異世界転生者たちの間に存在する、一つの暗黙の了解——もし別次元へ旅立ちたいのなら、トラックに跳ねられるか、子供をかばって溺れるか、百歩譲っても過労死を選ぶべきだ。
頼むから、私を反面教師にしてほしい。
神に誓って言うけれど、選べるものなら自分の死因——いや、魂の転移記録を、この宇宙の歴史から永久に抹消したい。
今すぐ、この瞬間にだ!!!!
「アレーティア? どうした?」
耳元で響いた低く重厚なバリトンボイスに、全身の鳥肌が立った。鼻をくすぐるのは、私が住んでいた傾いたアパートの湿気た消毒液の匂いではない。高級なアロマキャンドルの香りと、品のある洗練された男性用香水の香りだ。
ゆっくりと目を開ける。
カビの生えた合板のトイレのドアに注がれていたはずの視界は、息をのむほど高い大聖堂の天井へと変わっていた。そこには色鮮やかなステンドグラスから差し込む陽の光と、美しい天使たちの天井画が広がっている。
待って。ここ、私のアパートじゃない。
パチパチとまばたきをする。くそっ、頭が割れるように痛い。最後に覚えているのは、昨晩無謀にも食べた「ペヤング 獄激辛やきそば」のせいで激痛に見舞われ、トイレの上で切実に生体現象と戦っていたことだ。お腹が激しくよじれ、視界が真っ暗になって、それから……。
「アレーティア? ぼんやりしてどうしたんだ?」
声のする方へ首を向けた瞬間、心臓が飛び跳ね出そうになった。
目の前、わずか数センチの距離に、異常なほどの顔面偏差値を誇る男の顔があった。引き締まった顎のライン、夜の闇よりも深い漆黒の髪、そして私を射抜くように見つめる血のような赤目。彼は金糸の刺繍が施された漆黒の軍服を纏い、肩からは豪華な毛皮のシャペロンを垂らしている。
キザで整いすぎたその顔……どこかで見たことがあるような? でも、どこで……?
そうだ、この顔……思い出した……。
嘘でしょ!!!! こいつ……キリアン・フォン・ラドクリフ公爵!? 人の首を跳ねるのが趣味っていう、あのサイコパスマンガの男主(メインヒーロー)じゃないの!?
そう、私の目の前にいるこの超絶イケメンは、便所で踏ん張る直前に読んでいたウェブトゥーンの登場人物だったのだ。うわマジか、排泄ルートから異世界転生するパターンなんて存在するわけ!?
最悪なことに、私はあのクソマンガの詳細なストーリーをあまり覚えていない。確か、皇帝の隠し子であるヒロインに、この国の権力者3人が執着するドロドロの恋愛ものだったはずだ。母親の治療費を頼むために王都へやってきた世間知らずな少女に、その無知で純真な振る舞いから、城の害悪男どもが狂わされていくという話。もう胸やけがするほどウンザリしていたのに!
脳がこの2次元のキャラクターを現実として認識する前に、キリアンの顔がさらに近づいてきた。彼はゆっくりと目を閉じ、その薄い唇を私の唇へと近づけてくる。
おい!! こいつ何しようとしてんの!?
あっ、思い出した!! 脳裏に電撃のように情報が駆け巡る。今日はアレーティア皇女とキリアン公爵の、政治的婚約儀式の日だ。
そしてこの場面は……神聖な誓いの証として、公爵が祭壇の前で皇女にキスをするシーン!!
ってことは、私、この世界でアレーティア皇女になってるの!? 大聖堂で首を跳ねられて死ぬ、あのずる賢くて高慢ちきな不遇の皇女に!? くそっ、皇帝の実子でありながらヒロインの義理の姉だなんて最悪だ。私をこんなマンガの世界にぶち込んだ奴、7日間7晩お腹を下し続ければいいのに!!
血も涙もない殺人鬼の唇が刻一刻と迫ってくるのを見て、生存本能が悲鳴を上げた。まだ混乱している私の脳は、目の前の男を「油断に乗じた性犯罪者」と誤認した。助けて、何とかしなきゃ——
バシッ(プラック)!!!
