暖簾をくぐると、出汁の香りがふわりと鼻をくすぐった。

「ただいま」

 まだ少し照れくさい声だった。

 店の奥から、珠代さんが顔を出す。

「おかえり、千春ちゃん」

 その一言に、私は小さく「ただいま」と返した。

 まだ慣れない言葉だったけれど、口にすると少しだけ胸が温かくなった。

「今日はどうやった?」

「……思ってたより、大丈夫でした」

「そっか」

 珠代さんはそれ以上聞かなかった。

 ただ、「よかった」と笑って、また鍋へ向き直る。

 ぐつぐつ、と小さな音が聞こえる。

 昆布と鰹の香りが店いっぱいに広がっていた。

「ご飯まで少し時間あるし、部屋でゆっくりしといで」

「はい」

 二階へ上がり、制服から部屋着へ着替える。

 鏡の前に座り、肩まで伸びた髪を後ろで一つに結ぶ。

 鏡の中の自分は、少しだけ疲れた顔をしていた。

 でも、朝よりは少しだけ表情が柔らかい気がした。

 窓を開ける。

 夕暮れの風が部屋へ流れ込む。

 桜の花びらが一枚、窓辺へ舞い込んだ。

 私はそれを指先でそっと拾い、本の間へ挟んだ。

 小さな春を閉じ込めるように。

「千春ちゃーん」

 一階から珠代さんの声が聞こえる。

「ご飯できたで」

「今、行きます」

 一階へ降りると、湯気の立つ料理が並んでいた。

 鯖の味噌煮。

 菜の花のおひたし。

 だし巻き玉子。

 豆腐とわかめの味噌汁。

「いただきます」

 二人で手を合わせる。

 味噌汁を一口飲む。

 優しい出汁の味が、ゆっくり身体へ染み込んでいく。

「学校、友達できそう?」

 珠代さんが何気なく聞いた。

 私は箸を止め、少しだけ考える。

「……うん」

 自然と浮かんだのは、笑顔の女の子だった。

「萌恵ちゃんって子が、一緒に帰ってくれました」

「あら、よかったやん」

「街も案内してくれて」

「優しい子やなぁ」

 私は小さく頷く。

 それから、もう一人の顔が頭に浮かんだ。

 困ったことあったら言うてな。

 そう言って、すぐ自分の席へ戻っていった男の子。

 名前は――桜井和。

 そのことは、なぜか口にしなかった。

「明日も学校やし、今日は早めに休み」

「はい」

 食事を終え、お皿を運ぼうとすると、

「あ、それはええよ」

 珠代さんが笑って受け取る。

「今日は疲れたやろうから」

「でも……」

「そのうち手伝ってもらうから、その時よろしく」

 思わず笑ってしまった。

「……はい」

 珠代さんも笑う。

 店の外では、風鈴が小さく鳴った。

 夜風が暖簾をそっと揺らしている。

 私はその音を聞きながら思った。

 まだ「家」と呼ぶには早い。

 それでも、この場所は少しずつ私の居場所になり始めているのかもしれない。