空を見上げると、いつから降り始めていたのかもわからない細かな雨が、頬へ静かに落ちてきた。

 春の雨は冷たくない。

 それなのに、身体の奥へゆっくりと染み込んでくるような冷たさがあった。

 濡れたアスファルトが街灯の光をぼんやり映し、遠くを走る車のタイヤが水を跳ねる音だけが、静かな夜へ溶けていく。

 私は傘を持っていた。

 それでも、開こうとは思わなかった。

 ぽつり、と一粒の雫が耳の後ろを伝う。

「……っ」

 その瞬間だった。

 耳の奥が熱を持つように疼く。

 息が止まり、胸の奥がきしんだ。

 大丈夫。

 大丈夫だから。

 そう呟くたび、雨音だけが静かに近づいてくる。

 ――ごめん。

 誰かの声。

 小さくて、震えていた。

 冷たい地面。

 雨に濡れたアスファルト。

 差し出された、小さな手。

 その先だけが、どうしても思い出せない。

「……っ」

 私は制服のポケットへ手を入れ、小さなお守りを強く握りしめた。

 少しずつ呼吸が戻ってくる。

 耳の奥の痛みも、ゆっくりと遠ざかっていく。

 雨は嫌いだ。

 静かすぎるから。

 忘れたはずのものまで、そっと目を覚ましてしまうから。

 私は小さく息を吐き、もう一度空を見上げた。

 灰色の雲が、空いっぱいに広がっている。

 その向こうに春の空があることを、私は知っている。

 それでも、今はまだ見えなかった。

 雨は、何も言わず降り続いていた。