静まり返った大聖堂に、恐ろしいほど高い打撃音が響き渡った。
私の手——正確には、アレーティアの白くしなやかな手が、フルスイングでキリアン公爵の左頬を捉えていたのだ。その全力のビンタの威力たるや、公爵の整った顔が真右に弾き飛ばされるほどだった。
息をのむような静寂が、一瞬にして会場全体を包み込む。
周囲を見渡すと、中世ヨーロッパ風のドレスや礼服に身を包んだ何百人もの貴族たちが、鳩が豆鉄砲をくらったような顔でフリーズしていた。目の前の年老いた聖職者に至っては、手にしていた聖書をドスンと床に落としてしまう始末だ。
じんじんと熱を持つ自分の手のひらを見つめ、それからゆっくりと顔を元に戻すキリアンに視線を移す。彼の真っ白な左頬には、くっきりと赤く5本の指の跡が浮かび上がっていた。
キリアンは沈黙していた。叩かれた頬に手を当て、それからゆっくりと私を見つめ返した。赤い瞳が鋭く細められる。激怒して剣を抜き首を跳ねてくるかと思いきや、彼の唇の端が引きつり……そして、ニヤリと恐ろしく怪しい笑みを浮かべた。
「……面白い。私の顔に手を上げた女性は、あなたが初めてですよ、アレーティア皇女」
終わったーーーーーーーー!!!! お願いだから今すぐアパートの便所に送り返して! まだ用を足し終えてないの!! こいつのドSな顔を見てよ、一発殴ってやりたい衝動が——
「アレーティア!」
静寂を破る切羽詰まった叫び声が響いた。
皇族席から、金髪をなびかせた男性が祭壇に向かって猛スピードで走ってきた。豪華なマントを翻し、その整った顔立ちには焦りと怒りが入り混じっている。
そう、知ってる。彼はヘリオス皇子、私の唯一の実の兄だ。作中では敵国から恐れられる戦神の将軍だが、妹の前では極度のシスコン保護者として描かれていた。確か彼はアレーティアの手によって悲惨な末路をたどるはずだった。アレーティアが王位を奪うために兄を殺そうとし、失敗して逆に彼から激しく憎まれることになるのだ。
近づいてくるヘリオスを見て、私の脳細胞が高速回転する。やばい、目の前のキリアンの視線がどんどんヤバい方向に行っている。今ここで取り調べを受けて討ち死にするくらいなら、昼ドラでお馴染みの「あの古来伝統の秘技」を使うしかない!
私は強く目を閉じ、これ以上ないほどドラマチックに頭を押さえると、そのまま冷たい床に向かって体を崩し落とした。
「アレーティア!!!」ヘリオスの悲鳴のような叫びが響く。
私の体が冷たい大理石の床に激突する直前、力強い腕がしっかりと私の腰を受け止めた。キリアンの香水の香りが再び鼻をくすぐる。
チッ、あの公爵、無駄に反射神経が良いな。
「すぐに宮廷医を呼べ! 早く!」
遠くでヘリオスが騎士たちに怒鳴り散らす声と、何百人もの人々がパニックになる騒ぎが聞こえた。
私は微動だにせず、息を殺して、死んだフリを決め込んだ。よし、第一ラウンド突破、と心の中でガッツポーズをした。
◇
どれくらい死んだフリをしていたかわからないが、目を閉じた途端、昨夜の腹痛と寝不足がたたって本当に爆睡してしまったらしい。
目を開けるのは怖かった。またあの公爵のドヤ顔を見たくなかったからだ。しかし長考の末、私はゆっくりと薄目を開けた。
目を開けると、そこは皇女の部屋にある豪華なキングサイズのベッドの上だった。最初に目に入ったのは、ベッドの脇に座り、目の下に濃いクマを作ったヘリオスの顔だった。
(うわ、パンダかよ)と心の中でツッコミを入れつつ、笑いを噛み殺す。
「目が覚めたのか!? どこか痛むか? 怪我はないか? 頼むから兄さんに教えてくれ、アレーティア!」
