ごきげんよう、私の可憐なお嬢様

 週末のショッピング街での、あの「ナンパ男撃退事件」から数日。
有栖川紬葵こと伍の脳裏には、自分を背中に庇ってくれた西園寺麗華(本名:奏汰)の、あの凛々しすぎる背中が焼き付いて離れずにいた。

(ダメだ、朝から西園寺さんのことばかり考えてる……。俺は男だし、あっちはお嬢様なんだから、
こんなにドキドキするのは絶対におかしい……!)

 高等部1年A組の教室。伍は自分の机に突っ伏し、ウィッグの毛先をいじりながら裏声でハァ、とため息を吐いた。
隣の席では、麗華がいつも通り優雅に教科書をめくっている。先日の朝風呂での秘密(※伍の勘違い)の共有、そして週末のデートを経て、2人の空気は明らかに特別なものに変わっていた。

キーンコーンカーンコーン。

 放課後を告げるチャイムが鳴り、生徒たちが次々と教室を後にする。
伍と麗華が残って日直の黒板消しをしていると、突然、ガラッと教室のドアが開いた。
入ってきたのは、あの最高権力者である3年生の生徒会長、皇院長だった。

「お二方、ちょうど良かったわ。高等部の温室にある『白百合の鉢植え』を、明日の式典のために講堂へ運んでおいていただけますかしら?」
「ええ、喜んで、院長様」
麗華が上品に微笑んで引き受ける。

(温室の鉢植え……? けっこう重そうだな。よし、ここは男の俺が頑張って、西園寺さんにいいところを見せるチャンスだ!)
伍は密かに意気込み、麗華と共に夕暮れの温室へと向かった。

 ガラス張りの温室には、白い大理石の台の上に、見事な白百合の大きな素焼きの鉢植えが並んでいた。
「西園寺さん、わたくしがこちらを持ちますわ!」
伍は裏声を張り上げ、重い鉢植えを「お嬢様らしく」非力そうに演じながら、しかし男の筋力でフンッと持ち上げた。

だが、慣れないロングスカートの裾を自分の足で踏んでしまった。

「あ、きゃっ――!?」
バランスを崩し、伍の身体がぐらりと傾く。手から離れた重い素焼きの鉢植えが、伍の足元に向かって真っ直ぐに落ちていく――。

「危ないっ!!」

ガシャーーーン!!!

 激しい破壊音と共に、土と割れた破片が飛び散った。
伍が恐怖に目を瞑った瞬間、衝撃は来なかった。代わりに、強い力で身体をフワリと抱きすくめられ、そのまま大理石の床へと押し倒されていた。

「――っ、てて……。大丈夫、か……?」

 耳元で、先日のナンパ男を威嚇した時よりも、さらに明確に低い、完全な『少年の生の声(地声)』が響いた。

 伍が恐る恐る目をあけると、自分の真上に、覆い被さるようにして麗華の顔があった。
麗華は伍を破片から守るために、完全に覆い被さって抱きしめていたのだ。

(読者解説:麗華こと奏汰は、大切な『紬葵ちゃん』の危機に、お嬢様の演技を完全に忘れて男の地声で叫んでしまったのである)

「西、園寺……様?」
 伍は、あまりの至近距離と、麗華の口から出た「男の声」に頭が真っ白になった。

 しかし、麗華はすぐに自分の大失態に気づき、顔を真っ近にして、慌ててソプラノのお嬢様ボイスに戻した。

「あ、あの! ご、ごめんなさい、紬葵……じゃなくて、有栖川様! びっくりして、喉が、その、変な音に……!
お怪我はありませんか、有栖川様!?」

 麗華は必死に誤魔化そうと、顔を真っ赤にしておろおろしている。

だが、伍の脳内フィルターは、すでに限界を突破した超解釈を弾き出していた。

(い、今……西園寺さん、俺のことを『紬葵』って呼んだ……!?)

 男の声への違和感は、「驚いたお嬢様の喉の鳴り」として完全にスルーされた。
それよりも、いつも「有栖川様」と苗字で呼んでくる憧れの麗華が、プライベートな愛称である『紬葵』と呼びかけようとしてくれた事実に、伍の心臓は爆発寸前だった。

(西園寺さん、あんなに必死に俺を守ってくれて……。それに、本当はもっと親しくなりたくて、名前で呼びたかったんだ……!)

 伍は床に倒れたまま、顔を耳まで真っ赤に染め、意を決して裏声を震わせた。

「あの……西園寺様。もう、『有栖川様』なんて、他人行儀な呼び方はお止めになって?」

「え……?」

麗華が目を丸くする。

「わたくしたち、もうお互いの秘密(朝風呂の一件)も知っていて、デート(?)にも行った、特別なお友達ですもの。
……これからは、わたくしのこと、『紬葵』って呼んでくださいな。……麗華様」

 恥ずかしさに耐えかねて、最後は蚊の鳴くような裏声になったが、伍はまっすぐに麗華の瞳を見つめた。

そ の言葉を聞いた麗華(奏汰)の胸の中にも、猛烈な愛おしさがこみ上げていた。
(あぁ……なんて可愛いんだろう。有栖川様……いや、紬葵ちゃん。僕を信頼して、名前で呼んでくれたんだ。
僕が男だってバレたら終わりだけど、この子の特別な存在に、もっと近づきたい……!)

 麗華は床から伍を優しく起こすと、その引き締まった(と伍が思っている)手で、伍の制服についた土を丁寧に払った。
そして、夕暮れの光の中で、世界で一番優しい微笑みを浮かべた。

「……ええ、わかりましたわ、紬葵。これからは私のことも、どうか苗字ではなく、『麗華』と呼んでね?」

「……はい、麗華」

 お互いの名前を呼び合った瞬間、温室の中に、なんとも言えない甘酸っぱくて気恥ずかしい空気が満ちていく。

(うわあああ、名前で呼んじゃった! 『麗華』って呼んじゃったよ……!
だだの(←失礼)女の子の名前なのに、なんでこんなに男としてドキドキしてんだよ俺……!!)

(あぁ、紬葵って呼べた……。可愛いなぁ。これから3年間、何が何でも完璧な『麗華』として、この子を隣で守り続けなきゃ……!)

 お互いの本当の本名(伍と奏汰)が明かされるのは、まだまだ先の話。
しかし、お嬢様としての偽名のまま名前を呼び合った2人の距離は、この日、決定的に縮まったのだった。