あの夜の旧校舎、狭い掃除用具ロッカーの暗闇で起きた『事件』から、伍の頭は完全に狂いかけていた。
(あの時の西園寺さん、絶対に声が低かった……。それにあの力強い腕、獲物を狙うような熱い目……。
いやいや、お嬢様が驚いて喉が変に鳴っただけだろ! 俺は何を女子相手に男を感じてんだよ!)
自分が男であることも忘れ、伍は猛烈な自己嫌悪と、脳裏に焼き付いて離れない麗華の顔に悶々としていた。
そんな奇妙な緊張感を孕んだまま迎えた、定期試験の最終日。
最後のチャイムが鳴り響き、ようやく地獄の試験から解放された瞬間、窓の外はバケツをひっくり返したような大雨に見舞われていた。
「あちゃあ……。嘘だろ、傘持ってきてねえよ……」
校舎の昇降口で、伍は裏声を忘れて思わず小さな地声を漏らした。周りのお嬢様たちは、優雅にマイ傘を広げて次々と雨の中へ消えていく。寄宿舎までは歩いて10分ほどだが、この豪雨の中を走れば、自慢の最高級ウィッグが濡れて剥がれるか、シリコンパッドが水分を吸って大変なことになるのは目に見えていた。
「――紬葵? 傘をお忘れになりましたの?」
背後から、心臓に悪いほど大好きな声がした。振り返ると、そこには清泉学園の制服を完璧に着こなした西園寺麗華が、大きな紺色の傘を抱えて立っていた。
「麗、華……。ええ、うっかりしてしまって。どうしようかしら……」
紬葵が恥ずかしそうに(実際はパッドの死守のために)身を縮めると、麗華はフッと世界で一番優しい微笑みを浮かべ、傘のホックを外した。
「では、私の傘に入っていらして? 寄宿舎まで、ご一緒しましょう」
「えっ……!? で、ですが、麗華に迷惑が……」
「仲間外れにするなんて、悲しいわ。さあ、早く」
麗華はクスクスと上品に笑うと、伍の腕を優しく引いて、一本の傘の下へと招き入れた。
バササッ、と雨粒が傘の布地を叩く重い音が周囲を包み込む。その瞬間、周囲の景色が遮断され、直径わずか1メートルの「2人きりの密室」が完成した。
(つ、ついに相合い傘をやっちまった……っ!!)
伍の心臓は、大雨の音に負けないほどの爆音を奏で始めた。一本の傘に女子校の制服を着た2人が入るのだ。
当然、お互いの肩と肩が、歩くたびにぴったりと擦れ合う。先日ロッカーの中で感じた、麗華のあの引き締まった身体の熱が、衣服越しに再びダイレクトに伝わってきた。
「あ、ありがとう、麗華……」
麗華は伍を雨から守るため、自分の左肩が完全に雨に濡れるのも構わず、傘を大きく伍のほうへ傾けていた。
それだけじゃない。伍の華奢な(と麗華が思っている)肩を、濡らさないようにと、右腕でぐっと強く自分の方へ抱き寄せてきたのだ。
(ひえっ……! 抱き寄せられた……!)
伍は顔が沸騰しそうなほど赤くなった。麗華の長い黒髪から、雨の匂いに混じって、あの夜と同じ甘いシャンプーの香りが漂ってくる。
一方、麗華こと奏汰の脳内でも、先日の旧校舎での大猛省をひっくり返すほどの、不純なオトコの本能が暴れ回っていた。
(あぁ……ダメだ、僕は何を学習してないんだ……。紬葵ちゃんがこんなに近くにいる。
僕の腕の中に、すっぽりと収まって歩いてる……!)
奏汰は、自分の完璧なお嬢様スマイルの裏で、傘を持つ右手に思い切り力を込めていた。
先日のロッカーでは、理性が完全に決壊しかけて地声まで出してしまった。二度とそんな失態は許されない。
自分は完璧な『西園寺麗華』として、可愛い紬葵ちゃんをただ優しく守るお友達でいなければならないのだ。
(でも、雨の音のせいで、周りの声が何も聞こえない……。この傘の中だけが、僕たちの世界みたいだ。
こんなの、男として意識しないでいられるわけがないだろ……っ!)