ヘリオスは私の両肩を掴み、矢継ぎ早に質問を浴びせてきた。
心底心配しているようだ。私はアレーティアとヘリオスの関係を思い出していた。アレーティアは皇帝が兄ばかりを優遇し自分を見てくれないことへの嫉妬から、ヘリオスを兄と認めていなかった。物語の中盤では皇位継承のために実の兄を殺そうとし、最終的に皇帝によって首を跳ねられるのだ。
それを思い出すと、背筋が寒くなった。私は深く息を吐き、体を起こそうとした。
「白々しく心配しないでよ……私を嗤いに来たの?」
ぎこちなく言ってみせる。いきなり「お兄様」なんて呼べるわけがないし、元のアレーティアもトゲのある口調だったから、これで合っているはずだ。
ヘリオスは一瞬驚いたように私を見つめ、それから安堵の溜息をつくと、表情を真剣なものに変えた。
「アレーティア、どうしてそんなことを言うんだ? それより、さっきの祭壇で何があった? なぜキリアンをぶったんだ? 式の前に奴から何か脅されていたのか? 正直に話してくれ。もしあの男が何か企んでいるなら、政治的同盟なんて知ったことか。俺が今すぐあいつの首を斬り落としてやる!」
ヘリオスの瞳に宿る怒りの炎を見て、私は不覚にも胸が熱くなった。この世界で「兄」がいるって、こんなにも温かいことなんだ。前世の私は長女で、弟たちの面倒を見たり親の期待を背負ったりと、常に頼られる側だったから。
「……別に。ただ……びっくりしただけよ」
一番通りそうな言い訳を考えて、蚊の鳴くような声で呟く。
「なによ、根掘り葉掘り聞いて……笑いたいわけ!?」
ヘリオスは困惑したように眉をひそめた。
「どういう意味だ? 兄さんには分からないよ、アレーティア。ちゃんと話してくれ」
目の前のイケメンのポンコツぶりに呆れつつも、この世界で生き残るためには「怯える弱々しい少女」を演じるしかないと思い至った。よし、やるしかない!
「あ……私、キリアン公爵が怖かったの。あの人、すごく恐ろしい顔をしてたから……」
伏し目がちに悲壮感を漂わせながら言った。本当は大爆笑したかったけれど、とりあえずキャラを保たなければならない。
私の言葉と表情を見たヘリオスは絶句した。彼はしばし呆然とした後、愛おしそうに私の髪を優しく撫でた。
「……すまない。政略結婚からお前を守ってやれなくて。だが安心しろ、兄さんはいつだってお前の味方だ」
(よっしゃ!! その言葉を待ってたのよ! たぬき寝入りした甲斐があったわ、ハハハ!)
「だ、誰が保護なんて頼んだのよ!! …私、ただ思ったことを言っただけ! 手をどけてよ!」
私は彼の手を優しく払いのけた。ヘリオスはクスッと小さく笑った。
「フッ……お前は昔から何も変わらないな」
トントン!
ドアを叩く音が響き、私とヘリオスの視線がドアへと向かった。
「失礼いたします、皇子殿下。皇帝陛下がお呼びでございます」
侍女が恭しく告げる。
「わかった、すぐに行く」
ヘリオスは立ち上がり、私に向かって優しく微笑んだ。
「じゃあ、行ってくるよ」
彼が部屋を出て行った後、私はすぐにドアの鍵を閉め、大きな鏡の前を行ったり来たりした。鏡に映る自分——美しく気品に満ちたアレーティア皇女の姿を見つめる。
「顔はめちゃくちゃ可愛いんだけどなぁ。マンガ通りだけど、中盤で死ぬ運命なんだよね……」
「そうだ、ストーリーよ!!」
何かを思い出し、私は自分の両頬をペチペチと叩いた。
「よし、考えろ、考えるんだアレーティア!」
婚約をこちらから一方的に破棄するのは不可能な上、戦争の引き金になりかねない。でも、もしキリアン公爵自身が私にドン引きして、婚約を破棄したがったら……? いける、それだ!
