六月の風は、窓を開けた教室をゆっくりと通り抜けていく。

 黒板には今日の日付。

 時計の針が昼を告げると同時に、教室は一気に賑やかになった。

 弁当箱を広げる音。

 椅子を引く音。

 あちこちから笑い声が聞こえてくる。

「千春、お昼食べよ。」

 萌恵が当たり前のように隣の席へやって来た。

「うん。」

 千春も鞄から弁当箱を取り出す。

 こうして誰かと昼食を囲むことにも、もう少しずつ慣れてきていた。

「もう六月やもんなぁ。」

 萌恵は窓の外を眺めながら卵焼きを口へ運ぶ。

「あと一か月もしたら夏休みやで。」

「早いね。」

 転校してきたばかりだと思っていたのに、時間は思っていたより早く流れていた。

「千春は夏休み、予定ある?」

「うーん……。」

 少し考えて首を横に振る。

「つむぎのお手伝いかな。」

「真面目やなぁ。」

 萌恵は笑う。

「一日くらい遊ぼうよ。花火とか、お祭りとか。」

 その言葉に、千春は少しだけ目を丸くした。

 誰かと夏休みの約束をするなんて、いつ以来だろう。

「……うん。」

 自然と笑みがこぼれる。

「楽しみ。」

「よっしゃ、決まり!」

 萌恵が嬉しそうに手を叩いた、その時だった。

「藤岡、ちょっと職員室まで来て。」

 廊下から先生の声が聞こえる。

「えぇー、今?」

「すぐ終わるから。」

「はーい。」

 萌恵は慌てて立ち上がり、

「千春、先食べといて!」

 そう言い残して教室を飛び出していった。

 急に静かになる。

 周りは賑やかなのに、自分の席だけ少しだけ時間がゆっくり流れているようだった。

「佐藤さん。」

 聞き慣れた声がして顔を上げる。

 和が弁当箱を片手に立っていた。

「ここ、ええ?」

「うん。」

 向かいの席へ腰を下ろす。

 二人だけで話すのは、まだ少しだけ照れくさい。

 けれど、不思議と気まずさはなかった。

 窓の外では、白い雲がゆっくり流れている。

「夏、好き?」

 和がぽつりと聞いた。

 千春は少し考える。

「……暑いのは苦手。」

「一緒や。」

 和が笑う。

 つられて千春も笑ってしまう。

「でも。」

 和は窓の外へ目を向けた。

「夕方は好きやな。」

「夕方?」

「淀川の土手。」

「風が吹いて気持ちええねん。」

「夕焼けもきれいやし。」

 その景色を思い浮かべるように話す横顔は、どこか楽しそうだった。

 千春も京阪電車の窓から見える夕暮れを思い出す。

「……私も好き。」

 小さく答える。

「電車から見る夕焼け。」

「なんか、一日が終わるって感じがして。」

 和は少し驚いたように千春を見た。

「分かる。」

 短い一言。

 それだけなのに、胸の奥が少しだけ温かくなる。

 同じ景色を好きだと言ってくれる人がいる。

 それだけで、その景色が少し特別に思えた。

「そうや。」

 和がふと思い出したように言う。

「夏休み、写真いっぱい撮りたいねん。」

「海とか?」

「海もやし、ひまわりとか花火とか。」

「夏しか撮れへん景色ってあるやん。」

「だから毎年楽しみ。」

 好きなものを話している時の和は、いつもより少しだけ子どものような表情になる。

 千春はそんな表情を見て、小さく微笑んだ。

「桜井くん、本当に写真が好きなんだね。」

「うん。」

 照れくさそうに笑って頷く。

「たぶん、一番好き。」

 その言葉には迷いがなかった。

 その時だった。

「ただいまー!」

 萌恵が元気よく教室へ戻ってきた。

 二人を見て、にやりと笑う。

「あれ? 二人で何しゃべってたん?」

「別に。」

「なんでもない。」

 二人の声が重なる。

 一瞬だけ教室が静かになり、三人とも顔を見合わせた。

 萌恵が吹き出す。

「なにそれ。息ぴったりやん。」

 千春と和は同時に目をそらした。

 照れくさそうに笑う二人を見て、萌恵はますます楽しそうに笑う。

 窓の外では、初夏の風が校庭の木々を優しく揺らしていた。

 もうすぐ夏が来る。

 そんな予感だけが、教室いっぱいに静かに広がっていた。