(……じゃあ、どうしろというの)

マリーは声に出して呟いた。喉が固く震える。

(民を想う気持ちすら捨てて、ただの飾り人形として笑っていろと言うの? それが……あなたの望みなの?)

マリーの自問に対し、脳内のシャルルの気配が一瞬、苛立ちを孕んで沈黙した。 彼の意識の奥底には、かつて見た数多の歴史の断片が過っていた。己の青臭い善意だけを頼りに敵の中に飛び込み、戦い方も知らぬまま踏みにじられ、処刑台へと消えていった「愚か者たち」の無惨な末路が。

『……勝てるわけがねぇんだ。こんな巨大な化け物に、ルールも知らねぇ小娘の無防備な正義感なんかで』

吐き捨てるような念が、マリーの脳裏に伝わってくる。

『俺が言ってるのはな……勝てない戦い方をするなってことだ。自分の武器も、敵の正体も知らねぇまま、知った風な顔をして死に急ぐなと言ってるんだよ』

(死に急ぐ…な……)

『勘違いするな。俺はお前を助けたいわけじゃない。……ただ、無駄死にしていく奴を見るのは、ヘドが出るほど退屈だってだけだ』

そう吐き捨てると、頭の深層にいたシャルルの気配は潮が引くように静まり返り、完全な沈黙に入った。

静まり返った部屋の中で、マリーは自分の手を見つめた。爪が皮膚に食い込むほど強く握りしめられていた。脳裏に刻まれたシャルルの言葉は毒のようだったが、同時に、「勝つための術」を知らぬ己の未熟さを痛感させる忠告でもあった。



その日の夜、公式な夕餐の場において、マリーの「未熟な抗い」は、ついにこの宮廷の頂点と衝突することとなった。

豪華絢爛な大食堂。無数のろうそくが眩いばかりの光を放ち、銀製の食器が燦然と輝いている。長テーブルの主座に座るのは、フランス国王ルイ15世。そしてその傍らには、王の寵姫であるデュ・バリー夫人が、惜しげもなく宝石を散りばめた黄金のドレスを纏って寄り添っていた。

食事の最中、ルイ15世が不意にグラスを置き、静かにマリーへ視線を向けた。

「……王太子妃よ」

低く、重厚な声。それだけで食堂の全空気が緊張で張り詰める。

「今朝、身支度の場において、衣装の簡素化を望んだと聞いたが……誠か?」

マリーの背筋に冷や汗が流れた。ルイ(王太子)が隣で息をのむ気配が伝わってくる。マリーは意を決し、王の視線を受け止めた。

「……はい、陛下。過剰な装飾を控え、王家が民の苦しみに心を寄せていることを形として示すべきだと思ったのです」

沈黙が落ちた。ルイ15世の表情には、怒りも、苛立ちすらも浮かんでいなかった。ただそこにあるのは、圧倒的な「支配者」としての静謐さだった。老王は、まるで世界の理を教え諭すかのように、緩やかに口を開いた。

「……余が、民を苦しませていると?」

低く落ちたその問いに、広間から血の気が引いた。王の隣に座るデュ・ヴァリー夫人は大きく目を見開いて、奇異な物を見るような表情をマリーに向けている。

「えっ……」

「余の治世が民を虐げ、王家が彼らを顧みぬと……そう申すのだな、マリー」

威圧するような声ではない。だからこそ、老王の背負う歴史の重みが、容赦なくマリーの胸を突いた。マリーは言葉を失い、喉が引きつった。自分の発した「民の苦しみ」という善意の言葉が、王の治世そのものへの無礼な批判となり、己の無知を晒す刃となって跳ね返ってきたのだ。

ハッとしたマリーの額から、冷たい汗が伝う。ハプスブルクの温室で育ち、「可哀想な民のために」と無邪気に信じ込んでいた己の考えが、どれほど浅はかで愚かなものであったか。ヴェルサイユという国の中心で、自分がいかに何も知らずに口を開いていたかを思い知らされ、全身が凍りついた。

老王はマリーの動揺を見つめたまま、教え諭すように言葉を継いだ。

「考え違いをしているな、マリー」

老王の言葉には、威圧感というよりも、数百年の歴史を背負ってきた確たる自負の念が宿っていた。

「王家の豪華さは、自慢や娯楽のためにあるのではない。王家の威厳こそがフランスという国家の秩序であり、民をひれ伏させ、外敵から国を守る力の源泉なのだ。それを削ぐことは、優しさではない。王家の威信を傷つけ、国家の秩序を揺るがす……我がフランスへの侮辱であり、罪なのだよ」

「っ……!」

マリーは言葉を失った。 ルイ15世は、悪意で言っているのではなかった。性根の腐った悪党としてマリーを虐げているのでもなかった。彼は心から「王家の贅沢と威厳こそが国家の秩序であり、民を守る正義である」と信じ切っているのだ。マリーが正しさを求めて放った言葉は、老王にとってみれば「国家の土台を破壊する暴論」でしかなかった。

悪意ならば、撥ね返すこともできたかもしれない。だが、あちら側にも「数百年培われてきた論理」があるのだと思い知らされた瞬間、マリーが盾として掲げていた拙い善意は、脆くも砕け散った。

「お前がオーストリアでどのような教育を受けたかは知らん」

ルイ15世は興味を失ったように視線を外し、肉を切り分けた。

「だが、ここはフランスだ。王太子妃として我が国の秩序に従えぬというのなら……お前の存在そのものが、我が国にとっての害毒となるぞ」

王の傍らで、デュ・バリー夫人が優越感に満ちた微かな笑みを浮かべた。 彼女は、この「贅沢と威厳」というシステムの中で泥をすすり、勝ち上がってきた女だった。マリーの掲げる青臭い理想主義など、彼女にとってみれば鼻で笑うような滑稽な戯れに過ぎないのだ。その憐れみと軽蔑が混ざった視線が、マリーの心に容赦なく刺さった。

隣に座るルイの顔を見た。助けを求めたかった。だが、ルイは青ざめた顔で手元の皿を見つめたまま、一言も発することができずにいた。祖父である国王の威圧感の前に、10代の少年である彼はまるで小動物のようにすくみ上っていた。

――自分は、この広い宮殿にただ一人きりなのだ。

その事実が、氷の針となってマリーの全身を貫いた。



参内を終え、一人で自分の部屋に戻ったルイは、薄闇の中で激しく震える手を見つめていた。

「……僕は、何をしていたんだ」

絞り出すような声が、無人の室内に落ちる。

昨夜、あんなにも愛おしく感じた少女。自分が守ると、神に誓ったはずの相手。それなのに、祖父の一言で身体が凍りつき、マリーが孤立無援で傷ついている間、自分は何も出来ずただ黙って下を向いていた。

(僕は彼女を守りたいと思った。……だが、僕は王太子だ)

胸を刺すのは、守るべき妻を守れなかった男としての猛烈な羞恥だった。だがそれ以上に、重くルイの首を絞めるのは「血の呪縛」だった。

王太子である以上、専制君主である祖父の決定や言葉を否定することは、自らが生まれ落ち、いずれ頂点に立つ「フランス王国」という世界そのものを否定することと同義だった。祖父を裏切ることは、自分が王太子であることの根底を削り取ってしまう。

マリーを守りたいという個人としての想いと、王家と世界の秩序を肯定しなければならない王太子としての重圧。ふたつの狭間で引き裂かれながら、ルイは己の無力さを噛み締め、生まれて初めて自らの背負う王冠の歪んだ重みに恐怖していた。



一方、自室に戻ったマリーは、侍女たちをすべて下がらせると、ドアに背を預けてそのまま床へ崩れ落ちていた。

涙が留めなく溢れ出て、美しいドレスの胸元を濡らしていく。宮廷からの冷ややかな視線。ルイ15世という絶望的な王統の壁。そして、己の未熟さと無力さ。正しいと信じて踏み出した一歩は、自分自身を深く傷つけ、孤立させる結果にしかならなかった。

「……うう、くっ……」

膝を抱えて声を押し殺して泣くマリーの精神の奥底で、ふっと冷たい気配が立ち昇った。

『だから言ったろ』

脳内から、あきれ返ったシャルルの声が響く。

『お前の小さな頭で考えた「正しさ」なんてな、あの老人たちが何百年もかけて築き上げた「正しさ」の前じゃ、羽虫の一突きほどの価値もねぇんだよ』

(……じゃあ、どうすればいいの?“王族らしく”は、民を顧みず豪華に振る舞うって事なの……?)

マリーは膝に顔をうずめたまま、声に出してしゃくりあげた。

(私が贅沢をしたから、民の苦しみを理解しなかったから処刑されるんでしょ?じゃあ、どうすればいいの?処刑される未来しか無いの?)