「そうよ! 奴を極限までドン引きさせてやるのよ!」
私の顔に邪悪な笑みが浮かぶ。
「明日から、私は世界一あり得ない、世界一ズボラで、世界一血圧の上がる最悪の未婚妻になってやるわ。あっちから皇帝陛下に『この女と結婚なんて無理です!』って泣きつかせてやるんだから!」
頼むから、私を反面教師にしてほしい。
神に誓って言うけれど、選べるものなら自分の死因——いや、魂の転移記録を、この宇宙の歴史から永久に抹消したい。
今すぐ、この瞬間にだ!!!!
「アレーティア? どうした?」
耳元で響いた低く重厚なバリトンボイスに、全身の鳥肌が立った。鼻をくすぐるのは、私が住んでいた傾いたアパートの湿気た消毒液の匂いではない。高級なアロマキャンドルの香りと、品のある洗練された男性用香水の香りだ。
ゆっくりと目を開ける。
カビの生えた合板のトイレのドアに注がれていたはずの視界は、息をのむほど高い大聖堂の天井へと変わっていた。そこには色鮮やかなステンドグラスから差し込む陽の光と、美しい天使たちの天井画が広がっている。
待って。ここ、私のアパートじゃない。
パチパチとまばたきをする。くそっ、頭が割れるように痛い。最後に覚えているのは、昨晩無謀にも食べた「ペヤング 獄激辛やきそば」のせいで激痛に見舞われ、トイレの上で切実に生体現象と戦っていたことだ。お腹が激しくよじれ、視界が真っ暗になって、それから……。
「アレーティア? ぼんやりしてどうしたんだ?」
声のする方へ首を向けた瞬間、心臓が飛び跳ね出そうになった。
目の前、わずか数センチの距離に、異常なほどの顔面偏差値を誇る男の顔があった。引き締まった顎のライン、夜の闇よりも深い漆黒の髪、そして私を射抜くように見つめる血のような赤目。彼は金糸の刺繍が施された漆黒の軍服を纏い、肩からは豪華な毛皮のシャペロンを垂らしている。
キザで整いすぎたその顔……どこかで見たことがあるような? でも、どこで……?
そうだ、この顔……思い出した……。
嘘でしょ!!!! こいつ……キリアン・フォン・ラドクリフ公爵!? 人の首を跳ねるのが趣味っていう、あのサイコパスマンガの男主(メインヒーロー)じゃないの!?
そう、私の目の前にいるこの超絶イケメンは、便所で踏ん張る直前に読んでいたウェブトゥーンの登場人物だったのだ。うわマジか、排泄ルートから異世界転生するパターンなんて存在するわけ!?
最悪なことに、私はあのクソマンガの詳細なストーリーをあまり覚えていない。確か、皇帝の隠し子であるヒロインに、この国の権力者3人が執着するドロドロの恋愛ものだったはずだ。母親の治療費を頼むために王都へやってきた世間知らずな少女に、その無知で純真な振る舞いから、城の害悪男どもが狂わされていくという話。もう胸やけがするほどウンザリしていたのに!
脳がこの2次元のキャラクターを現実として認識する前に、キリアンの顔がさらに近づいてきた。彼はゆっくりと目を閉じ、その薄い唇を私の唇へと近づけてくる。
おい!! こいつ何しようとしてんの!?
あっ、思い出した!! 脳裏に電撃のように情報が駆け巡る。今日はアレーティア皇女とキリアン公爵の、政治的婚約儀式の日だ。
そしてこの場面は……神聖な誓いの証として、公爵が祭壇の前で皇女にキスをするシーン!!
ってことは、私、この世界でアレーティア皇女になってるの!? 大聖堂で首を跳ねられて死ぬ、あのずる賢くて高慢ちきな不遇の皇女に!? くそっ、皇帝の実子でありながらヒロインの義理の姉だなんて最悪だ。私をこんなマンガの世界にぶち込んだ奴、7日間7晩お腹を下し続ければいいのに!!
血も涙もない殺人鬼の唇が刻一刻と迫ってくるのを見て、生存本能が悲鳴を上げた。まだ混乱している私の脳は、目の前の男を「油断に乗じた性犯罪者」と誤認した。助けて、何とかしなきゃ——
バシッ(プラック)!!!
