ごきげんよう、私の可憐なお嬢様

 定期試験の初日をなんとか終えた、その日の夜。寄宿舎204号室のベッドの上で、有栖川紬葵こと伍は、
真っ白な灰のようになって燃え尽きていた。

「終わった……。今日の手応え、まじで五分五分だわ……」

 地声の低い呟きと共に、枕に顔を埋める。だが、本当の絶望はこれからだった。
明日の試験科目は、伍が最も苦手とする数学。それなのに、あろうことか麗華と血の滲むような特訓を重ねた『秘伝のまとめノート』を、放課後の教室に忘れてきてしまったのだ。

(あのノートがないと、明日の赤点回避は100%不可能。……取りに行くしかない、夜の校舎へ!)

 清泉学園の旧校舎――現在は使われていないそこには、ある有名な怪談があった。
『真夜中に忍び込むと、乙女の幽霊に抱きつかれて呪われる』という、お嬢様学校らしいオカルトだ。

 伍は枕元にウィッグを急いでセットし、パジャマの上から薄手のカーディガンを羽織って、こっそり部屋を抜け出そうとした。

「……紬葵? こんな夜更けに、どちらへ行かれますの?」

 ベッドから起き上がった麗華が、大きな瞳をパチクリさせて呼び止めてきた。
月光に照らされた彼女のパジャマ姿は、相変わらず息を飲むほどに美しい。

「れ、麗華……! その、教室にノートを忘れてしまって。今から取りに行こうかと……」
「夜の旧校舎へ!? ダメですわ、あそこには不気味な噂がありますもの。……待っていらして、私もお供しますわ!」

 麗華はそう言うと、お嬢様にしては驚異的なスピードで上着を羽織り、伍の隣に並んだ。

(西園寺さん、俺のためにあんなに怖がってた怪談の場所に付いてきてくれるのか……。なんて優しい子なんだ……っ!)

 伍は胸を熱くしながら、2人で静まり返った夜の廊下へと踏み出した。

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 昼間の華やかさが嘘のように、夜の旧校舎は不気味な静寂に包まれていた。
軋む床板、窓の外で揺れる木の枝の影。ガラス張りの廊下に月光が差し込み、2人の影を長く伸ばしている。

「ひゃぅっ!?」
 小さな風の音に驚き、伍の肩がピクッと跳ね上がった。
女装中ゆえの「可愛い悲鳴」だが、実際、暗闇の恐怖は男の伍にとってもなかなかのものだった。
すると、すっと横から大きな手が伸びてきて、伍の冷たくなった手をギュッと握り締めた。

「大丈夫ですわ、紬葵。私がついていますもの」

 繋がれた麗華の手は、いつも通り少し大きくて、驚くほど力強かった。朝風呂の秘密を知っている伍は、
(麗華、やっぱり手がガッチリしてるな。筋トレに励んでるから、手までこんなに頼もしいんだ……)
と、またしても愛おしさに胸を締め付けられた。

 お互いに手を繋いだまま、なんとか1年A組の教室へとたどり着き、目的のノートを回収する。
「良かった、ありましたわ……! 麗華、戻りまし――」

カタタタタンッ!!!

 突然、誰もいないはずの廊下から、激しい足音が響いてきた。
それはまるで、何かがこちらに向かって猛スピードで走ってくるかのような異音だった。

「――っ!? 幽霊……!?」

 伍が恐怖で完全に凍りついた、その瞬間。

 「紬葵、こっちですわ!!」
 麗華が伍の腕を強引に引っ張り、教壇の横にある大きな掃除用具入れの木製ロッカーへと滑り込んだ。
バタン、と扉が閉まり、再び完全な暗闇が2人を包み込む。

  直後、ロッカーのすぐ外を、ドタドタと荒々しい足音が通り過ぎていった。
(解説:もちろん幽霊ではなく、夜間の見回り中だった警備員の足音である)

 しかし、ロッカーの中の2人には、それを確認する余裕など1ミリもなかった。

 畳半畳ほどの、先日の物置よりもさらに狭い密室。
2人の身体は、胸と胸が完全にぴったりと合わさる形で、これ以上ないほど強烈に密着していた。

(う、うわあああああああああああああっ……!!!!!)

 伍の脳内は、恐怖など一瞬で吹き飛ぶほどのパニックに陥った。密着した麗華の身体から、ものすごい熱量と体温が伝わってくる。薄いパジャマ越しに、麗華の引き締まった胸板(と伍が思っている身体)が、自分のシリコンパッド入りの胸に強く押し当てられていた。

 お嬢様特有の甘い香りが、至近距離の吐息と共に伍の顔に吹きかかる。
あまりの狭さに、麗華の顔が、伍の唇のわずか数センチ先にあった。
暗闇に目が慣れてくると、麗華の濡れたような大きな瞳が、まっすぐに伍を見つめているのが分かった。

 その瞳は、昼間のお茶会で見せる上品な令嬢のそれではない。
完全に、獲物を前にした『男の肉食獣』のような、獰猛で熱い色気を孕んだ眼差しだった。

(な、なんだよこれ……。西園寺さん、近すぎる……っ。息が、できない……!)

 一方、麗華こと奏汰の理性も、この瞬間、完全に消し飛んでいた。
(ダメだ……。狭すぎる。紬葵ちゃんが僕の腕の中にすっぽり収まってる……。
こんなに可愛い子が、暗闇で怯えて僕にしがみついてるなんて……。男として、これ以上我慢できるわけがないだろ……っ!)

 奏汰の男としての本能が、完璧なお嬢様の仮面をメリメリと引き剥がしていく。気づけば、麗華(奏汰)の手が、伍の華奢な(と奏汰が思っている)腰のあたりを、逃がさないようにぐっと強く抱きすくめていた。

「……麗華、……?」

 伍は、腰に回された手のあまりの強引さと、その手のひらの「男らしすぎる力強さ」に、全身の血が逆流するような衝撃を覚えた。女の子に抱きしめられているはずなのに、なぜか自分が、圧倒的な強者に組み伏せられているような、不思議な感覚。

「……紬葵」

 麗華の口から漏れたのは、ソプラノの裏声ではない。低く、低く、低く掠れた、完全に『一人の少年の声(本物の地声)』だった。

 その声が伍の耳元を熱く濡らした瞬間、ロッカーの中の空気が一気に爆発するほどの甘さと緊張感に包まれる。
麗華の顔が、さらに1ミリ、ゆっくりと近づいてくる。暗闇の中、お互いの唇が触れ合う寸前――。

キーンコーン……。

遠くの時計塔から、午前0時を告げる深い鐘の音が響き渡った。

「――っ!」

その音でハッと我に返った麗華(奏汰)は、大慌てでロッカーの扉を押し開け、顔を真っ赤にして外へと飛び出した。

「あ、あの! 紬葵! 警備員さんは、もう行ったようですわね! い、急いで戻りましょう!」
「え、ええ……。そうですわね、麗華……」

 伍もまた、破裂しそうな心臓を片手で押さえ、真っ赤になった顔を隠しながらロッカーから這い出た。
星明かりの下、寮へと走る帰り道。伍は自分の唇を指先でそっと触りながら、今にも破裂しそうな胸の内を必死に抑え込んでいた。

(あの時……西園寺さんの声、完全に男みたいだった……。それに、あの目……。
俺、本当にどうかしちまったのか? 女の子相手に、あんな……男に抱きしめられた時みたいなドキドキの仕方をするなんて……!!)

完璧なお嬢様・西園寺麗華への「すれ違いの恋」が、もう引き返せないところまで加速していることに、
伍はまだ、気づく由もなかった。