『……民の苦しみ……か。別に民衆のことを気にする必要なんてねぇ。あいつらは、お前達を殺した後、どうすると思う?今度は自分たちで殺し合いを始めるんだぜ。専制君主という“枷”がなくなったとたん、権力争いを始めるんだ。そして50万人を殺す』

(えっ?ご…じゅう…万人?)

『ああそうさ。その大虐殺が飛び火することを恐れたお前の母国オーストリアやその他の国がこのフランスに攻め込む。そして200万人が死ぬ』

(そん…な……)

『それだけじゃねぇ。混乱したフランスを立て直すために民衆はどうしたと思う?くくく、本当に愚かな連中だ。自分たちで国王を殺しておいて、困ったからコルシカの男を国王にするんだぜ。そしてその男は、全ヨーロッパに戦争をしかける。その結果、700万人が死ぬ』

(700…万……)

『ははは、笑えねぇ喜劇だな。お前が浪費して浮気しまくったせいで1000万人が死ぬんだ。もし本当に悪魔が居るんだとしたら、それはお前さんのことだろうな』

(……私が……悪魔……)

マリーは涙に濡れた顔を上げ、誰もいない自室の暗闇を見つめていた。
(私の存在が、ルイ様を……ううん、千万人もの命を奪うというの……?)

胸を押し潰していたのは、己の死への恐怖ではなかった。自分という人間が存在することそのものが引き起こす、未来の凄惨な劇への途方もない罪悪感だった。

愛する夫も、知らぬ国の無辜の民も、自分がここにいるだけで破滅の渦へと引きずり込まれていく。ハプスブルクの温室を抜け出し、右も左もわからぬまま抱いた幼い善意が、まさかそれほど大きな災厄の種であったとは。その重圧に、十四歳の幼き心はあっけなく粉砕されていた。

「……なら、私が消えれば……」

ぽつりと漏れた弱々しい呟きは、静寂に消えた。マリーは震える膝を押さえながら身を乗り出し、机の上に置かれた一筋の光――真鍮のペーパーナイフへと手を伸ばした。冷たい金属の柄を握りしめると、燭台の炎を映して鈍く光る刃先を、己の細い首元へとしずしずと押し当てる。

押し込めば、すぐにも激痛と死が訪れる。

『……フン、それがいいかもな』

思考の奥底、脳裏の暗闇から、シャルルの声が冷たく落ちてきた。投げやりで、感情を殺した響きだった。

『断頭台で群衆に罵られて首を跳ねられるよりは、今ここで終わらせた方があんたにとっちゃずっと幸せだ』

(……ええ。ごめんなさい、ルイ様……)

マリーはまぶたを閉じ、刃の柄を握る手に力を込めた。

その時――。

ドアの方からノック音が聞こえた。

「マリー、まだ起きているかい?」

それは夫、ルイの声だった。今一番聞きたくなかった声。今一番聞きたかった、このヴェルサイユで唯一自分の側に寄り添ってくれる人の声。

マリーは何も答えなかった。そして、ルイが入ってくる前に全てを終わらせよう。それが二人にとって一番の幸せに繋がるのだから。

「何をしているんだ!マリー!」

普段の彼からは想像もつかない、切迫した叫び声だった。入ってきたのは、ルイだった。マリーの顔を思い出す度に胸騒ぎに襲われた彼は、居ても立っても居られなくなったのだ。そして、マリーの手に握られた刃を目にした瞬間、顔から一切の血の気を失わせた。

ルイは考えるよりも先に身体を躍らせ、なりふり構わずマリーの手元へ飛びついた。

「やめろ――っ!」
「ルイ様……っ!?」

強い衝撃とともに、刃がマリーの喉元から弾き飛ばされる。 床に落ちたのは、金属の冷たい音だけではなかった。

ポタ、ポタと、重い雫が白い絨毯へ落ち、赤い染みを作っていく。

ルイが素手で刃を握り、マリーからナイフを力任せに奪い取っていたのだ。彼の右の掌から溢れ出た鮮血が、指先を伝ってボタボタと床を濡らしていく。

「ルイ様……! 手が……手が血だらけに……!」

あまりの光景にマリーが悲鳴をあげたが、ルイは自身の傷口など一瞥もしなかった。彼は血まみれの手も構わず、マリーの華奢な肩を掴むと、そのまま強くその身体を抱き寄せた。

「マリー……! マリー……!」

煤と鉄の匂いが混ざる、彼の粗く乱れた吐息と、力強い体温。 ルイは固く目を閉じ、抱きしめる腕に壊れものを慈しむような力を込めて、絞り出すように呟いた。

「……ごめん。ごめんよ、マリー……」
「ルイ……様……?」
「僕が……僕が不甲斐ないばかりに、君をここまで追い詰めてしまった……。僕がもっと頼もしい男なら、君にこんな恐ろしい思いをさせずに済んだのに……!」

ルイの声は震えていた。彼は決して口達者な人ではない。己の感情を言葉にするのが誰よりも苦手な男だった。その彼が、心臓の動悸を直接伝えるようにマリーを抱きしめ、自分の無力をどこまでも責め、涙声で詫びている。

マリーの首筋に、ぽたりと温かい雫が落ちた。 ルイの涙だった。

己の命を投げ出そうとした自分を、傷つくのも構わずに止め、ただひたすらに自分の無力さを恥じる夫。 その痛々しいほどの優しさと温もりが、マリーの凍りついた心にゆっくりと、けれど確実に浸透していく。

マリーの視線が、ルイの煤けた、血に染まる手へと落ちた。 そして、自分の胸元で冷たく触れる小さなロザリオへ。

(ああ……この人は、こんなにも私を想ってくれている……)

仮に未来がどれほど暗くとも。 自分がいつか悪魔と呼ばれ、残酷な運命に呑まれるのだとしても。この優しい人を置き去りにして、ひとりだけ逃げ出すことなどできるはずがなかった。

「……いいえ、ルイ様。違うのです……」

マリーは血のついた彼の衣服にしがみつき、彼の広い胸に深く顔をうずめた。こらえていた感情が一気に溢れ出し、大粒の涙が彼の胸元を濡らしていく。

「私が……私があまりに愚かで、弱かったのです……。ごめんなさい、ルイ様……ごめんなさい……!」
「いいんだ、マリー。もういい……」

ルイは血の滲む手でマリーの頭をそっと包み込み、幼子をあやすように優しく撫でた。

「君を一人にはしない。僕が……何があっても君の側にいるから……」

その不器用な言葉は、どんな甘い誓いよりも強く、マリーの魂に届いた。
マリーは涙を拭い、彼の胸の中でゆっくりと息を吐いた。

(もう少しだけ……この人の温もりのために、抗ってみよう)

胸の奧で、かすかな決意の灯火がともった。それは、まだ風が吹けば消えてしまいそうな小さな炎だったが、冷たかった少女の心に、確かな熱を取り戻させていた。

暗闇の中で、マリーは小さく身体を丸めた。

頭の深層で、シャルルはその姿を「観測」していた。いつものように「だから言っただろ」とあざ笑い、無知で青臭い少女が身の程を知って泣いている惨めな姿を冷ややかに見届ければいいはずだった。歴史の運命に逆らえず、踏みにじられていく無数の敗者の一人として、ただ切り捨てればいいはずだった。

――なのに。

『……チッ』

シャルルは胸の奥を突き刺すような、不快で鋭い違和感に苦々しく眉をひそめた。

特権にあぐらをかいて民衆を苦しめてきた王族の涙など、断頭台へ続く花道を飾る宝石のようなモノだ。自分は特権階級と戦ってきた二十三世紀の軍人であり、未来を知るだけの「観測者」に過ぎないのだ。 ……そう自分に言い聞かせながらも、シャルルは自分の中に生じた一瞬の小さな熱を認めるまいとするように、それ以上何も語らず、ただ深い沈黙の中へと沈んでいった。


第二章 暗雲の王宮
第五節 ヴェルサイユの冷たい視線

朝の廊下を歩いていると、すれ違いざまの侍女たちの視線が、いつもより粘つくものに変わっていることにマリーは気づいた。

「――王太子殿下の御手のこと、聞きまして?」
「ええ、ええ。何でも、お一人で錠前をいじっておられて、うっかり切ってしまわれたとか」
「まあ、王太子ともあろうお方が、子供のような遊びに夢中になって……」

囁きは、マリーの姿を認めた途端にぴたりと止み、代わりに慇懃な会釈と、貼り付けたような微笑みだけが残された。だが、扇の陰に隠しきれない嘲りの色までは、隠しおおせるものではなかった。

(違う。ルイ様は、私を庇って……)