静まり返った大聖堂に、恐ろしいほど高い打撃音が響き渡った。
私の手——正確には、アレーティアの白くしなやかな手が、フルスイングでキリアン公爵の左頬を捉えていたのだ。その全力のビンタの威力たるや、公爵の整った顔が真右に弾き飛ばされるほどだった。
息をのむような静寂が、一瞬にして会場全体を包み込む。
周囲を見渡すと、中世ヨーロッパ風のドレスや礼服に身を包んだ何百人もの貴族たちが、鳩が豆鉄砲をくらったような顔でフリーズしていた。目の前の年老いた聖職者に至っては、手にしていた聖書をドスンと床に落としてしまう始末だ。
じんじんと熱を持つ自分の手のひらを見つめ、それからゆっくりと顔を元に戻すキリアンに視線を移す。彼の真っ白な左頬には、くっきりと赤く5本の指の跡が浮かび上がっていた。
キリアンは沈黙していた。叩かれた頬に手を当て、それからゆっくりと私を見つめ返した。赤い瞳が鋭く細められる。激怒して剣を抜き首を跳ねてくるかと思いきや、彼の唇の端が引きつり……そして、ニヤリと恐ろしく怪しい笑みを浮かべた。
「……面白い。私の顔に手を上げた女性は、あなたが初めてですよ、アレーティア皇女」
終わったーーーーーーーー!!!! お願いだから今すぐアパートの便所に送り返して! まだ用を足し終えてないの!! こいつのドSな顔を見てよ、一発殴ってやりたい衝動が——
「アレーティア!」
静寂を破る切羽詰まった叫び声が響いた。
皇族席から、金髪をなびかせた男性が祭壇に向かって猛スピードで走ってきた。豪華なマントを翻し、その整った顔立ちには焦りと怒りが入り混じっている。
そう、知ってる。彼はヘリオス皇子、私の唯一の実の兄だ。作中では敵国から恐れられる戦神の将軍だが、妹の前では極度のシスコン保護者として描かれていた。確か彼はアレーティアの手によって悲惨な末路をたどるはずだった。アレーティアが王位を奪うために兄を殺そうとし、失敗して逆に彼から激しく憎まれることになるのだ。
近づいてくるヘリオスを見て、私の脳細胞が高速回転する。やばい、目の前のキリアンの視線がどんどんヤバい方向に行っている。今ここで取り調べを受けて討ち死にするくらいなら、昼ドラでお馴染みの「あの古来伝統の秘技」を使うしかない!
私は強く目を閉じ、これ以上ないほどドラマチックに頭を押さえると、そのまま冷たい床に向かって体を崩し落とした。
「アレーティア!!!」ヘリオスの悲鳴のような叫びが響く。
私の体が冷たい大理石の床に激突する直前、力強い腕がしっかりと私の腰を受け止めた。キリアンの香水の香りが再び鼻をくすぐる。
チッ、あの公爵、無駄に反射神経が良いな。
「すぐに宮廷医を呼べ! 早く!」
遠くでヘリオスが騎士たちに怒鳴り散らす声と、何百人もの人々がパニックになる騒ぎが聞こえた。
私は微動だにせず、息を殺して、死んだフリを決め込んだ。よし、第一ラウンド突破、と心の中でガッツポーズをした。
◇
どれくらい死んだフリをしていたかわからないが、目を閉じた途端、昨夜の腹痛と寝不足がたたって本当に爆睡してしまったらしい。
目を開けるのは怖かった。またあの公爵のドヤ顔を見たくなかったからだ。しかし長考の末、私はゆっくりと薄目を開けた。
目を開けると、そこは皇女の部屋にある豪華なキングサイズのベッドの上だった。最初に目に入ったのは、ベッドの脇に座り、目の下に濃いクマを作ったヘリオスの顔だった。
(うわ、パンダかよ)と心の中でツッコミを入れつつ、笑いを噛み殺す。
「目が覚めたのか!? どこか痛むか? 怪我はないか? 頼むから兄さんに教えてくれ、アレーティア!」
ヘリオスは私の両肩を掴み、矢継ぎ早に質問を浴びせてきた。
