格式高い『白百合サロン』でのお茶会をなんとか乗り切り、時計の針が深夜11時を回った頃。
2人きりの寄宿舎204号室は、昼間の緊張感が嘘のように静まり返っていた。
しかし、有栖川紬葵の戦いは、夜になっても終わらない。
(あ、頭が……痒すぎる……っ!!)
ベッドの上で、伍は身悶えしていた。
朝から丸一日、完璧なお嬢様のロングヘア(最高級ウィッグ)を頭皮に密着させていたのだ。
蒸れるし、締め付けられるし、限界だった。一刻も早くこの偽物の髪をむしり取り、自前の短い黒髪を開放してやりたい。
だが、部屋の向かいのベッドでは、西園寺麗華が優雅に洋書を読んでいる。
お嬢様らしい、淡いピンク色のシルクのパジャマに身を包んだ彼女は、風呂上がりで髪が少し湿っており、そこはかとない色気を放っていた。
(西園寺さんが寝るまでは、絶対にウィッグは外せない……! 女子が目の前でハゲる(ウィッグを脱ぐ)
瞬間なんて見せたら、ショックで気絶されちまう!)
伍は必死に痒みを堪え、裏声で
「お先におやすみなさい、麗華様」
と告げ、布団を頭まですっぽりと被った。
しばらくして、部屋の明かりが消され、完全な暗闇が訪れた。
向かいのベッドから、麗華の規則正しい、静かな寝息が聞こえ始める。
(……よし、寝たな!)
伍は慎重に、布団の中でゴソゴソと動き出した。
頭のピンを一本ずつ外し、ついにウィッグをスポンと脱ぎ捨てる。
「ぷはぁっ……!」
思わず地声で小さな吐息が漏れた。
ウィッグネットも外し、短髪に夜の冷気が触れた瞬間、脳が溶けるほどの解放感が伍を襲う。
(生き返った……。マジで頭皮が死ぬところだった……)
汗ばんだ髪を手ぐしでガシガシと掻き揚げ、ようやく訪れた男の時間に安堵する。
しかし、その時だった。ぐぅぅぅ、と、静かな部屋にあまりにも情けない、大きな音が響き渡った。
(あ……。そういえば、昼のお茶会、緊張しすぎてスコーン一切れしか食ってねえ……)
極限の緊張から解放された途端、猛烈な空腹が襲ってきた。
伍はトランクの奥底に隠しておいた、潜入前の唯一の癒やしである
「コンビニの辛口ポテトチップス」
を思い出した。
お嬢様学校の寮でスナック菓子を食べるなど言語道断だが、背に腹は代えられない。
伍は枕元にウィッグをいつでも被れるようにセッティングし、暗闇の中で音を立てないようにトランクからポテトチップスを取り出した。
ベッドの上に座り、袋の端を慎重に、ミリ単位で裂いていく。
ザザ……。
(よし、音は最小限だ。これなら――)
「……有栖川様? 何をしておいでですの?」
「ひゃうっ!?」
突然、暗闇の中で麗華の声がした。
伍は飛び上がり、心臓が口から飛び出るかと思った。
咄嗟に枕元のウィッグを掴んで頭に乗せたが、前後も位置もめちゃくちゃで、ただの生首のようになっていた。
カチリ、と麗華の枕元のサイドランプが灯る。
オレンジ色の柔らかな光の中に浮かび上がった麗華は、驚いたように目を丸くしていた。
その視線は、伍の手元にある、清泉学園にはおよそ似つかわしくない真っ赤な激辛ポテトチップスの袋に注がれている。
「あ、あの……西園寺様、これは、その……!」
伍は終わった、と思った。夜中に、こんなガサツで庶民的なスナック菓子を食べようとしていたことがバレた。
上品な西園寺麗華に、軽蔑されて嫌われるに違いない。
しかし、麗華はふっと表情を緩めると、ベッドから下りて伍の元へと歩いてきた。
そして、伍のベッドの端にちょこんと腰掛け、袋の中を覗き込んだ。
「まぁ……ずいぶんと、刺激的なお夜食ですのね。……実は私、そういうお菓子、一度食べてみたかったですの」
「え……?」
麗華はクスクスと笑うと、お嬢様らしからぬ動作で、伍の袋からポテトチップスを一枚つまみ、小さな口に運んだ。
ザクッ、と小気味いい音が響く。
「……っ!? から……っ、でも、美味しいですわ!」
麗華はハフハフと口を動かしながら、少し涙目になって微笑んだ。
その姿は、いつも完璧な「西園寺麗華」ではなく、年相応の、どこか悪戯っぽい一人の少女のようで、伍はドクンと胸が鳴るのを感じた。
「ふふ、有栖川様と秘密を共有してしまいましたわね。院長様に見つかったら、大変なことですわ」
麗華は悪戯っぽく笑いながら、今度は伍のベッドの上に寝転がり、
長い足を少し崩して、また一枚お菓子を口に運んだ。
パジャマの胸元が少しだけ緩み、お嬢様にしてはすっきりと引き締まった鎖骨が見える。
(ち、近い……。っていうか、女子のパジャマ姿ってこんなに破壊力あんのかよ……!)
伍は顔が爆発しそうなほど赤くなり、必死でお菓子を口に詰め込んで誤魔化そうとした。
「ええ、西園寺様……。2人だけの、秘密、ですわね……」
裏声でそう答える伍の頭の上では、急いで被ったウィッグが完全に左右非対称にズレていたが、麗華は
「ふふ、有栖川様ったら、お寝癖がついていて可愛らしいわ」
と、優しく微笑んでそのズレた髪を直してくれた。
その優しく触れる大きな手のひらの温かさに、伍はポテトチップスの辛さとは全く違う熱で、胸がいっぱいになっていくのだった。
2人きりの寄宿舎204号室は、昼間の緊張感が嘘のように静まり返っていた。
しかし、有栖川紬葵の戦いは、夜になっても終わらない。
(あ、頭が……痒すぎる……っ!!)