真実を叫びたい衝動が喉元まで込み上げる。だが、それを口にすれば、なぜ刃が自分の首に向けられていたのかを語らねばならない。喉の奥に苦い塊が押し留められたまま、マリーはただ俯くしかなかった。



その日の午後、庭園の四阿でルイと二人きりになった時、マリーはとうとう堪えきれずに口を開いた。

「……ルイ様。なぜ、真実をお話しにならないのですか。あなたが私を守って怪我をされたのだと、皆に知っていただければ……」

包帯の巻かれた右手を膝の上に置いたまま、ルイは静かに首を振った。

「いいんだ、マリー。……そんなことに関わらなくていい」
「ですが!」
「君を守れたなら、それだけで僕は十分なんだ」

穏やかな、けれど揺るぎのない声だった。不器用で、口下手な彼らしい言葉。だが、その裏にあるものをマリーは悟った。真実を語れば、必ず「なぜ王太子妃が刃を握っていたのか」という問いに行き着く。ルイは、己の評判よりも、マリーの秘密を――彼女の弱さそのものを、守ろうとしているのだ。

胸の奥が、締め付けられるように熱くなった。同時に、鋭い無力感がその熱を切り裂く。

(私は、守られるばかりだ。……この人を、この宮廷から守ってあげることも出来ないのに)

前夜、闇の中でともった小さな決意の灯火を、マリーはそっと胸の内で握りしめた。もう一度、逃げずに立ち向かおう。だが、何をどう戦えばいいのか、彼女はまだ何一つ知らなかった。



その夜、寝所でひとり物思いに沈んでいたマリーの脳裏に、シャルルが囁いた。

『……で、いつまでめそめしてる気だ』
(……武器が、欲しいの)

マリーは静かに、けれどはっきりと答えた。

(あなたの言う通りだった。私は何も知らない。この宮廷で誰が誰と繋がって、誰が本当の敵で、誰が味方になり得るのか……。知らなければ、また同じように踏みにじられるだけだわ)

脳裏の奥で、シャルルが僅かに沈黙した。値踏みするような、探るような間だった。

『……ようやく少しはマシなことを言うようになったな』

そして、彼は続けた。

『一人、役に立つ女がいる。ランバル公妃だ』
(ランバル公妃……? コンピエーニュの森で、最初に出迎えてくださった、あの?)
『そうだ。あいつを呼べ』
(……どうして、彼女なの?)

マリーの問いに、シャルルはそれ以上語らなかった。ただ、いつもの毒舌とは違う、妙に静かな声だけが返ってきた。

『……理由なんざねぇ。あいつはまだ敵じゃ無い。お貴族様の本音ってやつが聞けるはずだ』

その声の底に、マリーが知らない何かが沈んでいる気がした。だが、深追いする余裕はなかった。藁にもすがる思いで、マリーは翌日、ランバル公妃を私室へと招いた。



ランバル公妃は、噂に違わぬ優しい面差しの女性だった。マリーが率直に、宮廷の力関係を――誰が誰の派閥に属し、何が「常識」とされているのかを教えてほしいと乞うと、彼女は驚いた様子を見せながらも、丁寧に、静かに語り始めた。

そして語られる内容は、マリーの想像を遥かに超えて、彼女の心を凍りつかせるものだった。
聖職者も、大貴族も、その多くが「タイユ(人頭税)」をはじめとするあらゆる直接税を免除されている。それは彼らにとって恥じるべき特権などではなく、「神と血統によって定められた、当然の権利」なのだと、ランバル公妃は淡々と、まるでそれが世界の自然の摂理であるかのように説明した。

「……では、その、国を支える税は、誰が?」

震える声で尋ねたマリーに、ランバル公妃は困ったように微笑んだ。

「それは、平民たちが。当然のことですわ、殿下」

当然。その言葉が、マリーの胸に杭のように打ち込まれた。着飾り、舞踏会に興じ、贅を尽くした食卓を囲む者たちの足元で、痩せ細った子供たちがパンを求めて彷徨っている。その歪みを、彼らの誰一人として「歪み」だとすら思っていない。それは悪意ではなく、生まれ落ちた瞬間から刷り込まれた、疑いようのない「秩序」なのだ。
ランバル公妃が退出した後、マリーは一人、椅子に沈み込んだ。知れば知るほど、目の前に立ちはだかる壁の巨大さだけが露わになっていく。

「……どうすればいいの」

声にならない呟きが漏れる。頭の奥で、シャルルが鼻で笑う気配がした。

『だから言ったろ』

低く、突き放すような声だった。

『王侯貴族なんてのはな、揃いも揃って特権に群がる虫ケラだ。神から特権を授かっただと? 笑わせる。ただの盗人が、盗んだ金で御大層な理屈をこしらえてるだけだ』
(……でも、皆それを、本気で信じているの。悪意なんて、どこにも……)
『悪意がねぇから、なお質が悪いんだよ』

シャルルの声には、いつもの投げやりな響きの奥に、微かな苛立ちが滲んでいた。

『自分が虫を踏み潰してる自覚すらねぇ奴に、虫の痛みなんざ分かるわけがねぇ。……お前がどれだけ足掻いたところで、この化け物は簡単には崩れねぇぞ』
その言葉を最後に、シャルルの気配は再び深い静寂へと沈んでいった。



数日後の夜会。
マリーが「社交界について学びたがっている」という話は、いつしか歪んだ形で宮廷中に広まっていた。

「王太子妃殿下は、平民の暮らしぶりをいたくお気になさっているとか」
「先日もあれほど陛下に諫められたというのに、まだお懲りにならないのね」
「オーストリアの流儀を、この国に持ち込むおつもりかしら」

くすくすと漏れる忍び笑い。扇の陰から向けられる、憐れみと侮蔑の入り混じった視線。誰もマリーに正面から非難をぶつけはしない。ただ、遠巻きに、腫れ物にでも触れるように扱われる。その静かな排斥こそが、直接的な悪意よりもずっと深く、マリーの心を切り刻んだ。
会場の隅で、誰にも声をかけられぬまま佇むマリーは、ふと視線を感じて振り向いた。
離れた回廊の陰。煌びやかな黄金のドレスを纏った一人の女性が、こちらをじっと見つめていた。

デュ・バリー夫人だった。

彼女は優雅に扇を揺らしながら、口元に静かな笑みを湛えていた。一切の言葉を発することなく、ただマリーを見つめている。
マリーの背筋を、冷たいものが伝った。


第二章 第六節 『屈服、そして覚醒』
謁見の間へ向かう回廊で、マリーはオーストリア大使メルシー伯に呼び止められた。

「殿下。少々、お耳を拝借してもよろしいでしょうか」

老練な外交官の声は、いつになく硬かった。人払いをした後、メルシー伯は静かに、しかし有無を言わさぬ調子で切り出した。

「率直に申し上げます。殿下がデュ・バリー夫人を無視し続けていらっしゃること、宮廷中の噂となっております」
「……あの女性に、頭を下げよと?」

マリーの声に、抑えきれない棘が滲んだ。

「頭を下げよとは申しません。ですが、殿下――これはもはや、殿下お一人の感情の問題ではないのです」
「感情の問題ではないと仰るのなら、伯、あなたは何もお分かりになっていません」

マリーは珍しく声を荒げた。堪えていたものが、堰を切って溢れ出す。

「私はこの目で見たのです。豪奢なドレス、宝石、終わることのない晩餐会……その裏で、パンひとつ買えず痩せ細っていく子供たちがいることを知ったのです。この国の貴族たちは、その富をどこから得ているとお思いですか? 民から搾り取った税の上に、あの絢爛な暮らしがあるのです」

メルシー伯の眉が、僅かに動いた。マリーは続けた。

「デュ・バリー夫人は、その象徴です。何の功績もなく、ただ陛下の寵愛だけを頼りに富を浪費する……あの人を認めるということは、私自身が、この国の貴族の流儀に――民を顧みぬこの流儀に、膝を屈することに他なりません。私には、それができません」

長い沈黙の後、メルシー伯は深く息を吐いた。その顔に浮かんでいたのは怒りではなく、どこか年若い者の未熟さを見るような、静かな呆れだった。

「殿下は、思い違いをなさっておいでです」
「思い違い、ですって?」
「貴族が富み、栄えること。それこそが、この国の秩序そのものなのです」

伯は、諭すように言葉を継いだ。

「貴族が贅を尽くし、威厳を保つからこそ、諸外国はこの国を侮らず、民もまた王家と貴族の権威にひれ伏し、国はまとまりを保つ。貴族が力なき存在に成り下がれば、国そのものが瓦解いたします。殿下がお考えのような『貴族の質素』など、この国にとっては秩序を崩す毒でしかございません」
「では、民が飢えることは……」
「殿下」

