八月を待って?

 七月二十四日。
 今日は大樹(だいき)の誕生日。
 朝から家の中は、美味しそうな匂いでいっぱいだった。

「大樹、今日はごちそうだからね」

 母は台所で忙しそうに料理を作り、買ってきたばかりのケーキを冷蔵庫へしまう。

「やった!」

 大樹は朝から落ち着かなかった。

 今日は誕生日。年に一度、大樹が主役になれる日だ。

 居間では祖母がいつか見た、めんこの入った入れ物を膝に乗せて、ぼんやりと座っていた。

「おばあちゃん!」
「……?」
「ぼく、七歳になったよ!」

 大樹に呼び掛けられてハッとしたように顔を上げた祖母は、すぐさま壁の時計見上げてから、何故かもの問いたげな目で母親へ視線を向ける。

 時刻は、正午まであと二時間ちょっと。

 祖母から見つめられた母親が、エプロンで手を拭いながら言った。

「大樹はね、七年前の今日の十二時十二分に生まれたの」
「じゅうにじじゅうにふん?」
「そう。だから、あの針が十二と一〇をちょっと過ぎた辺りまでは、まだ六歳」
「えー!」

 大げさに声を上げながらも嬉しそうにはしゃぐ大樹とは裏腹に、祖母は黙ったまま時計を見つめていた。

「……あと二時間……」

 その呟きは、誰にも届かなかった。


***


 昼前。

「大樹、お皿取って、……って、あら?」

 台所から顔を覗かせた母親の視線を追って、大樹も庭を見遣る。

「ねこ……」

 縁側の向こうに、白い猫がいた。
 左右で色の違う瞳。
 金色と青色の目(オッドアイ)の、あの猫だった。

 猫は静かに大樹を見つめると、尻尾を一振りして、山の方へ駆け出した。

(……行かなきゃ)

 どうしてそう思ったのか、大樹にも分からない。
 大樹は縁側の沓脱石(くつぬぎいし)の上へ脱いでいた靴を履くと、ふらりと庭へ降りた。

 その背中を見つけた祖母が立ち上がる。
「大樹!」
 返事はない。
 大樹は(うつ)ろな目をして、白猫のあとを引っ張られるようについて行く。
 それは、とても幼い子どもの脚とは思えない速さだった。

「待ちなさい!」
 祖母が慌てて家を飛び出していくのを、母親は茫然と立ち尽くしたまま見つめていた。
 居間には、牛乳瓶の蓋で作られためんこが一枚だけ落ちていた――。


***


 林道へ入った途端、以前と同じように蝉の声が消えた。
 風の音もしない。
 木々は揺れているはずなのに、音だけが世界から消えていた。

 白猫は道の先で立ち止まる。

 その先に、一人の男の子が立っていた。

 大樹と同じくらいの年頃のその子は、古びた半ズボンに白いシャツを着て、大樹の背後――ようやく追いついて来た祖母を見つめて笑った。

「ねぇね、めんこ、持ってきてくれたん?」

 その声を聞いた瞬間、古びた箱を抱えたまま懸命に息を整えていた祖母が、瞳を見開いた。

「……茂」

 七十年以上会えなかった弟は、あの日のままの姿でそこにいた。

 祖母は茂の言葉に頷きながら、箱を開く。

 中には、牛乳瓶の蓋で作られためんこが何枚も入っていた。

「約束じゃったけぇ。ちゃんと持って来たよ。なかなかここへ来られる方法が見つけられんで、長いこと待たして悪かったね」

 祖母が箱を差し出すと、茂はぱっと顔を輝かせた。

「ほんまよ。ねぇね、全然(いっそも)ここへ来てくれんのじゃもん。めんこする約束、忘れたんかと思うた」

 嬉しそうにめんこを抱えた茂の足元へ、白猫がすり寄る。
 茂は慣れた手つきで白猫を撫でると、大樹へ笑い掛けた。

「一緒にめんこせん?」

 大樹が「うん!」と頷きかけた、その時だった。
 祖母が大樹の口を軽く塞ぐ。
 そうして腕時計へ視線を落として、秒針が進むのを、じっと待つ。
 時計の針が十二時十三分を過ぎたところで、祖母は静かに微笑んだ。

「茂。大樹はもう、こっちでは遊ばれんけん」

 茂はきょとんと祖母を見つめる。

「約束通り、ねぇねと遊ぼう」

 そう言って祖母は大樹へ向き直った。

「私はもう、沢山(よう)生きたけど――」

 皺だらけの顔が、優しくほころぶ。

「大樹。あんたはまだこれからじゃけ」

 言いながら、祖母は大樹を力いっぱい突き飛ばした。

「あんたは――《《生き》》んさい!」

「えっ!? おばあちゃんっ!?」

 眩しい光が視界一杯に広がる。

 次の瞬間。
 止まっていた蝉の声が一斉に降り注いだ。
 風が木々を揺らし、夏の匂いが大樹を包む。

「大樹!」

 母親が泣きながら駆け寄ってくる。

「良かった……! 大樹! おばあちゃんは!? 一緒じゃないの!?」

 大樹はぼんやりと今出てきたばかりの杣道(そまみち)を見つめた。

「ばあちゃん、しげるくんとめんこするって」

 母親は言葉を失う。
 スマートフォンの画面には、十二時十四分と表示されていた。


 祖母はそれっきり、行方不明になった。
 どれだけ探しても見つからず、古いめんこ一枚だけが残っていた。

 あの白猫を見かけることも、二度となかった。

 それでも大樹は、時折林道の奥へ目を凝らさずにはいられない。

 木漏れ日の向こう。
 白猫を挟んで、祖母と茂が楽し気に笑い合う姿が見える気がしたから。

 二人ははしゃぎながら、牛乳瓶の蓋で出来ためんこを弾いている。
 バシッ! というめんこの音が聞こえた気がして、大樹は小さく笑った。

 だけどもう一度目を凝らした時には、そこには誰もいなかった。

 庭で蝉が鳴いている。
 夏が、来た――。


 END (2026/07/09-2026/08/03)