ごきげんよう、私の可憐なお嬢様

「有栖川様、西園寺様。お二方とも、ラッシュガードを着用したままでは泳ぎにくくてよ? 早く水に入りなさいな」

 体育の教師に急かされ、伍(紬葵)と奏汰(麗華)は覚悟を決めてプールへ入った。
冷たい水がスクール水着をぴたりと肌に吸い付かせ、男の体幹や筋肉のラインを容シャーなく強調してくる。

(やべえ、早く水中に体を隠さないと、男の骨格だって一発でバレる……!)

 伍は慌てて肩まで水に浸かった。周囲では、お嬢様たちが
「冷たくて気持ちいいですわね」
「紬葵様、ご一緒にお泳ぎになりません?」
と、無邪気に鳥のさえずりのような声を上げている。

伍は「ええ、喜んで……!」とソプラノの裏声を必死に響かせ、話を合わせていた。
だが、ここで最悪のアクシデントが発生する。隣のコースの上級生が、豪快なバタ足で水飛沫をあげた。
その激しい水流が、伍の頭部を直撃したのだ。

(――ッ!? しまった、ピンが……!)

 プチッ、と頭皮の近くで不穏な手応えがした。
猛特訓の成果である最高級ウィッグを固定していたヘアピンが、水の水圧と衝撃で数本外れてしまったのだ。

自前の短い黒髪が、ウィッグの隙間から今にも水面に浮き上がろうとしている。

(終わった。ここでウィッグが外れたら、俺の生首がプールに浮いて、男だってバレて、人生が完全に終了する……!)

 伍は恐怖で全身の血の気が引き、水中で身動きが取れなくなった。
頭を抑えようにも、そんな不自然な動きをすれば周囲の令嬢たちに怪しまれる。
その絶望の瞬間、力強い一対の手が、伍の細い腰を水面下でガシッと掴んだ。

「――っ、伍! 息を止めて!」

 至近距離で響いたのは、紛れもない奏汰(麗華)の、低く頼もしい少年の地声だった。

「ひゃうっ――」

 伍が裏声で驚く暇もなく、奏汰は伍の身体を、プールの中へと力任せに引きずり込んだ。
ゴボゴボ、と泡が弾け、2人の身体はきらめく水底へと沈んでいく。
水の中は、完全に2人だけの遮断された世界だった。

 揺らめく光の中、奏汰は伍を自分の胸板へと強く抱き寄せた。
水着と水着がぴったりと密着し、お互いの男の体温が、冷たい水の中でも驚くほど熱く伝わってくる。

(か……奏汰……っ!?)

 伍が水中で目を丸くする中、奏汰は冷静な『男の目』のまま、空いた手で伍の頭部へと触れた。
水の抵抗で浮き上がりかけていたウィッグを器用に抑え込み、外れたピンを一本ずつ、驚異的な手際の良さで伍の頭皮へと刺し直していく。

 衣服の浮力も手伝って、伍の身体が自然と奏汰に覆い被さるような体勢になる。
間近で見つめ合う、奏汰の凛々しい顔。

 男だと分かっているのに、水中で濡れた彼の長い睫毛や、自分を必死に守ろうとしてくれる強い腕の力に、伍の胸は苦しさ
(※酸素不足ではない)で爆発しそうだった。

(ダメだ……心臓の音が、水を通じてあいつに聞こえちまう……!)

 ピンを全て留め終えた奏汰は、伍の腰を抱いたまま、ふっと悪戯っぽく目を細めた。
そして、水中で声が出せない代わりに、伍の額へと優しく、愛おしそうに自分の額を小突いた。

 その動作が、お嬢様ではなく完全に「大好きな年下の恋人をからかう少年」そのもので、伍は水中で顔を真っ赤に染めた。

ぷはっ……!

 2人は同時に水面へと顔を出した。伍はウィッグの位置が完璧に戻っていることに安堵し、激しく息を吐き出す。

「まぁ! 西園寺様、有栖川様をいきなり水の中に引っ張るなんて、ずいぶんと情熱的ですのね!」

 周りのお嬢様たちが、顔を赤らめてクスクスと笑い声を上げた。

「ふふ、ごめんなさいね。紬葵の水着姿があまりにも可愛らしくて、つい独り占めしたくなってしまいましたの」

 奏汰はすぐに鈴を転がすようなソプラノの裏声に戻り、完璧なお嬢様の微笑みで周囲を煙に巻いた。

「なっ……な、何を仰いますの、麗華……!」

 伍も慌ててお嬢様を演じたが、顔の赤さだけは誤魔化せなかった。
一方、その様子をプールサイドから双眼鏡で覗き込んでいた生徒会長・凛々様は、すでに限界を迎えていた。

「(……ああああ! 水中でのあの密着、お互いの四肢が絡み合うあのシルエット……! 周りのお嬢様たちは『情熱的な百合』だと思っていますけれど、私のレーダーは騙されませんわ! あれは完全に、受け(?)のピンチを咄嗟の機転で救う、独占欲塗れの攻め(?)のムーブですわよ……ッ!!注射器、誰か早く私に注射器を……公式の栄養過多で死んでしまいますわ……ッ!!)」

 炎天下のプールサイドで、1人だけ尊さのあまり熱中症寸前になっている凛々様。

 お互いの正体(男)を知ったからこそ、水の中でのスリルと甘さは前章の比ではない。
伍は、自分のスカートの下のボクサーパンツが完全に濡れて重くなっているのを感じながら、隣で澄ました顔をして泳ぐ奏汰への恋心が、もう誰にも止められないところまで深く沈んでいくのを自覚するのだった。