転校してから、一か月ほどが過ぎた。
最初は何度も見上げていた校舎も、今では迷わず教室まで歩けるようになっている。
教室の扉を開けることにも、朝のホームルームにも、休み時間の賑やかな空気にも、少しずつ慣れてきた。
まだ自分から話しかけることは少ない。
それでも、「おはよう」と声を掛けてくれる人がいて、隣で笑ってくれる萌恵がいて、困った時にはさりげなく気に掛けてくれる桜井くんがいる。
あの日、この街で感じていた居心地の悪さは、気づけば少しずつ薄れていた。
放課後を知らせるチャイムが校舎に響く。
窓の外では、夕暮れ前の柔らかな光が校庭を照らしていた。
「千春、一緒に駅まで帰ろ。」
萌恵が机に肘をつきながら笑う。
「うん。」
二人は教室を出て、廊下を並んで歩いた。
窓から吹き込む風は昼間よりも少し涼しく、初夏の匂いを運んでくる。
「もう転校して一か月くらいやんな。」
「そうだね。」
「なんか、最初より表情柔らかくなった気する。」
不意に言われ、千春は少し驚いたように足を緩めた。
「……そうかな。」
「うん。」
萌恵はくすっと笑う。
「最初は話しかけたら逃げられるんちゃうか思たもん。」
「そんなことないよ。」
「冗談やって。」
二人で顔を見合わせ、小さく笑う。
駅へ向かう途中、校庭の隅では写真部の生徒たちがカメラを構えていた。
その中に、和の姿がある。
ファインダーを覗き込み、夕日に染まる木々へ静かにレンズを向けている。
千春はほんの一瞬だけ立ち止まった。
和はまだこちらに気付いていない。
夢中でシャッターを切っていた。
――カシャ。
乾いた音が風に乗る。
「写真、ほんま好きなんやねぇ。」
萌恵が小さく呟く。
「うん……。」
それだけ答え、千春は再び歩き出した。
◇
京阪電車は夕暮れの街をゆっくり走っていた。
窓の向こうには淀川が広がり、水面は西日に照らされて黄金色に揺れている。
橋を渡る風景も、何度か見ているうちに少しずつ見慣れてきた。
車窓へ映る自分の顔は、転校したばかりの頃より少しだけ力が抜けている気がした。
枚方公園駅で電車を降りる。
改札を出ると、商店街には夕飯の支度を始める匂いが漂っていた。
揚げ物の香り。
焼き魚の匂い。
どこかの店から聞こえる包丁の音。
自転車で帰る学生。
犬の散歩をする夫婦。
毎日同じように流れる夕方の景色。
その中を歩いている自分が、少しだけこの街の一部になれたような気がした。
やがて、小さな暖簾が見えてくる。
白い布に染め抜かれた文字。
――つむぎ。
暖簾をくぐる。
からん、と戸が鳴った。
「おかえり。」
出汁の香りと一緒に、珠代の声が迎えてくれる。
鍋から立ち上る湯気。
昆布と鰹の優しい香りが店いっぱいに広がっていた。
千春は靴を脱ぎかけたまま、少しだけ動きを止める。
その言葉に返事をすることが、まだ少し照れくさかった。
それでも。
「……ただいま。」
小さな声だった。
珠代は何も言わず、ふっと目を細めて笑う。
「今日は肉じゃがやで。」
「いい匂い。」
「もうちょっと待っとき。すぐできるから。」
千春は制服のリボンを緩めながら頷く。
店の奥へ行き、鏡の前で髪を一つに結ぶ。
学校では隠していた耳が少しだけ見える。
エプロンを身につけると、不思議と気持ちまで切り替わった。
「何か手伝う。」
「ほんなら、お味噌汁よそってくれる?」
「うん。」
湯気の向こうで珠代が笑う。
店の扉が開き、常連客が入ってくる。
「こんばんは。」
「いらっしゃい。」
そんなやり取りが自然に続いていく。
いつもの夕方。
いつもの店。
その「いつも」の中に、自分もいる。
◇
店じまいを終え、二階の部屋へ戻る。
窓を開けると、夜風が頬をなでた。
遠くで京阪電車が走り抜ける音が聞こえる。
昼間の賑わいが嘘のように、商店街は静かだった。
机の上に鞄を置き、窓の外を眺める。
「……ただいま、か。」
誰に聞かせるでもない小さな声は、夜風に溶けていく。
その言葉はまだ少しだけぎこちなかった。
けれど、胸の奥にはほんの少しだけ温かいものが残っていた。