メルシー伯は、きっぱりと遮った。

「我が国の税収も、ほとんどは平民が納めております。フランスも、我が故国オーストリアも、国の骨組みの本質は変わりませぬ」

マリーは声を失った。フランスだけが特別なのではない。幼い頃から愛し、誇りに思っていた故国オーストリアもまた、同じ犠牲の上に成り立っていたのだ。逃げ場など、最初からどこにもなかった。

伯は懐から一通の書簡を取り出した。封蝋には、見覚えのある紋章。母、マリア・テレジアのものだった。

「女帝陛下からも、重ねてのお言葉です。殿下が意固地に夫人を黙殺なさることで、陛下のご機嫌を損ね、オーストリアとフランスの同盟そのものに影を落としかねない、と」

書簡を開く手が微かに震えた。そこに連ねられた母の筆致は、いつものように厳格で、氷のように冷たかった。感情ではなく、国益。母が娘に求めるのは、常にそれだけだった。

「……たった一言、でよいのです」

メルシー伯は、静かに言った。

「新年拝賀の儀で、当たり障りのない言葉を、ほんの一言。それだけで、多くのものが救われます」

マリーは書簡を握りしめたまま、何も答えられなかった。



新年拝賀の儀は、恙なく終わった。少なくとも、傍目にはそう見えたはずだった。
人混みの中、マリーは震える喉を叱咤し、練り上げていた一言を、夫人へと投げかけた。

「――今日は、ヴェルサイユに大勢の人がいますこと」

それだけだった。それだけの、当たり障りのない言葉。
だが夫人は、扇の陰でにこやかに一礼しながら、誰にも聞こえぬ小さな声で、ただ一言だけマリーの耳元に落としていった。

「……陛下は、聞き分けの良い方がお好きですものね」

デュ・ヴァリー夫人は優雅に立ち去り、儀礼の列は、何事もなかったかのように流れていった。

女の体を使ってのし上がり、国王の力を自分の力のように使って社交界を専横するデュ・ヴァリー夫人。マリーにとって認めることの出来ない女。その女に屈服したマリーは、奥歯を強くかみしめて体を震わせていた。

『あいつも同じだ。泣き叫びながら断頭台で処刑される。……王の寵愛にすがって成り上がった女の、これ以上ない末路だろうよ』
(えっ……そんな未来が、あの人にも……)

マリーは、屈辱に震える一方で、その言葉にどこか虚しさを覚えた。
デュ・バリー夫人の勝ち誇った横顔も、いずれ歴史の波に呑まれて消える。それを知っていながら、今はまだ、何も変えられずにいる自分がいる。周囲の廷臣たちの目に映ったのは、王太子妃と国王の寵姫が、儀礼に則り、儀礼通りの言葉を交わしたという、ただそれだけの光景だった。

そして、その瞬間から、多くの貴婦人達がマリーに近づき含みのある笑みを向けてきた。口々に「デュ・バリー夫人と共に私もよろしくお願いいたします」「デュ・バリー夫人の主催するお茶会に来ません事? 私がお口添えしますわよ」などと、蜂蜜で出来た舌を巧みに使って。

誰もがその瞬間、マリー・アントワネットがデュ・バリー夫人に屈したのだと理解した。



夜、自室に戻ったマリーは、寝台の端に腰掛けたまま、長い間動けずにいた。
窓の外には、煌々と明かりを灯すヴェルサイユの威容が広がっている。無数の燭台、金箔の装飾、着飾った貴族たちの笑い声。この巨大で華麗な化け物は、今夜も変わらずそこにあり続ける。

(……私は、何一つ変えられなかった)

膝の上で握った拳に、爪が食い込む。
自分が殺される恐怖は、不思議なほど薄れていた。代わりに胸を締め付けているのは、もっと重く、広い恐怖だった。

このまま何も変えられなければ、ルイも、傲慢であることに無自覚な貴族達も、罪もない無数の人々も、すべてが革命の炎に呑まれて消えていく。

「……うっ、く……」

声を殺して泣くマリーの意識の奥で、ふっと冷たい気気配が立ち昇った。

『……お前が泣くとき、いつも自分が殺されることばかり考えてたはずだ。……今は、違うみてぇだな』

マリーは顔を上げず、掠れた声で答えた。

(……私が死ぬのは、怖くない。……怖いのは、ルイが、罪のない人たちが、私のせいで死んでいくこと……)

沈黙が落ちた。

やがて、脳裏の奥から、低く鋭い問いが響いた。

『……力が、欲しいか』

それは、いつもの毒舌でも、突き放しでもなかった。まっすぐに、マリーの芯を射抜くような問いだった。
マリーは顔を上げた。誰もいない暗闇を見つめながら、震える声で問い返す。

(……力があれば、歴史を変えられるの? ルイを、民を、救うことができるの?)
『……さぁな』

シャルルの声に、初めて迷いのようなものが滲んだ。

『歴史ってのは、そう甘くねぇ。俺一人の知識と、お前一人の覚悟だけで、何百万人分の運命がひっくり返るなんて保証は、どこにもねぇよ』
(……それでも)

マリーは涙を拭った。震えていた指先が、いつしか静かに止まっていた。

(それでも、何もしないよりはいい。……私次第、なのでしょう?)
『……ああ。……すべては、お前次第だ』

マリーは、ゆっくりと胸に手を当てた。心臓が、確かな速さで脈打っている。この小さな身体の奥に、まだ何も知らない、けれど何かを変えようとする意志が、確かに宿っていた。

「……この身が、砕け散ってもいい」

声に出して、マリーは告げた。震えてはいたが、もう揺らぐことはなかった。

「歴史に、最悪の王妃と刻まれても構わない。……それでルイを、罪のない人たちを救えるのなら、私は」

言葉の途中で、声が詰まった。だが、その瞳に宿った光だけは、消えることはなかった。
頭の奥深く、シャルルは長い沈黙の後、低く、ほとんど独り言のように呟いた。

『……ったく。柄でもねぇことをするハメになったな』

それは、諦めにも、苦笑にも聞こえる声だった。だが、そこに込められていたのは、間違いなく――かつて彼が捨てたはずの、何かを守ろうとする意志だった。

『いいだろう。……付き合ってやる、マリー。お前と一緒に、歴史を変えてやる』

窓の外ではヴェルサイユの明かりが、歴史が動き始めたことなど何も知らずに煌々と輝いていた。

第三章 静かなる牙
第一節「悪魔の設計図」

宮廷の喧騒から遠く離れた、離宮の一室。窓には固く鎧戸が下ろされ、燭台の炎だけが静かに揺らめいていた。マリーが厳重に人払いを命じたこの部屋には、彼女とルイの二人だけがいた。

――正確には、二人と、誰にも知られていない「もう一人」が。

ルイは、包帯の解けた右手を膝の上に置いたまま、真剣な面持ちでマリーを見つめていた。

「マリー。……話とは何だい? 昨日話してくれた“声”のことかい?」

マリーは、一瞬だけ言葉に詰まった。頭の奥で、シャルルの気配が静かに待っている。この存在のことを、目の前の優しい夫にどう説明すればいいのか。

(……言えない)

その思いは、以前よりもずっと強くマリーの中に根を張っていた。

シャルルは男だった。粗野で、口が悪く、けれど紛れもなく「男」としての意識を持つ何者かが、自分の頭の中に四六時中住み着いている。着替えの時も、湯浴みの時も、あの夜、自分の首に刃を突きつけた瞬間でさえも――彼はずっと、そこにいたのだ。
夫となったルイにさえ晒したことのない無防備な姿を、見ず知らずの――しかも得体の知れない、別世界の男にずっと晒し続けてきた。

それを打ち明けることは、まるで己の不貞を告白するに等しいような気がしてならなかった。ルイに嫌われたくない。いや、それ以上に――マリー自身が、その事実を直視することが恐ろしかった。

(……ごめんなさい、ルイ様。今は、まだ)

マリーは胸の奥で小さく詫びながら、頭の中の男と目の前の夫との間に、静かに境界線を引いた。

「……はい。昨日あなたにお話しした“心に浮かぶ声”のことです。あの声が、また私に語り
かけてきました」

嘘ではない。だが、真実のすべてでもなかった。マリーは慎重に言葉を選びながら続けた。

「これから、私たちがすべきことについて……聞いていただけますか」

ルイは戸惑いながらも深く頷いた。彼にとって、マリーの中に時折現れるという「不思議な声」は、未だに信じがたい存在だった。だが、折れそうになったマリーの心をギリギリのところで救い、自分を守ってくれたのもその声の助言だったと聞いている。信じるほかに道はなかった。
マリーは静かに語り始めた。頭の中で紡がれるシャルルの言葉を、自分自身の考えであるかのように、一つひとつルイに伝えていく。