心底心配しているようだ。私はアレーティアとヘリオスの関係を思い出していた。アレーティアは皇帝が兄ばかりを優遇し自分を見てくれないことへの嫉妬から、ヘリオスを兄と認めていなかった。物語の中盤では皇位継承のために実の兄を殺そうとし、最終的に皇帝によって首を跳ねられるのだ。
それを思い出すと、背筋が寒くなった。私は深く息を吐き、体を起こそうとした。
「白々しく心配しないでよ……私を嗤いに来たの?」
ぎこちなく言ってみせる。いきなり「お兄様」なんて呼べるわけがないし、元のアレーティアもトゲのある口調だったから、これで合っているはずだ。
ヘリオスは一瞬驚いたように私を見つめ、それから安堵の溜息をつくと、表情を真剣なものに変えた。
「アレーティア、どうしてそんなことを言うんだ? それより、さっきの祭壇で何があった? なぜキリアンをぶったんだ? 式の前に奴から何か脅されていたのか? 正直に話してくれ。もしあの男が何か企んでいるなら、政治的同盟なんて知ったことか。俺が今すぐあいつの首を斬り落としてやる!」
ヘリオスの瞳に宿る怒りの炎を見て、私は不覚にも胸が熱くなった。この世界で「兄」がいるって、こんなにも温かいことなんだ。前世の私は長女で、弟たちの面倒を見たり親の期待を背負ったりと、常に頼られる側だったから。
「……別に。ただ……びっくりしただけよ」
一番通りそうな言い訳を考えて、蚊の鳴くような声で呟く。
「なによ、根掘り葉掘り聞いて……笑いたいわけ!?」
ヘリオスは困惑したように眉をひそめた。
「どういう意味だ? 兄さんには分からないよ、アレーティア。ちゃんと話してくれ」
目の前のイケメンのポンコツぶりに呆れつつも、この世界で生き残るためには「怯える弱々しい少女」を演じるしかないと思い至った。よし、やるしかない!
「あ……私、キリアン公爵が怖かったの。あの人、すごく恐ろしい顔をしてたから……」
伏し目がちに悲壮感を漂わせながら言った。本当は大爆笑したかったけれど、とりあえずキャラを保たなければならない。
私の言葉と表情を見たヘリオスは絶句した。彼はしばし呆然とした後、愛おしそうに私の髪を優しく撫でた。
「……すまない。政略結婚からお前を守ってやれなくて。だが安心しろ、兄さんはいつだってお前の味方だ」
(よっしゃ!! その言葉を待ってたのよ! たぬき寝入りした甲斐があったわ、ハハハ!)
「だ、誰が保護なんて頼んだのよ!! …私、ただ思ったことを言っただけ! 手をどけてよ!」
私は彼の手を優しく払いのけた。ヘリオスはクスッと小さく笑った。
「フッ……お前は昔から何も変わらないな」
トントン!
ドアを叩く音が響き、私とヘリオスの視線がドアへと向かった。
「失礼いたします、皇子殿下。皇帝陛下がお呼びでございます」
侍女が恭しく告げる。
「わかった、すぐに行く」
ヘリオスは立ち上がり、私に向かって優しく微笑んだ。
「じゃあ、行ってくるよ」
彼が部屋を出て行った後、私はすぐにドアの鍵を閉め、大きな鏡の前を行ったり来たりした。鏡に映る自分——美しく気品に満ちたアレーティア皇女の姿を見つめる。
「顔はめちゃくちゃ可愛いんだけどなぁ。マンガ通りだけど、中盤で死ぬ運命なんだよね……」
「そうだ、ストーリーよ!!」
何かを思い出し、私は自分の両頬をペチペチと叩いた。
「よし、考えろ、考えるんだアレーティア!」
婚約をこちらから一方的に破棄するのは不可能な上、戦争の引き金になりかねない。でも、もしキリアン公爵自身が私にドン引きして、婚約を破棄したがったら……? いける、それだ!
「そうよ! 奴を極限までドン引きさせてやるのよ!」
私の顔に邪悪な笑みが浮かぶ。
「明日から、私は世界一あり得ない、世界一ズボラで、世界一血圧の上がる最悪の未婚妻になってやるわ。あっちから皇帝陛下に『この女と結婚なんて無理です!』って泣きつかせてやるんだから!」