お互いが「相手を最高に可愛い女の子」と誤解し、自分の中の「男としての理性」と死に物狂いで戦っている、雨の中の極限状態。
ハプニングは、寄宿舎のすぐ手前、水溜まりを避けようとした伍の足元が、濡れたアスファルトでつるりと滑った時に起きた。
「あ、きゃっ――!?」
「紬葵っ!!」
麗華は、持っていた傘を放り出す一歩手前の勢いで、伍の身体を両手でガシッと強く抱きすくめた。
路地裏の木陰、激しい雨のカーテンに遮られた空間で、2人の身体が完全に「ゼロ距離」で密着する。
アスファルトに弾ける激しい雨音が、2人の世界を包み込む。ドレスコードもマナーも関係ない。
ただ、お互いの激しい呼吸と、暴れるような心臓の鼓動だけが、重なり合って響いていた。
「……紬葵。無茶をしては、いけませんわ」
伍の耳元で囁かれた麗華(奏汰)の声は、大雨の音を突き抜けるほどに、低く、熱く、掠れていた。
それはお嬢様のソプラノなどでは到底ない。完全に、愛しい女を前にした『一人の少年の生の声』だった。
(あ……また、この声だ……)
伍は、腰に回された麗華の手の圧倒的な力強さと、至近距離で見つめてくる麗華の「男の目」に、完全に身体の自由を奪われていた。女の子に抱きしめられているはずなのに、どうしてこんなに頭がクラクラして、男としてのプライドが全部溶けてしまいそうになるのか。
麗華の濡れた長い睫毛が、ゆっくりと近づいてくる。雨の音に紛れて、今度こそお互いの唇が触れ合う――その瞬間。
「あら? そこのお二方、そんな雨の中で何をしておいでですの?」
低く冷たい、だが圧倒的に上品な声が、雨を切り裂いて響いた。
ハッと我に返って2人が飛び退くと、そこには相合い傘をして寄宿舎へ戻る途中の、あの生徒会長・皇院長が立っていた。
「あ、ご、ごきげんよう、院長様……! その、紬葵様が足を滑らせてしまって……!」
麗華(奏汰)は顔を真っ赤にして、慌ててソプラノのお嬢様ボイスに戻して頭を下げた。
「そう……。風邪をひいては大変ですわ。早く部屋に戻ってお着替えなさい」
「は、はい……! 失礼いたしますわ!」
2人はお互いの顔を見ることもできず、ただ真っ赤な顔のまま、逃げるように寄宿舎へと駆け込んだ。
自分の部屋に戻り、それぞれのベッドに倒れ込んだ2人。
窓を叩く激しい雨音を聞きながら、伍は自分の高鳴る胸を両手で押さえ、掛け布団を頭まで被った。
(絶対に、何かがおかしい……。西園寺さんは女の子なのに……俺、本気で、西園寺さんに男として惚れちまってるんじゃねえのか……!?)※男です
完璧なお嬢様・西園寺麗華への「すれ違いの恋」が、もう引き返せない臨界点を突破したことに、伍はまだ、気づく由もなかった。
(あの時の西園寺さん、絶対に声が低かった……。それにあの力強い腕、獲物を狙うような熱い目……。
いやいや、お嬢様が驚いて喉が変に鳴っただけだろ! 俺は何を女子相手に男を感じてんだよ!)
自分が男であることも忘れ、伍は猛烈な自己嫌悪と、脳裏に焼き付いて離れない麗華の顔に悶々としていた。
そんな奇妙な緊張感を孕んだまま迎えた、定期試験の最終日。
最後のチャイムが鳴り響き、ようやく地獄の試験から解放された瞬間、窓の外はバケツをひっくり返したような大雨に見舞われていた。
「あちゃあ……。嘘だろ、傘持ってきてねえよ……」
校舎の昇降口で、伍は裏声を忘れて思わず小さな地声を漏らした。周りのお嬢様たちは、優雅にマイ傘を広げて次々と雨の中へ消えていく。寄宿舎までは歩いて10分ほどだが、この豪雨の中を走れば、自慢の最高級ウィッグが濡れて剥がれるか、シリコンパッドが水分を吸って大変なことになるのは目に見えていた。
「――紬葵? 傘をお忘れになりましたの?」
背後から、心臓に悪いほど大好きな声がした。振り返ると、そこには清泉学園の制服を完璧に着こなした西園寺麗華が、大きな紺色の傘を抱えて立っていた。
「麗、華……。ええ、うっかりしてしまって。どうしようかしら……」
紬葵が恥ずかしそうに(実際はパッドの死守のために)身を縮めると、麗華はフッと世界で一番優しい微笑みを浮かべ、傘のホックを外した。
「では、私の傘に入っていらして? 寄宿舎まで、ご一緒しましょう」
「えっ……!? で、ですが、麗華に迷惑が……」
「仲間外れにするなんて、悲しいわ。さあ、早く」
麗華はクスクスと上品に笑うと、伍の腕を優しく引いて、一本の傘の下へと招き入れた。
バササッ、と雨粒が傘の布地を叩く重い音が周囲を包み込む。その瞬間、周囲の景色が遮断され、直径わずか1メートルの「2人きりの密室」が完成した。
(つ、ついに相合い傘をやっちまった……っ!!)