「このまま貴族の特権を放置していては、飢饉によって民は困窮し、国が乱れてしまいます。――それを防ぐために……民の安寧を図り、国を豊かにするために、私たちがすべきことは大きく分けて三つあります」
『いいぞ。そのまま続けろ』

脳裏でシャルルの声が低く促す。革命の凄惨な結末をルイに伝えれば、あまりにも衝撃が大きすぎる。だからシャルルは「飢餓から国民を救うためだ」と表向きの論理を組み立てていた。
マリーはシャルルの指示をなぞるように語った。

「一つ。食糧の増産です。この国の農業はあまりに非効率的すぎます。輪作、品種改良、農具の改良……それらをすぐに広めていくべきだと、その声は告げるのです」

ルイは真剣な面持ちで耳を傾けている。

「二つ。医学と衛生の振興。今のフランスでは、生まれた子供の半数近くが五歳になる前に命を落とします。簡単な衛生知識や予防法を広めるだけでも、救える命は多いはずです」
「三つ。……そして、これが一番の要になります」

マリーは一度言葉を切った。この先の言葉を自分の口から告げることに、僅かな躊躇いがあった。

「親衛隊の創設です。私たち――王太子と王太子妃に、直接忠誠を誓う独自の組織を……」

ルイが思わず問い返した。

「親衛隊……? どうして、そんなものが」
「表向きは護衛と奉仕のためです。……ですがいずれ、私たちの手足として動かせる力が必要になる。そう感じるのです」

その言葉には、マリー自身も拭いきれない違和感があった。食糧増産も医学の振興も、まっすぐに民を救うための言葉だった。だが「実力組織」という言葉には、どこか不穏な色が滲んでいる。

「……それは、何のために?」

ルイが不安げに尋ねると、マリーは頭の中の男に問いを投げかけた。

『いずれ分かる。今は聞け、とだけ伝えとけ』
「……いずれ分かります。今は、そうとしか」

ルイは納得しきれない様子だったが、親衛隊についてそれ以上は追及しなかった。

「マリー、貴族の特権はどうするんだい?」

(……シャルル。それだけ? 貴族の特権は? 免税は? 民を苦しめている根本の仕組みはどうするの)
『考えりゃ分かるだろうが』

脳裏でシャルルの声に微かな苛立ちが滲んだ。

『お前と隣のガキが今、何を持ってる? 王太子と王太子妃だ。称号だけの飾りものだろうが。今、特権貴族どもを刺激してみろ。力もねぇまま潰されるだけだ』
マリーはその言葉をそのまま伝えることに躊躇いを覚え、オブラートに包んでルイに伝えた。

「……今、性急に何かを為そうとすれば必ず反対されます。私たちにはそれを退けるだけの力がありません。まずは力を蓄えるべきだと」
「力を、蓄える……」

ルイが静かに繰り返した。

「はい、国を救うためには、必ず貴族を支配下に置かなければなりません。その為に力を蓄えます」

『いいか。……あと三年だ』

シャルルの声が頭の奥で低く落ちた。

『あの好色じじいは、あと三年でくたばる。天然痘だ。……その時、ルイが国王になる』

マリーの喉が微かに震えた。祖父の死を確定した未来として告げること――それがルイにどれほどの衝撃を与えるか、マリーには痛いほど分かっていた。 だが、もう隠し立てをしている余裕はなかった。

「……ルイ様。心を強く持って、聞いてください」

マリーは震える声で告げた。

「あと三年で……陛下は崩御されます。そして、あなたがこの国の王になるのです」

ルイの顔から、みるみる血の気が引いていった。祖父の死を望んだことなど一度もない。だが、マリーの真剣な瞳がそれが逃れられぬ未来だと告げていた。

「……それが、確かなことなのか」
「はい。……その“声”は、そう告げています。それは避け得ぬ未来であると……」

重い沈黙が落ちた。ルイは震える手を握りしめ、俯いたまま長い間何も言わなかった。マリーは言葉を続けた。

「それまでの三年間が勝負なのだと。今は静かに、着実に力を蓄えるべきだと声は言います。食糧を増やして民の信頼を得る。医学で子供の命を救い、感謝を集める。そして……忠誠を誓う実力組織を、少しずつ育てる」

マリーは一度目を閉じ、大きく息を吸った。

「そしていつか陛下が即位なさった時――私たちはもう“飾りもの”ではなくなっている。民の支持と実力を兼ね備えた、本物の権力者になっている、と」

マリーはそこで息を呑んだ。この先の言葉こそが、彼女の心を最も深く抉るものだった。

「……そうなれば、私達の改革に立ちはだかる者たちを……容赦なく断頭台へ送れるほどの力を手にすることになる、と」

部屋の空気が凍りついた。

「マリー……君は……」

ルイの声が震えた。可憐で心優しい妻の口から出た言葉とは思えぬほどの凄絶な覚悟が、そこにはあった。

「マリー」

震える手で、ルイはマリーの両手をそっと包み込んだ。顔色は蒼白だったが、その瞳には静かな覚悟の光が宿り始めていた。

「僕には、それが正しいことなのか……正直、分からない。祖父の死を望むことなんてできない。……だけど」

ルイは深く息を吸い、マリーの目をまっすぐに見つめた。

「君がその“声”の助けを借りて、僕と、この国の民を守ろうとしてくれているなら。……僕は君一人にその重荷を背負わせはしない。共に背負うよ」

マリーは涙が溢れそうになるのを必死に耐えた。目の前の優しい夫。彼は自分の内に潜む「もう一人の男」の存在を知らないまま、それでも自分を信じ、寄り添おうとしてくれている。
その真摯な信頼が、胸を締め付けるように痛んだ。

(……ごめんなさい。ごめんなさい、ルイ様。私はまだ、あなたに全てを話せない……)

罪悪感が静かにマリーの心に影を落とす。だが、彼女はルイの手を強く握り返した。

「……ええ。貴族達に悪魔と呼ばれても構いません。歴史に最悪の王妃と刻まれてもいい」

その声にもう揺らぎはなかった。

「何もしなければ、この国は崩壊し、何百万人もの民が死にます。……それを防ぐためなら、どんな手を使ってでも救える命を救います。それが、私の選んだ道です」

頭の奥深くで、シャルルはその宣言をただ静かに聞いていた。

『……フン、度胸だけはついたようだな』

低く呟く声には、微かな満足の色が滲んでいた。だが同時に、彼の意識の片隅には、マリーが抱える秘密と罪悪感の重みも確かに伝わっていた。

窓の外では、ヴェルサイユの夜が深く更けていく。暗闇に包まれた離宮の一室で、歴史を覆すための「静かな牙」が、確かに磨かれ始めていた。



第三章 静かなる牙
第二節「教場、開設」
①鍛錬の始まり

離宮の一室、鎧戸の隙間から月明かりが静かに差し込む深夜。人払いを済ませたマリーは、寝台の端に腰掛け、静かに目を閉じていた。

『――さて』

頭の奥から響いたシャルルの声は、いつもよりどこか張りがあり、楽しげでさえあった。

『今日この時をもって、お前の鍛錬を開始する』
(鍛錬……?)
『いいか、これから俺が言うことに、いちいち「え?」だの「どうして?」だの聞き返すんじゃねぇ。鍛錬中の返事は一つだけだ。"À vos ordres!(了解しました!)" それ以外は要らねぇ』
(À vos ordres, ですか? ……分かりました、けれど)
『けれど、じゃねぇ! 返事は "À vos ordres!" だけだと言ったろうが!』
有無を言わさぬ厳しい怒声(のような気配)に、マリーは思わず背筋をピンと伸ばした。
(……ア、ヴォ、オルドル!)
『声が小さい! もう一度!』
(À vos ordres!)

