朝の光が、京阪電車の窓をやわらかく照らしていた。

 昨夜まで降っていた雨は上がり、淡い青空がゆっくりと広がっている。

 窓の外を流れる景色は、少しずつ知らない街へ変わっていった。

 桜が咲いている。

 川沿いを歩く人。

 自転車で駅へ向かう学生。

 開店準備をする商店街。

 どれも、今日も変わらない朝なのだろう。

 でも、私だけは違った。

 服のポケットへ手を入れる。

 指先がお守りに触れた。

 小さく息を吸う。

 それだけで、不思議と心が落ち着いた。

『まもなく、枚方公園前。枚方公園前です』

 車内アナウンスが静かに響く。

 私は窓の外へ目を向けた。

 ゆっくりとホームが近づいてくる。

 春の陽射しを受けた駅が、穏やかにそこにあった。

 電車が止まり、扉が開く。

 ふわりと風が吹き込む。

 どこからか桜の香りがした。

「……ここが、枚方」

 小さく呟き、ホームへ降り立つ。

 キャリーバッグの車輪が、コロコロと音を立てた。

 改札を抜けると、駅前には人の流れがあった。

 スーツ姿の会社員。

 制服姿の高校生。

 買い物袋を提げた年配の夫婦。

 誰もが当たり前のように歩いている。

 その中を、私は少しだけゆっくり歩いた。

 久しぶりの枚方市。

 だけど、不思議と息苦しさはなかった。

 駅前のロータリーを抜けると、迎えに来ていた女性がこちらへ軽く手を振った。

「千春ちゃん?」

 柔らかな笑顔だった。

「は、はい」

「おばあちゃんのお葬式ぶりやなあ。とおかったやろ?今日からよろしくな」

 少しだけ関西弁の混じる優しい声だった。

 私は頭を下げる。

「よろしくお願いします」

「そんな固くならんでええよ。荷物、持とうか?」

「大丈夫です」

「そっか。ほな、一緒に帰ろか」

 "帰ろか"

 その言葉が少しだけ耳に残った。

 まだ来たばかりなのに。

 帰る場所なんて、まだないと思っていたから。

 駅から十分ほど歩くと、一軒の古い建物が見えてきた。

 木の看板には、

*──つむぎ*

 と書かれている。

 格子戸の向こうから、出汁の香りがふわりと漂ってきた。

「ここが、つむぎ」

 珠代さんが暖簾をくぐる。

「ただいまー」

 店の奥へ向かって声をかける。

 その一言が、とても自然だった。

 私は少し戸惑いながら後に続く。

 木の床は歩くたびに小さく軋み、窓からは柔らかな春の光が差し込んでいた。

「荷物は二階に運ぼか」

 珠代さんは階段を上りながら振り返る。

 二階には小さな廊下があり、その奥の部屋の襖を開けた。

「ここが千春ちゃんの部屋やで」

 六畳ほどの和室だった。

 窓際には机がひとつ。

 小さな本棚。

 押し入れ。

 決して広くはない。

 でも、きれいに掃除されていた。

 窓を開けると、春の風が静かに部屋を通り抜ける。

 その先には、大きな桜の木が見えた。

「気に入ってくれた?」

 珠代さんが少し照れくさそうに笑う。

「……はい」

 自然と、その言葉が出た。

「今日からここが、千春ちゃんの家や」

 その言葉に、私は返事ができなかった。

 "家"

 その響きが、少しだけ遠く感じたから。

「まあ、ゆっくり慣れていったらええ。お昼できたら呼ぶな?」

 そう言って部屋を出ていく。

 襖が静かに閉まる音がした。

 私はキャリーバッグを開け、制服や本を少しだけ棚へ並べる。

 知らない部屋なのに、不思議と静かだった。

 作業を終え、窓際へ腰を下ろす。

 風が吹くたび、桜の花びらがゆっくりと舞っていた。

 その景色を見つめながら、私はそっとお守りを握る。

 明日から、この街で暮らす。

 明日から、この街で笑えるだろうか。

 答えはまだ分からない。

 それでも窓の外では、桜が何も言わず春風に揺れていた。