『清泉の乙女たちは、まだ何も知らない』
桜の絨毯が敷き詰められた並木道を、標準服に身を包んだ少女たちが、鳥のさえずりのような声で談笑しながら歩いていく。
私立「清泉学園<せいせんがくえん>」。
お家柄、財力、品格のすべてを兼ね備えた令嬢だけが通うことを許される、由緒正しき全寮制の女子校である。
その美しくも、どこか浮世離れした門をくぐりながら、有栖川紬葵<ありすがわ つむぎ>――本名、有栖川伍<ありすがわあつむ>は、内ポケットに隠した身分証が燃え出すのではないかというほどの恐怖と戦っていた。
(頼むから誰も俺に話しかけるな。というか、視線をこっちに向けるな……!)
ウィッグがずれていないか。胸のパッドは位置がまともか。
何より、猛特訓した「内股での歩行」は不自然ではないか。
伍がこの学園に潜入せざるを得なくなったのには、あまりにも重い「訳」があった。
しかし今は、その事情を思い出す余裕すら惜しい。一歩足を進めるごとに、心臓が爆音を立てていた。
「おいおい、周りの女子の女子力、高すぎだろ……。これが本物のお嬢様かよ……」
つい、地声の低い呟きが漏れそうになり、伍は慌てて口を両手で覆った。
すれ違う誰もが、歩く芸術品のように美しい。自分のガサツな男の骨格が、この清らかな空気の中で浮いている気がして、伍はいたたまれない気持ちのまま、新入生のクラス掲示板へと向かった。
「……あ。あった。高等部1年A組、有栖川……」
人だかりから少し離れた位置で、自分の偽名を見つけてホッと息を吐きかけた、その時だった。
「ごきげんよう。あなたも1年A組ですの?」
鈴を転がすような、あまりにも澄んだ美しい声が耳に届いた。
伍の身体が、恐怖でカチコチに凍りつく。
ゆっくりと振り向いた先にいたのは、長い黒髪をなびかせ、息を飲むほど整った顔立ちをした、まさに『清泉学園の結晶』のような美少女だった。
彼女の胸元にある名札には、「西園寺」と書かれている。
(う、うわあああああ! 本物だ! ラスボス級の本物のお嬢様が来ちゃったよ!!)
伍の脳内は大パニックに陥った。
背中に嫌な汗がだらだらと流れる。
だが、生き残るためには演じ切るしかない。
伍は必死に裏声を絞り出し、スカートの裾をそっとつまんで、鏡の前で1000回は練習した「可憐なお嬢様の会釈」を繰り出した。
「ごきげんよう。私は西園寺麗華と申しますわ。」
「え、ええ……ごきげんよう、西園寺様。わたくし、有栖川紬葵と申しますわ。
これ、これから、よろしくお願いいたします、ね……?」
緊張のあまり声が震えた。
だが、それは初々しいお嬢様のシャイな態度にしか見えなかったようで、西園寺麗華はフッと優しく微笑んだ。
「まぁ、有栖川様。なんて可愛らしいお名前ですの。こちらこそ、仲良くしていただけると嬉しいわ。
ふふ、少し緊張なさっているのかしら? 手が少し、震えていらっしゃいますよ」
そう言って、麗華は伍の手を優しく包み込んだ。
伍はビクッと身体を強張らせる。
(ひえっ、触られた! っていうか、この西園寺さん……めちゃくちゃ綺麗だけど、
お嬢様にしてはちょっと背が高くないか? あと、なんか手のひらが、女子にしては妙にしっかりしているというか……)
一瞬、伍の脳裏に違和感がよぎる。
しかし、目の前の麗華の笑顔があまりにも完璧な「女神」だったため、伍はすぐにその失礼な疑念を頭から振り払った。
(いやいや、何をバカなことを考えてんだ俺は! 単にスタイル抜群のモデル体型なお嬢様ってだけだろ!
それに比べて俺の手のゴツさときたら……絶対見られたら終わりだ!)
伍は慌てて手を引っ込め、恥ずかしそうに(実際は恐怖で)顔を赤らめた。
「あ、あの、ごめんなさい! わたくし、人見知りで……! その、西園寺様があまりにもお美しくて、見惚れてしまいましたの……!」
「まぁ……! 有栖川様ったら、お上手ですこと」
麗華の白い頬が、どこか照れたようにぽっと赤くなる。
その仕草すらも、洗練されていて絵になっていた。
(危ねえええ! 挨拶だけで心臓が止まるかと思った! でも、この西園寺さん、すごく優しそうだ……。
この人の後ろに隠れて、目立たないように3年間過ごせば、男だってバレずに卒業できるかもしれない……!)
「さぁ、有栖川様。まもなく入学式が始まりますわ。一緒に行きましょう?」
「ええ、喜んで、西園寺様」
完璧なお嬢様・西園寺麗華を絶対に騙し通さなければ、という決意を胸に、伍は彼女の手を借りて式場へと歩き出す。
自分のスカートの下が、女子用ショーツではなくボクサーパンツであることも。
そして、この出会いが自分の学園生活を激変させる始まりであることも、伍はまだ、何も知らなかった。