暗闇の中、聞く者とてない静寂の自室で、十四歳の少女がたった一人、誰もいない虚空に向かって、心の底から声を張り上げている。傍から見れば、なんとも奇妙で狂気じみた光景に違いない。

『よし。それから、俺のことは今後 "Mon commandant!(少佐殿)" と呼べ』
(Mon commandant、ですか。……何だか、軍隊のようですこと)
『軍隊のようも何も、軍隊の流儀そのものだ! さぁ、呼んでみろ!』
(も、モン、コマンダン!)
『声に覇気がねぇ! やり直し!』

マリーは、思わず頬をふくらませた。 これまでのシャルルは、皮肉屋で、ぶっきらぼうで、けれど常に理屈で物を語る「教師」だった。それが今、まるで子供が悪ふざけでもしているかのように、やたらと威勢のいい号令をかけてくる。 戸惑いながらも、どこかその滑稽さに、マリーは胸の奥で小さく笑いを堪えた。

(モン、コマンダン!)
『よろしい』

満足げな気配が、脳裏から誇らしげに伝わってくる。

『では、次だ。まず、お前自身の身を守れるようにする。……俺の故郷、火星軍で叩き込まれた体術。"Art martial de l'acier"――機甲武術だ。それを、これからお前に叩き込む』
(機甲武術……。まさか、私にそのような荒々しいことができるとは、到底思えませんが)
『"À vos ordres!" だ! それ以外は口にするな!』

シャルルの声に、一切の反論を許さない勢いが戻ってきた。マリーは、押されるように答える。

(À vos ordres……!)
『よし。……いいか、マリー』

シャルルの声が、僅かに――ほんの僅かにだが、低く真剣な響きを帯びた。

『この技を、一年でモノにしろ。会得した頃には、丸腰のまま百人の兵士を相手に立ち回れるようになる』
(百人……!?)

思わず心の中で絶叫してしまったマリーに、シャルルは間髪入れずに叱咤を飛ばした。

『返事は "À vos ordres!" だと言ったろうが!』
(あっ……! À vos ordres!)

その容赦ないやり取りに、マリーはとうとう堪えきれず、くすっと小さく声を立てて笑ってしまった。
政治の重責、未来の断頭台という恐怖、そして夫にさえ明かせぬ秘密――そうした重苦しい日々の中で、この滑稽でいて容赦のないやり取りは、束の間、彼女の張り詰めた肩の力を抜かせてくれた。

(……分かりました、モン・コマンダン。À vos ordres!)

今度は自分から進んで、しっかりと胸を張り、心の中で声を高らかに響かせてみせた。 頭の奥で、シャルルが小さく鼻を鳴らす気配がした。それはどこか、満更でもなさそうな音だった。

『……上出来だ。じゃあ明日の夜から、本格的に始めるぞ』

こうして、十四歳のフランス王太子妃による、前代未聞の「夜の兵事訓練」が幕を開けた。

②表情を隠す訓練

「À vos ordres!(了解しました!)」の返事にも、幾晩か経つ頃にはすっかり慣れてきた頃だった。ある夜、シャルルはマリーを大きな姿見(鏡)の前に立たせた。

『さぁ、次の課題だ。鏡をよく見ろ』

マリーは言われるがまま、燭台の柔らかい炎に照らされた自分の顔を見つめた。

『……分かるか? お前の顔は、絵本より分かりやすい』
(絵本……ですか?)
『そうだ。喜べば目が輝き、悲しめば眉が下がる。腹が立てば口元が歪み、怖ければ肩が縮こまる。お前の感情は、いちいち全部顔に書いてある。宮廷でその面をやってりゃ、手の内をすべて読まれて、いいように使われるだけだ』

マリーは、そっと自分の頬に手を当てた。 確かに、これまで何度も感情を抑えきれずに涙をこぼし、あるいは怒りに震えて声を荒げてきた。それが己の弱さだと、彼女自身、痛いほど分かっていた。

『今日から、お前にその仮面の作り方を叩き込む』
(仮面……)
『まずは単純なところからだ。……いいか、俺がこれから、お前が一番腹の立つことを言う。何を言われても、顔色ひとつ変えるな』
(そんなこと、できるでしょうか)
『返事は "À vos ordres!" だっ!』
(……À vos ordres)

マリーは背筋を正し、鏡の中の自分をまっすぐに見つめた。

『――お前は、母親に見捨てられて、この国に売り飛ばされたゴミだ』
(なっ!?そんな事はありません! お母様が……私のことをゴミだなんて……!)
その一言に、マリーの血が逆流した。顔を真っ赤にし、目尻に涙が浮かびかける。
『お前はバカか! これは訓練だ! 表情一つ変えるなと言っただろ!』
(あっ……!)
『もう一度だ!』
『――ハプスブルクの田舎娘が、フランス風を気取っても似合わねぇな』
今度は涙こそ出なかったものの、唇が僅かに引き結ばれた。
『唇だ。動いた』
(……分かって、います)
『"À vos ordres!" だっ!』
(À vos ordres!)

マリーは奥歯をグッと噛みしめ、もう一度、鏡の中の自分に向き直った。
こうして、夜ごとの過酷な訓練が繰り返された。 シャルルは時には辛辣な皮肉を、時には冷ややかな嘲りを、容赦なくマリーに浴びせた。そのたびに、マリーの表情のわずかな揺らぎを、シャルルは見逃さず指摘した。

『違う。今、鼻の付け根に皺が寄った』
(え……? そんな、僅かなところまで……)
『"À vos ordres!" だっ! 宮廷の狐どもは、そういう僅かな綻びを見逃さねぇ。お前が今まで潰されてきたのは、まさにそこだ』

幾晩も、幾晩も。同じやり取りが叩き込まれた。 最初のうちは一言も持たずに表情を崩していたマリーだったが、次第に、感情の波を顔に出さずに耐えられる時間が延びていった。
そして――。

『――マリア・テレジアはビッチだって噂だ。お前の父親も誰だか解ったもんじゃねぇ』
(……)
鏡の中のマリーは、微動だにしなかった。 眉も、唇も、頬も、鼻先も、何一つ揺らがない。ただ静かに、まっすぐに自分の鏡像を見つめ返している。
しばしの静寂の後、脳裏でシャルルが小さく唸った。

『……ほぉ』
(どう、でしょうか……モン・コマンダン)

マリーが恐る恐る心の中で尋ねた。鏡の中の顔は無表情を保っていたが、胸の奥では心臓が痛いほど早鐘を打っていた。

『……悪くない』

その一言に、張り詰めていたマリーの頬が、思わず緩みかけた。

『――おい、緩んでるぞ』
(あっ……!)

慌てて表情を引き締めるマリーに、シャルルの気配が、僅かに笑ったような気がした。

『まぁいい。……その調子で続けろ。仮面ってのは、着けっぱなしになるまで身体に叩き込むもんだ』
(À vos ordres! モン・コマンダン!)

鏡の中の十四歳の少女は、まだぎこちなくはあるものの、確かに以前とは違う顔つきをしていた。 感情に振り回されるだけの無防備な少女ではない。己の心を、己の意志で御そうとする――その確かな第一歩を踏み出していた。

第三章 静かなる牙
第二節「教場、開設」
お茶会にて

数週間の「仮面」の訓練を経た、ある晴れた午後。マリーは宮廷の貴婦人たちが催す庭園での茶会に招かれていた。
このところ、マリーには新たな習慣ができていた。街で困窮する平民たちに、定期的に信頼できる侍女を使いに出し、パンや薬を届けさせるようになっていたのだ。表立って喧伝することはなかったが、噂の絶えない狭い宮廷のこと、その行動はいつしか貴婦人たちの耳にも届いていた。
案の定、華やかな茶会の席で、扇の陰から皮肉めいた声が上がった。

「殿下は近頃、随分と……その、“下々の者たち”にご執心だとか」

くすくすと、忍び笑いが広がる。

「まあ、王太子妃ともあろうお方が、平民風情に貴重なお時間をお使いになるなんて。何やら、はしたない噂ですこと」

以前のマリーであれば、頬を紅潮させて下を向き、言葉に詰まっていたところだろう。だが今、彼女の顔には涼やかな微笑みだけが静かに浮かんでいた。夜ごとの鏡の前での訓練が、ここで初めて実地に試される瞬間だった。

(……ここだ)

胸の内で、マリーは静かに息を整えた。頭の奥には、幾晩もかけてシャルルに繰り返し叩き込まれたロジックがあった。
マリーは優雅な所作で紅茶のカップを置くと、穏やかな、けれど一切のブレがない声で応えた。

「あら、皆様はご存じないのかしら」

視線を集め、一呼吸置いてから続ける。

「聖書には、こう記されておりますでしょう。『わたしは飢えていたときに食べさせ、渇いていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し……』。そして主は、こう仰せになりました。『あなたがたが、これらの最も小さい者の一人にしたことは、わたしにしたのである』、と」

茶会の席に、凍りついたような沈黙が落ちた。マリーはその沈黙を味わうように、静かな笑みをたたえたまま言葉を重ねた。

「私は、敬虔なカトリックですの。主の教えに従うことを『はしたない』と仰るのでしたら――それは、教会の教えそのものを疑うことになりはしませんこと?」

扇の陰で交わされていた忍び笑いが、ぴたりと止んだ。
貴婦人たちの顔に浮かんだのは、隠しきれない動揺だった。カトリックの信仰を正面から盾に取られては、誰も反論などできるはずがない。この国において教会の教えを軽んじることは、国王や王家の権威そのものを否定するに等しいからだ。マリーの一言は、彼女たちが最も安全だと思っていた足場を、静かに、けれども確実に切り崩していた。