ベッドの上で、伍は身悶えしていた。
朝から丸一日、完璧なお嬢様のロングヘア(最高級ウィッグ)を頭皮に密着させていたのだ。
蒸れるし、締め付けられるし、限界だった。一刻も早くこの偽物の髪をむしり取り、自前の短い黒髪を開放してやりたい。
だが、部屋の向かいのベッドでは、西園寺麗華が優雅に洋書を読んでいる。
お嬢様らしい、淡いピンク色のシルクのパジャマに身を包んだ彼女は、風呂上がりで髪が少し湿っており、そこはかとない色気を放っていた。
(西園寺さんが寝るまでは、絶対にウィッグは外せない……! 女子が目の前でハゲる(ウィッグを脱ぐ)
瞬間なんて見せたら、ショックで気絶されちまう!)
伍は必死に痒みを堪え、裏声で
「お先におやすみなさい、麗華様」
と告げ、布団を頭まですっぽりと被った。
しばらくして、部屋の明かりが消され、完全な暗闇が訪れた。
向かいのベッドから、麗華の規則正しい、静かな寝息が聞こえ始める。
(……よし、寝たな!)
伍は慎重に、布団の中でゴソゴソと動き出した。
頭のピンを一本ずつ外し、ついにウィッグをスポンと脱ぎ捨てる。
「ぷはぁっ……!」
思わず地声で小さな吐息が漏れた。
ウィッグネットも外し、短髪に夜の冷気が触れた瞬間、脳が溶けるほどの解放感が伍を襲う。
(生き返った……。マジで頭皮が死ぬところだった……)
汗ばんだ髪を手ぐしでガシガシと掻き揚げ、ようやく訪れた男の時間に安堵する。
しかし、その時だった。ぐぅぅぅ、と、静かな部屋にあまりにも情けない、大きな音が響き渡った。
(あ……。そういえば、昼のお茶会、緊張しすぎてスコーン一切れしか食ってねえ……)
極限の緊張から解放された途端、猛烈な空腹が襲ってきた。
伍はトランクの奥底に隠しておいた、潜入前の唯一の癒やしである
「コンビニの辛口ポテトチップス」
を思い出した。
お嬢様学校の寮でスナック菓子を食べるなど言語道断だが、背に腹は代えられない。
伍は枕元にウィッグをいつでも被れるようにセッティングし、暗闇の中で音を立てないようにトランクからポテトチップスを取り出した。
ベッドの上に座り、袋の端を慎重に、ミリ単位で裂いていく。
ザザ……。
(よし、音は最小限だ。これなら――)
「……有栖川様? 何をしておいでですの?」
「ひゃうっ!?」
突然、暗闇の中で麗華の声がした。
伍は飛び上がり、心臓が口から飛び出るかと思った。
咄嗟に枕元のウィッグを掴んで頭に乗せたが、前後も位置もめちゃくちゃで、ただの生首のようになっていた。
カチリ、と麗華の枕元のサイドランプが灯る。
オレンジ色の柔らかな光の中に浮かび上がった麗華は、驚いたように目を丸くしていた。
その視線は、伍の手元にある、清泉学園にはおよそ似つかわしくない真っ赤な激辛ポテトチップスの袋に注がれている。
「あ、あの……西園寺様、これは、その……!」
伍は終わった、と思った。夜中に、こんなガサツで庶民的なスナック菓子を食べようとしていたことがバレた。
上品な西園寺麗華に、軽蔑されて嫌われるに違いない。
しかし、麗華はふっと表情を緩めると、ベッドから下りて伍の元へと歩いてきた。
そして、伍のベッドの端にちょこんと腰掛け、袋の中を覗き込んだ。
「まぁ……ずいぶんと、刺激的なお夜食ですのね。……実は私、そういうお菓子、一度食べてみたかったですの」
「え……?」
麗華はクスクスと笑うと、お嬢様らしからぬ動作で、伍の袋からポテトチップスを一枚つまみ、小さな口に運んだ。
ザクッ、と小気味いい音が響く。
「……っ!? から……っ、でも、美味しいですわ!」
麗華はハフハフと口を動かしながら、少し涙目になって微笑んだ。
その姿は、いつも完璧な「西園寺麗華」ではなく、年相応の、どこか悪戯っぽい一人の少女のようで、伍はドクンと胸が鳴るのを感じた。
「ふふ、有栖川様と秘密を共有してしまいましたわね。院長様に見つかったら、大変なことですわ」
麗華は悪戯っぽく笑いながら、今度は伍のベッドの上に寝転がり、
長い足を少し崩して、また一枚お菓子を口に運んだ。
パジャマの胸元が少しだけ緩み、お嬢様にしてはすっきりと引き締まった鎖骨が見える。
(ち、近い……。っていうか、女子のパジャマ姿ってこんなに破壊力あんのかよ……!)
伍は顔が爆発しそうなほど赤くなり、必死でお菓子を口に詰め込んで誤魔化そうとした。
「ええ、西園寺様……。2人だけの、秘密、ですわね……」
裏声でそう答える伍の頭の上では、急いで被ったウィッグが完全に左右非対称にズレていたが、麗華は
「ふふ、有栖川様ったら、お寝癖がついていて可愛らしいわ」
と、優しく微笑んでそのズレた髪を直してくれた。
その優しく触れる大きな手のひらの温かさに、伍はポテトチップスの辛さとは全く違う熱で、胸がいっぱいになっていくのだった。