最初は何度も見上げていた校舎も、今では迷わず教室まで歩けるようになっている。
教室の扉を開けることにも、朝のホームルームにも、休み時間の賑やかな空気にも、少しずつ慣れてきた。
まだ自分から話しかけることは少ない。
それでも、「おはよう」と声を掛けてくれる人がいて、隣で笑ってくれる萌恵がいて、困った時にはさりげなく気に掛けてくれる桜井くんがいる。
あの日、この街で感じていた居心地の悪さは、気づけば少しずつ薄れていた。
放課後を知らせるチャイムが校舎に響く。
窓の外では、夕暮れ前の柔らかな光が校庭を照らしていた。
「千春、一緒に駅まで帰ろ。」
萌恵が机に肘をつきながら笑う。
「うん。」
二人は教室を出て、廊下を並んで歩いた。
窓から吹き込む風は昼間よりも少し涼しく、初夏の匂いを運んでくる。
「もう転校して一か月くらいやんな。」
「そうだね。」
「なんか、最初より表情柔らかくなった気する。」
不意に言われ、千春は少し驚いたように足を緩めた。
「……そうかな。」
「うん。」
萌恵はくすっと笑う。
「最初は話しかけたら逃げられるんちゃうか思たもん。」
「そんなことないよ。」
「冗談やって。」
二人で顔を見合わせ、小さく笑う。
駅へ向かう途中、校庭の隅では写真部の生徒たちがカメラを構えていた。
その中に、和の姿がある。
ファインダーを覗き込み、夕日に染まる木々へ静かにレンズを向けている。
千春はほんの一瞬だけ立ち止まった。
和はまだこちらに気付いていない。
夢中でシャッターを切っていた。
――カシャ。
乾いた音が風に乗る。
「写真、ほんま好きなんやねぇ。」
萌恵が小さく呟く。
「うん……。」
それだけ答え、千春は再び歩き出した。
◇
京阪電車は夕暮れの街をゆっくり走っていた。
窓の向こうには淀川が広がり、水面は西日に照らされて黄金色に揺れている。
橋を渡る風景も、何度か見ているうちに少しずつ見慣れてきた。
車窓へ映る自分の顔は、転校したばかりの頃より少しだけ力が抜けている気がした。
枚方公園駅で電車を降りる。
改札を出ると、商店街には夕飯の支度を始める匂いが漂っていた。
揚げ物の香り。
焼き魚の匂い。
どこかの店から聞こえる包丁の音。
自転車で帰る学生。
犬の散歩をする夫婦。
毎日同じように流れる夕方の景色。
その中を歩いている自分が、少しだけこの街の一部になれたような気がした。
やがて、小さな暖簾が見えてくる。
白い布に染め抜かれた文字。
――つむぎ。
暖簾をくぐる。
からん、と戸が鳴った。
「おかえり。」
出汁の香りと一緒に、珠代の声が迎えてくれる。
鍋から立ち上る湯気。
昆布と鰹の優しい香りが店いっぱいに広がっていた。
千春は靴を脱ぎかけたまま、少しだけ動きを止める。
その言葉に返事をすることが、まだ少し照れくさかった。
それでも。
「……ただいま。」
小さな声だった。
珠代は何も言わず、ふっと目を細めて笑う。
「今日は肉じゃがやで。」
「いい匂い。」
「もうちょっと待っとき。すぐできるから。」
千春は制服のリボンを緩めながら頷く。
店の奥へ行き、鏡の前で髪を一つに結ぶ。
学校では隠していた耳が少しだけ見える。
エプロンを身につけると、不思議と気持ちまで切り替わった。
「何か手伝う。」
「ほんなら、お味噌汁よそってくれる?」
「うん。」
湯気の向こうで珠代が笑う。
店の扉が開き、常連客が入ってくる。
「こんばんは。」
「いらっしゃい。」
そんなやり取りが自然に続いていく。
いつもの夕方。
いつもの店。
その「いつも」の中に、自分もいる。
◇
店じまいを終え、二階の部屋へ戻る。
窓を開けると、夜風が頬をなでた。
遠くで京阪電車が走り抜ける音が聞こえる。
昼間の賑わいが嘘のように、商店街は静かだった。
机の上に鞄を置き、窓の外を眺める。
「……ただいま、か。」
誰に聞かせるでもない小さな声は、夜風に溶けていく。
その言葉はまだ少しだけぎこちなかった。
けれど、胸の奥にはほんの少しだけ温かいものが残っていた。