「……そ、それは失礼を申し上げました、殿下」

一人の貴婦人が引きつった笑みを浮かべ、そそくさと話題を変えた。他の者たちも居心地悪そうに視線を逸らし、茶会は何事もなかったかのように流れていった。



その夜、自室に戻って人払いを済ませたマリーは、寝台に倒れ込むようにして、思わず声を上げた。

「――勝った! 勝ちましたわ、モン・コマンダン!」

弾んだ声だった。政治の重み、未来の惨劇という恐怖、夫にさえ明かせぬ秘密――そうしたものすべてを、この瞬間だけは忘れていた。生まれて初めて自分の言葉で敵を叩きのめしたという達成感が、胸いっぱいに広がっていた。

「あの人たち、あんなに驚いた顔をして……! ずっと言い返せずに悔しい思いばかりしてきましたのに……!」

頭の奥から、シャルルの呆れたような声が返ってきた。

『……声に出さなくても聞こえる。うるさいんだよ』
「あら、今日ぐらい声に出して喜んでもよくなくって?」
『……ふん』

シャルルは鼻を鳴らし、僅かに言い淀んでから続けた。

『まあ……悪くない出来だった。あの一言を仕込んどいて正解だったな』
「本当ですか!」

マリーは飛び跳ねるように身を起こした。頭の奥で、シャルルが照れ隠しのように小さく舌打ちする気配がした。

『調子に乗るな。まだ一勝しただけだ』
「ふふ、分かっておりますわ。……でも」

マリーは窓の外の綺麗な月を見上げながら、そっと呟いた。

「今夜だけは、喜んでもよろしいでしょう?」

その問いに、シャルルはしばし答えなかった。だがやがて返ってきたのは、これまでにない、どこか温かみを帯びた声だった。

『……好きにしろ』

十四歳の少女はその夜、久しぶりに憂いのない顔で深い眠りについた。



その日を境に、マリーの日々は目に見えて変わっていった。
朝は知識を蓄え、昼は優雅に社交をこなし、夜は密かな鍛錬に打ち込む。剣を握ったこともない身にシャルルの“機甲武術”は依然として遠い道のりだったが、型の一つ、二つと、確実に身体はその動きを覚え始めていた。鏡の前での「仮面」の訓練も、日を追うごとに微動だにしなくなっていく。
茶会や夜会の場でも、以前のように俯いてやり過ごすことは二度となかった。時には切り返し、時にはやんわりと躱し、時には静かに相手を黙らせる。
一つ勝つたびに、マリーは弾んだ声で「モン・コマンダン、聞いてくださいまし!」とその日の出来事をシャルルに報告するのが、いつしか日課になっていた。

(……いちいち言わなくても分かってる)

そう言いながらも、シャルルは律儀にその一つひとつに耳を傾けていた。時には「悪くない」、時には「まだ甘い」――素っ気ない評価の中に確かな手応えが滲んでいることに、マリー自身も気づき始めていた。
ある晩、いつものように「À vos ordres!」の号令とともに夜の鍛錬を終えたマリーは、ふと頭の奥に問いかけた。

(……モン・コマンダン。私、少しは強くなれていますか?)
『……さぁな』

シャルルの声はいつも通り素っ気なかった。だが、続く言葉には確かな実感が込められていた。

『だが、少なくとも――もう、あのときみたいにめそめそ泣いてばかりの小娘じゃねぇよ』

その一言に、マリーは胸の奥で小さく笑った。かつて涙にくれるばかりだった自分を思えば、それは何よりの誉め言葉だった。
窓の外、ヴェルサイユの夜空には変わらず星が瞬いていた。だが、その光を見上げるマリーの瞳には、以前にはなかった強さが確かに宿り始めていた。
三年という猶予の中で、少女は少しずつ、確実に「静かな牙」を研ぎ始めていた。

第三章 静かなる牙
第三節「小さな命の灯火」

数日前、宮廷の茶会からの帰り道。馬車に揺られながら、マリーがぼんやりと窓の外を眺めていると、脳裏でシャルルが不意に口を開いた。

『……なぁ、さっきの茶会で聞いた話だが』
(何のことですの?)
『あの茶会で、ロシュフォール子爵夫人が近く出産するって言ってたな。先に生まれた幼子たちは皆早くに亡くなっていて、呪われているんじゃないかって、他のブタ貴族どもが笑っていた件だ』

マリーの胸に、茶会での光景が蘇る。扇の陰で交わされていた、嘲りと憐れみの入り混じった忍び笑い。哀れな夫人の不幸を、まるで座興の種であるかのように囃し立てる声。マリー自身、あの場では黙って聞き流すしかなかったが、内心では強い不快感を覚えていた。

(……あの方のことですね。皆様、あんまりな仰りようでしたけれど)
『そうだ。……お前が聞き逃さずにいてくれて助かった』

シャルルの声には、いつになく実務的な響きがあった。

『俺は、お前の目と耳を通してしかこの世界の情報を得られねぇ。お前があの場に居合わせて、ちゃんと聞き取ってくれたから、使い道が見えた』
(使い道……?)
『ロシュフォール子爵に恩を売る』

端的な一言だった。マリーは、思わず窓の外から視線を戻した。

(恩を、売る……?)
『子爵家自体は大した力を持っちゃいねぇ。だが、夫人の実家は宮廷内でそこそこ顔の利くサン=シュルピス伯爵家だ。……もし、その家の子がお前のおかげで無事に育ったとなりゃ、どうなると思う?』
(……恩義を、感じてくださる、ということでしょうか)
『そうだ。恩義ってのは、下手な弁舌より強い。……忠誠を金で買うことはできても、命を救われた恩はそう簡単には裏切れねぇ。地道だが、それが“味方”を作る一番堅実なやり方だ』

マリーは、複雑な思いを抱きながらも胸の中で頷いた。人の弱みや悲しみを政治的な計算として利用する――その割り切りに、微かな抵抗を覚えないわけではなかった。だが同時に、そこに込められた合理性を否定することもできなかった。

(……でも)

マリーはそっと胸に手を当てた。

(打算からだとしても……救われる命があるのなら。私は、それでいい)



その夜、鍛錬の合間、シャルルはマリーに出産に関わる知識を淡々と語って聞かせた。

『……この時代の乳幼児死亡率は、異常なほど高い。原因の大半は栄養失調じゃねぇ。不衛生だ。目に見えねぇ小さな生き物――細菌ってやつが、傷口や産道から入り込んで産婦や赤子の命を奪う。この時代の医者や助産師は、それを知らねぇまま、汚れた手や道具で平然と赤子を取り上げている』

マリーは、その一言一句を胸に刻み込んだ。石鹸での念入りな手洗い、道具の煮沸消毒や火での清め、そして――生まれたばかりの赤子に、決して蜂蜜を与えてはならないこと。いつか必ず役に立つ時が来ると、確信していたから。



冬の冷え込みが厳しいある日、マリーは供の者を最小限に絞り、パリ近郊のロシュフォール子爵邸を訪れていた。
出産を迎えた若い妻は、寝台の上で苦しげに息を荒げていた。傍らには、教会から遣わされた修道女が、慣れた手つきで湯や布を用意している。 マリーは部屋の隅にそっと控えながら、夫人の顔に浮かぶ、陣痛の痛みとは違う深い陰りに気づいていた。

(……怖がっていらっしゃる)

この夫人はこれまでに三人の子を産んでいた。だが、そのうち二人は二歳になる前に痩せ細るように衰弱して息を引き取り、一人は生後二十日で儚くなっていた。

「……また、この子も……」

夫人が譫言のように呟く。修道女が慰めの言葉をかけるが、その声にも隠しきれない諦めの色が滲んでいた。この時代、生まれた子供が幼くして命を落とすことは、悲しいことではあっても日常茶飯事だったのだ。
マリーの脳裏に、あの夜のシャルルの言葉が蘇る。

(……今が、その時だわ)

マリーは意を決して修道女に歩み寄った。

「シスター。……少し、よろしいでしょうか」

修道女は驚いた様子で振り返ったが、相手が王太子妃だと気づくと、慌てて頭を垂れた。マリーは努めて穏やかに、けれどはっきりと告げた。

「出産の折には、いくつか心得るべき秘術があると聞き及んでおりますの。……まず、赤子を取り上げる前には、必ず石鹸で丹念に手をお洗いになってくださいませ。それから、ヘソの緒を切る鋏は、火で炙って清めていただくように」
「火で……清めるのですか?」
「ええ。それから、授乳の前には、一度沸かして冷ました清らかな湯で胸を綺麗に拭うこと。……そして、これは特に大切なことですけれど」