伍の心臓は、大雨の音に負けないほどの爆音を奏で始めた。一本の傘に女子校の制服を着た2人が入るのだ。
当然、お互いの肩と肩が、歩くたびにぴったりと擦れ合う。先日ロッカーの中で感じた、麗華のあの引き締まった身体の熱が、衣服越しに再びダイレクトに伝わってきた。
「あ、ありがとう、麗華……」
麗華は伍を雨から守るため、自分の左肩が完全に雨に濡れるのも構わず、傘を大きく伍のほうへ傾けていた。
それだけじゃない。伍の華奢な(と麗華が思っている)肩を、濡らさないようにと、右腕でぐっと強く自分の方へ抱き寄せてきたのだ。
(ひえっ……! 抱き寄せられた……!)
伍は顔が沸騰しそうなほど赤くなった。麗華の長い黒髪から、雨の匂いに混じって、あの夜と同じ甘いシャンプーの香りが漂ってくる。
一方、麗華こと奏汰の脳内でも、先日の旧校舎での大猛省をひっくり返すほどの、不純なオトコの本能が暴れ回っていた。
(あぁ……ダメだ、僕は何を学習してないんだ……。紬葵ちゃんがこんなに近くにいる。
僕の腕の中に、すっぽりと収まって歩いてる……!)
奏汰は、自分の完璧なお嬢様スマイルの裏で、傘を持つ右手に思い切り力を込めていた。
先日のロッカーでは、理性が完全に決壊しかけて地声まで出してしまった。二度とそんな失態は許されない。
自分は完璧な『西園寺麗華』として、可愛い紬葵ちゃんをただ優しく守るお友達でいなければならないのだ。
(でも、雨の音のせいで、周りの声が何も聞こえない……。この傘の中だけが、僕たちの世界みたいだ。
こんなの、男として意識しないでいられるわけがないだろ……っ!)
お互いが「相手を最高に可愛い女の子」と誤解し、自分の中の「男としての理性」と死に物狂いで戦っている、雨の中の極限状態。
ハプニングは、寄宿舎のすぐ手前、水溜まりを避けようとした伍の足元が、濡れたアスファルトでつるりと滑った時に起きた。
「あ、きゃっ――!?」
「紬葵っ!!」
麗華は、持っていた傘を放り出す一歩手前の勢いで、伍の身体を両手でガシッと強く抱きすくめた。
路地裏の木陰、激しい雨のカーテンに遮られた空間で、2人の身体が完全に「ゼロ距離」で密着する。
アスファルトに弾ける激しい雨音が、2人の世界を包み込む。ドレスコードもマナーも関係ない。
ただ、お互いの激しい呼吸と、暴れるような心臓の鼓動だけが、重なり合って響いていた。
「……紬葵。無茶をしては、いけませんわ」
伍の耳元で囁かれた麗華(奏汰)の声は、大雨の音を突き抜けるほどに、低く、熱く、掠れていた。
それはお嬢様のソプラノなどでは到底ない。完全に、愛しい女を前にした『一人の少年の生の声』だった。
(あ……また、この声だ……)
伍は、腰に回された麗華の手の圧倒的な力強さと、至近距離で見つめてくる麗華の「男の目」に、完全に身体の自由を奪われていた。女の子に抱きしめられているはずなのに、どうしてこんなに頭がクラクラして、男としてのプライドが全部溶けてしまいそうになるのか。
麗華の濡れた長い睫毛が、ゆっくりと近づいてくる。雨の音に紛れて、今度こそお互いの唇が触れ合う――その瞬間。
「あら? そこのお二方、そんな雨の中で何をしておいでですの?」
低く冷たい、だが圧倒的に上品な声が、雨を切り裂いて響いた。
ハッと我に返って2人が飛び退くと、そこには相合い傘をして寄宿舎へ戻る途中の、あの生徒会長・皇院長が立っていた。
「あ、ご、ごきげんよう、院長様……! その、紬葵様が足を滑らせてしまって……!」
麗華(奏汰)は顔を真っ赤にして、慌ててソプラノのお嬢様ボイスに戻して頭を下げた。
「そう……。風邪をひいては大変ですわ。早く部屋に戻ってお着替えなさい」
「は、はい……! 失礼いたしますわ!」
2人はお互いの顔を見ることもできず、ただ真っ赤な顔のまま、逃げるように寄宿舎へと駆け込んだ。
自分の部屋に戻り、それぞれのベッドに倒れ込んだ2人。
窓を叩く激しい雨音を聞きながら、伍は自分の高鳴る胸を両手で押さえ、掛け布団を頭まで被った。
(絶対に、何かがおかしい……。西園寺さんは女の子なのに……俺、本気で、西園寺さんに男として惚れちまってるんじゃねえのか……!?)※男です
完璧なお嬢様・西園寺麗華への「すれ違いの恋」が、もう引き返せない臨界点を突破したことに、伍はまだ、気づく由もなかった。

