六月に入り、校庭の木々はすっかり緑を濃くしていた。

 梅雨入りはまだ先だというのに、朝から空には薄い雲が広がっている。

「今日は降るんかな。」

 登校してきた萌恵が窓の外を見ながら呟いた。

「天気予報では夕方からやったで。」

 誰かが答える。

 千春も窓の外へ目を向けた。

 雲の切れ間から薄い光が差している。

 雨は、まだ降っていなかった。

     ◇

 授業はいつも通り進み、昼休みには萌恵と他愛もない話をして笑った。

 少し前まで教室の隅で一人過ごしていた自分が、誰かと一緒にお弁当を食べている。

 そんな何気ない変化が、不思議だった。

 ふと視線を上げると、教室の窓際で和が空を眺めていた。

 その横顔はどこか穏やかで、風景を見ているというより、空の色を覚えようとしているようにも見える。

 千春は何となくその横顔を見つめたあと、すぐに視線をお弁当へ戻した。

     ◇

 放課後。

 終礼が終わる頃には、空はすっかり灰色に染まっていた。

「やっぱ降ってきたなぁ。」

 昇降口へ向かう途中、窓ガラスに小さな雨粒が当たり始める。

 ぽつ。

 ぽつ、ぽつ。

 春の終わりを惜しむような、静かな雨だった。

 千春は鞄から折りたたみ傘を取り出す。

 傘を開こうとした、その時。

 耳の後ろが、ちくりと痛んだ。

 ほんの少しだけ。

 髪の内側へ指先を添える。

 すぐに手を離し、何事もなかったように傘を開いた。

「佐藤さん。」

 後ろから声がした。

 振り返ると、和が立っていた。

「傘ある?」

「うん。」

 折りたたみ傘を少し持ち上げる。

「そっか。」

 和は安心したように笑った。

「ならよかった。」

 二人は校門を出る。

 雨は細く、街全体を淡く霞ませていた。

 アスファルトから立ちのぼる雨の匂い。

 傘を叩く優しい音。

 行き交う人たちも、どこか足早になる。

 しばらく並んで歩いていると、不意に千春の歩みが少しだけ遅くなった。

 耳の後ろが、また小さく疼く。

 顔をしかめるほどではない。

 けれど、心の奥が少しだけ曇るような感覚だった。

「……。」

 和はその変化に気付いた。

「佐藤さん。」

「……なに?」

「大丈夫?」

 一瞬だけ間が空く。

 千春はすぐに笑顔を作った。

「うん、大丈夫。」

 それ以上は何も言わない。

 和も、何も聞かなかった。

「そっか。」

 ただ、それだけ。

 二人はまた歩き出す。

 会話は途切れたままだった。

 けれど、その沈黙は不思議と気まずくはなかった。

 駅へ向かう道の紫陽花が、雨に濡れて静かに色づいている。

 和はその花へ目を向け、小さく足を止めた。

「きれいやな。」

 千春もつられて立ち止まる。

 雨粒をまとった紫陽花は、晴れた日よりも鮮やかに見えた。

「……ほんとだ。」

 それだけ言って、また歩き出す。

 枚方駅が見えてきた。

「じゃあ、また明日。」

 和が軽く手を挙げる。

「うん。また明日。」

 短い挨拶を交わし、それぞれ別の改札へ向かう。

 ホームへ上がると、京阪電車がゆっくりと滑り込んできた。

 窓越しに見える街は、雨で少しだけ滲んでいる。

 千春は耳の後ろへそっと手を添えた。

 痛みはもうほとんど残っていなかった。

 それでも、小さな雨音だけは胸のどこかに静かに降り続いていた。