マリーは一段と声を強めた。

「生まれたての赤子には、決して蜂蜜を与えないでくださいまし。どんなに泣いても、です」
「蜂蜜を……? ですが殿下、蜂蜜は昔から赤子の精をつけるために用いられておりますが……」
「いいえ。生まれたばかりの小さな身体には、時に蜂蜜に潜む『見えぬ毒』を退ける力がございません。力を得るどころか、全身の気が抜けて息絶えてしまう事例があるのです」

半信半疑ながらも、修道女は深く頷いた。王太子妃自らの言葉であり、その語り口には疑いを差し挟ませぬ確かな響きがあったからだ。 修道女は言われた通り石鹸で丹念に手を洗い、鋏を火で清め、改めて夫人の傍らに座した。



陣痛の合間、マリーはふと、夫人の首筋から胸元にかけて広がる、不自然なほど抜けるような白さに目を留めた。

『……おい』

脳裏で、シャルルの声が珍しく緊張を帯びた。

『あの女の肌の色、よく見ろ』
(白粉……でしょうか。貴婦人は皆、使っていますわ)
『ただの白粉じゃねぇ。あれは鉛だ。鉛白って有害な化粧料だ。……もし子供が幼いうちから、母親が鉛白を肌に塗って抱いていたらどうなる』

マリーは、ハッと息を呑んだ。過去に衰弱して亡くなった幼子たちのことが脳裏をよぎる。 無事に出産が一段落した後、マリーは夫人の手をそっと取り、静かに、けれど真剣な面持ちで告げた。

「……夫人。差し出がましいことを申し上げますけれど、どうかお聞きくださいませ」
「殿下……?」
「お化粧に使われる白粉――殊に、鉛を含むものは、お子様が幼いうちはどうかお控えになって。肌に触れるだけでなく、抱き上げられるたびに、その毒が幼い御子の身体に移ってしまうのです」

夫人は驚いたように自らの手を見つめた。長年、貴婦人としての嗜みとして当たり前に用いてきた白粉。それが、我が子の命を脅かしていたかもしれないとは考えもしなかったのだろう。

「……存じませんでした。まさか、そのような……」
「どうか、これからはお控えくださいませ。この子を守るために」



長い陣痛の末、元気な産声が上がったのは夜も更けた頃だった。

「――男の子でございます!」

修道女の声に、部屋の空気がふっと緩んだ。マリーは清められた布に包まれた赤子を見つめながら、静かに胸を撫で下ろした。
その後もマリーは密かに人を遣わし、赤子とその母の様子を気にかけ続けた。案じていた衰弱の兆しは見られず、赤子はすくすくと乳を飲み、日ごとに血色を良くしていった。
そして迎えた洗礼の日。教会の鐘が澄んだ音色を響かせる中、健やかな泣き声を上げるその子の姿を、マリーは物陰からそっと見守っていた。

(……よかった)

胸の奥に、これまでにない温かな感情が広がっていく。政治的な駆け引きでも宮廷での勝ち負けでもない。ただ純粋に、一つの小さな命が救われたのだという実感だった。

(モン・コマンダン。……あの子、無事に育ちましたわ)
『……そうか』

短い返事だった。だが、そこにはいつもの皮肉も冷たさもなかった。

(ねぇ。……こうして一人ずつでも、救っていけるのでしょうか。何百万人もの、その先に)

マリーの問いに、シャルルはしばし沈黙した。

『……さぁな。だが』

低く静かな声が続いた。

『少なくとも、今日一人は救えた。……それは確かなことだ』

教会の鐘の音が冬の空に響き渡る。その音を聞きながら、マリーは確かな手応えを胸に刻んでいた。

③サン=シュルピス伯爵の救援
洗礼の儀を終えた数日後、マリーのもとにロシュフォール子爵夫人から密やかな伝言が届いた。

「殿下に、折り入ってご相談したきことがございます」

人払いをした一室で対面した夫人は、頬をこわばらせながら思い詰めた様子で切り出した。

「殿下が我が子の命を救ってくださったこと、感謝の言葉もございません。……ですが恐れながら、もう一つだけお力添えをいただきたく……私の兄、サン=シュルピス伯爵のことでございます」

夫人の声が微かに震えた。

「兄は先日、サン=ドマングの植民地から帰国いたしました。……ですが、船旅の最中から体調を崩し、今も床から起き上がれずにおります。歯茎から血が滲み、日を追うごとに衰弱が進み……船乗りたちの間では、長い航海の後によく罹る忌まわしい病だと聞き及んでおります」

マリーの脳裏で、シャルルの気配が動いた。

『……歯茎からの出血、長い航海の後の衰弱、か』
(モン・コマンダン。何かお心当たりが?)
『十中八九、壊血病だ。新鮮な野菜や果物を長い間口にできねぇと起こる。塩漬け肉と乾いたパンだけの航海が何ヶ月も続きゃ誰だってなる』
(治す方法はございますの?)
『ある。……呆れるほど単純な方法がな』



翌日、マリーはごく内密にサン=シュルピス伯爵邸を訪れた。 寝室 通されたマリーの目に映ったのは、痩せこけた頬、土気色の顔色。乾いた血の跡がこびりついた口元からは、腫れ上がった歯茎が覗いている男の姿だった。剥き出しの二の腕には、まるで殴られたかのような紫色の斑が点々と浮かんでいた。伯爵は身じろぎ一つするだけで、関節の痛みに顔を歪めた。

「殿下……このようなお見苦しい姿を……」
「どうかそのままで結構ですわ、伯爵」

マリーはベッドの傍らに歩み寄り、伯爵の様子をつぶさに見つめた。歯茎からの出血、関節の腫れ、皮膚の斑点。脳裏でシャルルの声が確信を強める。

『間違いねぇ。壊血病だ』
「伯爵。失礼ながらお伺いいたします。船でのお食事は、干し肉と堅焼きパンばかりで、新鮮な果物などは口にできませんでしたか?」
「は……? ええ、まったく……」
「伯爵。今日から、レモンやオレンジの搾り汁を、毎日欠かさず召し上がりなさいませ」
「柑橘の……搾り汁、ですか……?」

伯爵は力ない声で問い返した。医師でさえ匙を投げた病が、そんなことで治るとは信じ難い様子だった。傍らの伯爵夫人も遠慮がちに問う。

「殿下……それだけで、本当に……?」

マリーは揺るぎのない声で答えた。

「異国の古い医書に基づく、確かな治療法ですの。どうか騙されたと思ってお試しになってくださいませ」

王太子妃自らが足を運び、これほどの確信を持って告げるのだ。無下にはできない。伯爵夫人は深く頭を垂れた。



その日から、伯爵は毎日柑橘の汁を口にした。二日目、あれほど止まらなかった歯茎からの出血が、静かに引いていった。一週間が過ぎる頃には、青白かった頬にほんのりと赤みが差し、粥を匙で口に運べるまでになっていた。そして二週間後――伯爵は、自らの足で寝室の窓辺まで歩き、久方ぶりの陽光に目を細めていた。

「……信じられん。たかが果実で、これほどの病が治るとは……」

鏡に映る己の姿に、伯爵は呆然と呟いた。 伯爵はすぐに妹夫婦のもとを訪れ、深々と頭を下げた。

「……マリー殿下は、まさに神が遣わされたお方だ。私の命は、殿下に救われたも同然だ」

ロシュフォール子爵もまた、我が子に続いて義兄の命までも救われた事実に、深い感謝を抱いていた。

「私はこれより先、生涯を懸けて王太子妃殿下にお仕えする所存です」
「私もだ。サン=シュルピス家もまた、殿下の忠実な味方となりましょう」



その夜、報告を受けたシャルルが脳裏で小さく笑った。

『……上出来だ。子爵家に伯爵家。二つの家が一度に転がり込んできたな』
(モン・コマンダン。……こんな風に、人の弱みにつけ込むような真似、心が痛んだりしませんの?)
『弱みにつけ込んでるわけじゃねぇ。本当に困ってる奴を助けてやった結果、味方になった。それの何が悪い』
「……そうですわね」

マリーは自室の窓辺で、月を見上げながら思わず声を漏らして微笑んだ。

『おい、声に出すなと言ったろうが』
(あ、ふふ……À vos ordres! モン・コマンダン)

打算と善意――その両方が手を取り合ってこそ、本当に人を救う大きな力になる。マリーはそれを、身をもって理解し始めていた。
ロシュフォール子爵家、そしてサン=シュルピス伯爵家。 ヴェルサイユの宮廷において、王太子妃マリー・アントワネットを陰から支える「最初の確かな陣営」が、ここに誕生したのだった。