障子の向こうから、小さな包丁の音が聞こえてきた。

 トントン、トントン。

 規則正しい音に目を覚ます。

 見慣れない天井をぼんやり眺めてから、私はゆっくりと起き上がった。

 そうだ。

 昨日、この街へ来たんだ。

 窓を開けると、朝の風が頬をなでる。

 桜の花びらが一枚、庭へ舞い落ちた。

 階下からは、出汁のいい香りが漂ってくる。

「千春ちゃん、起きた?」

 珠代さんの声だった。

「はい。今、行きます」

 制服に着替え、一階へ降りる。

 暖簾の掛かった店内には朝の光が差し込み、カウンターには焼き鮭と玉子焼き、湯気の立つ味噌汁が並んでいた。

「おはよう」

「……おはようございます」

「いっぱい食べや。学校まで歩くしな」

 私は小さく頷いた。

 味噌汁を口に運ぶ。

 優しい出汁の香りが、身体の中へゆっくりと広がっていく。

「……おいしいです」

 思わずこぼれた言葉に、珠代さんは嬉しそうに笑った。

「それはよかった」

 その笑顔を見ていると、少しだけ肩の力が抜けた。

 食事を終え、玄関でローファーを履く。

「緊張してる?」

 珠代さんが尋ねる。

 私は少し考えてから頷いた。

「……少しだけ」

「最初はみんなそうや。無理せんでええからな」

「はい」

 玄関の扉を開けると、春の風が吹き抜けた。

 学校までは電車と歩いて20分ほど。

 住宅街を抜け、小さな公園の横を通る。

 ランドセルを背負った子どもたちが元気よく走っていく。

 その姿を目で追いながら、私はゆっくり歩いた。

 やがて、桜並木の向こうに校舎が見えてきた。

 門の前で一度立ち止まる。

 制服のポケットへ手を入れる。

 お守りの感触を確かめると、小さく息を吸った。

「行こう」

 誰に言うでもなく呟き、一歩踏み出す。

 職員室で担任の先生と挨拶を交わし、一緒に廊下を歩く。

「そんなに緊張せんでも大丈夫やで」

 先生は穏やかに笑った。

「みんな、ええ子ばっかりや」

 私は小さく頷く。

 教室が近づくにつれ、笑い声が聞こえてきた。

 胸が少しだけ高鳴る。

 先生が教室の前で立ち止まり、扉を開けた。

「みんな、おはようさん」

 教室の空気が静かになる。

「今日は転校生を紹介します」

 たくさんの視線が私へ向けられた。

「佐藤千春さんです」

 私は教壇の横へ立ち、深呼吸を一つした。

「……佐藤千春です。よろしくお願いします」

 一礼すると、教室のあちこちから拍手が聞こえた。

「よろしくー!」

「枚方へようこそ!」

 そんな声に、少しだけ頬が緩む。

「佐藤さんの席は窓際や」

 先生に促され、私は自分の席へ向かった。

 窓の外では桜が静かに揺れている。

 席に座ると、少しだけ安心した。

 休み時間になると、何人かのクラスメイトが机の周りに集まってきた。

「前はどこに住んでたん?」

「部活とか決めてる?」

 一つひとつ答えていると、人混みの向こうから一人の男子生徒が歩いてきた。

 背は少し高めで、どこか穏やかな雰囲気をまとっている。

「俺、桜井和」

 柔らかな笑顔を浮かべる。

「困ったことあったら言うてな」

 それだけ言うと、小さく手を振って自分の席へ戻っていった。

 無理に話を広げることもなく、友達との会話へ自然に戻っていく。

 私はその背中を、少しだけ目で追った。

 春風が窓から吹き込み、机の上のプリントをふわりと揺らす。

 知らない学校。

 知らない人たち。

 それでも。

 ほんの少しだけ、この場所で頑張ってみようと思えた。